episode3-1 遠き世の物語

 滝山駅から少し歩いた所にある。カフェ『Beau Lac』……意味は美しい湖。とは言っても、この立地では湖はおろか、近隣にある海すら見えないのだが。

 優雅なジャズの曲が流れる、落ち着いた雰囲気の店内、その隅にあるテーブル席で隆一とクロエは対面して座っていた。

「お互い時間ギリギリだったねー」

 一通りの注文を終えて品物を待っているとき、微笑を浮かべたクロエがガチガチに固まった隆一に言う。

「目覚ましは変な時間に鳴るわ、髪ははねまくりだわで散々だったよ」

「ふふっその時の頭見てみたかったなー」

 しばらく、他愛無い会話をしていると店員がコーヒーとレモンティーを運んできた。コーヒーは隆一、レモンティーはクロエのもとにそれぞれ置かれる。

 隆一はその黒い液体をそのまま口に含む。口の中に苦くも爽やかな味と、独特の深い香りが鼻の奥を抜けていく。

 その様子をクロエはレモンティーのカップに手を当てながら、じっと見つめている。

「ん、どうした?」

「何か変わったなーってさ」

 変わった、確かにそうかもしれない――――隆一は月曜日からの出来事を思い出した。“ブルーアイ”を運んで、銃撃に巻き込まれて、初めて『あの姿』に変身した時のこと。浩介と出会って、殺し合って、最後に看取ったあの時のことを。

「そうかな……そうかも、色々あったし」

「風邪で休んでただけなのに、色々?」

 しまった――――学校などには風邪で休んでいるということになっていることを忘れ、失言した自分に嫌気が差す。

 お互いのカップから湯気が流れ出る。

 ほんの少し、二人の間に沈黙が訪れる。しかし、その沈黙は穏やかな空気も含んでいた。

「ああ、ちょっと……色々」

「ちょっと、色々ね……まあ別にいいけど」

 そう言ってクロエは窓の外に視線を移す。視線の先には街道を歩く通行人や街路樹に泊まる小鳥がちらほら。しばらくして、持っていた携帯に視線を移す。

 やばい、これはあの時の! ――――月曜日の悪夢が隆一の脳裏をよぎる。心なしか持っているカップが冷たくなっているような気がする。先ほどまでの穏やかな雰囲気もどこかへ行ってしまったようだ。

「ああ! そうだ。そろそろ昼だし、なんか頼まない? ここの料理、美味しいんだ」

 隆一は話題を何とか持たそうとする。

「へえ……どんなのがあるのかな」

 成功だ! ――――隆一は内心でガッツポーズの一つも決めたくなった。だが、気を抜いてはいけない。何故なら、まだデートは始まったばかりだがらだ。

 青年は真剣な表情でメニュー表をクロエに見えやすいように見せる。

「サンドイッチに、ハンバーグに……」

 カフェと言う割には中々腹に溜まるメニューも取り揃えていた。何にするか普段の隆一であれば一五分ほど悩むところだが、この店は以前からリサーチ済みである。無論、何を頼むかは事前に決めていた。

「じゃあ、俺は特製スープセットにしようかな」

「私もそれで」

 隆一は店員に声を掛け、オーダーを伝える。店員は愛想のいい返事をして軽く頭を下げると奥の方へと歩いて行った。

 しばらくして、先ほどの店員が二つのトレーを器用に持ちながらテーブルに歩いてくる。そして隆一とクロエの前にパン、サラダ、スープ、ハンバーグがそれぞれ置かれていく。スープとハンバーグからは食欲をそそらせる香ばしい香りとともに湯気が立ち、口の中に唾液がとめどなく溜まってくる。

「このスープ……」

 クロエはハンバーグよりもスープに注目している。不揃いな様々な野菜が入った魚介系の出汁のスープに。

「じゃあ、いただきます」

 隆一は手を合わせてスープに口をつける。野菜と魚介系の出汁が口いっぱいに広がり、その素朴ながらも優しい味に隆一はどこか懐かしさを覚える。

「このスープさ、なんかこう……懐かしい味がするんだよな」

「私も……」

 青年の素朴な感想に素直な共感の意を示すクロエ。それは心からそのまま出た素直な意見であった。

「これね、私のお母さんが作ってくれたのによく似ているの……」

 クロエは顔を伏せ、声をやや震わせながら言う。

 そうか、確か今は一人暮らししてるんだっけ――――隆一はその声からクロエの内に秘めた寂しさを十全に感じとり、以前、彼女が話していた話を想起した。

「昔はよく家族みんなでお母さんが作った料理を食べるのが日課だったの……でもね、お父さんがいなくなってからは、お母さん塞ぎこんじゃってさ……ご飯も作ってくれなくなって、一人で食べるようになっちゃったし、それで、それで……」

 続きの言葉を少女が紡ぐことはなかった。その肩は小刻みに震え、手に持ったスプーンがそれに合わせて食器を叩き、一定のリズムを刻む。

 隆一は声を失った。普段あんなにも明るく振る舞う彼女がこんな闇を抱えていたとは、と。そして、

「今は、二人だ」

「え?」

「あ、いや、凄いくさいセリフだけどさ、今はこうして一緒に食べてるじゃん? 俺は竜ヶ森と、こうして一緒にご飯を食べることが出来て、嬉しいし、楽しいよ」

 青年の内からは、下心抜きに親が子どもに接する時の、いわゆる父性のようなものが沸き上がってきた。

 その言葉にクロエは若干潤んだ碧色の瞳をくりくりと見開かせ、

「ふふっ」

「な、何だよ」

 自身の顔を見て噴きだすクロエを見て、隆一は少し不貞腐れたような顔になる。

「だ、だって、隆一のその真剣な表情、何か面白いから」

「ちぇっ、あんまり性に合わないことを言うもんじゃないな」

 そう言って隆一は雑に切り離した大きなハンバーグを、大口を開けて頬張る。

「でも、ありがと……」

 隆一の瞳をまっすぐに見据え、感謝を述べるクロエ。その顔に先ほどまでの暗澹とした表情はなく、普段の妖艶な雰囲気を醸し出しながらも快活さ溢れる顔に戻っていた。

「お、おう」

 その煌めいた碧色の目を直視できず、隆一は目を逸らしながらスープを口に運ぶ。

 その後は、ぎこちないながらも、他愛無い話を笑い、料理に舌鼓を打った。



「ねえ、この後はどうするの?」

「この後は滝山ポートタワーに行こうかなって」

 隆一とクロエは公園のベンチに座り、この後の予定について話していた。

 隆一はこの街の景色を一望できる場所へと連れて行こうと考えていた。観光名所としても著名である上、カップルのデートスポットとしても人気のある所であるからだ。

 そして夕日を見ながら告白をした男女は……――――隆一は妄想を膨らませる。

 しかし、時刻はまだ夕日の出る時間にはまだ早い。そのため、タワーから近いこの公園で少し時間を潰そうと思ったのだ。

「ああ、何か自販機を買ってこようか?」

「うん、じゃあお言葉に甘えてミルクティーお願い」

 クロエはそう言うと自身の分の小銭を渡してくる。隆一はこれくらい払おうかとも思ったが、言い出す前に渡されてしまっては何も言いようがないため、そのまま自販機へと歩いていく。

 それほど離れていない自販機であったため、すぐに到着した。

 隆一は黒いラベルの貼られた無糖のコーヒーを選び、その左二つ隣にあった白に花をあしらったミルクティーを選んだ。

「ほい」

「あ……ありがと」

 何かを見つめながら惚けていたクロエの目の前に白い缶を差し出すと、はっと我に返り、それを手に取った。

「ん、どうしたんだ?」

 隆一はクロエの隣に座り、コーヒーを啜りながら何を見ているのか聞く。

「あれ」

 その視線の先にあるものを指差す。その先には噴水の前に集まる大勢の子ども、そしてその中心にいる紙芝居の道具を持った、柔和な笑みを浮かべる背筋の伸びた高年の男性がいた。老人は子どもたちががやがやと思い思いに大声を上げているのを手を叩き、鎮める。そして拍手が始まる。

 老人のしわがれた力強い声が辺りに響く。


『龍と森の姫』

「これは、遠い遠いあるところの物語。その遥か昔、魔物の国と人間の国が争っていました」

 紙が捲られる。水彩絵具で描かれた柔らかなタッチの人と魔物と言うよりは動物の絵が描かれていた。

 そして紙が捲られ、柔らかな絵柄の龍とナニカが対面した絵に変わる。

「魔物の王は親友であった龍にこう言いました」

『龍よ、この国で一番強い私の次に強いお前ならば、あの憎き人間の王を殺せるのだろう?』

『はい』

 大空を飛ぶ、黒い龍の絵に変わる。

「王の命令で、龍は人の国がある森へと飛び立ちました。龍は大きな、大きな黒い翼をばっさ、ばっさとはためかせて大空を飛びました」

「だんだんと人間たちの住む森の大きな、大きな一本の木が見えてきました。その森の湖では、一人の美しい女性が龍を待っていました」

 そして、湖を背景に一体の龍と一人の女が描かれた絵へと移る。

「それは、この世界の人間で一番美しいと噂される人間の国の姫でした」

『父を殺しに来たのですね?』

『ああ、そうだ』

 心なしか男の声に力が入っていくように感じた。

『では、何故そのように悲し気な目をしているのですか?』

「龍は透き通る湖に映る自分の顔を覗き込みました」

 絵が変わり、湖に映る龍の顔の絵になる。その顔は涙が浮かんでいた。

「その瞳からは涙が流れていました」

『何故私は涙を流しているのだろう』

『それは貴方が戦うことを嫌がっているからです』

『私が?』

『そうです。貴方は本当はとても優しい人で、貴方の心は人を傷つける度に泣いているのです』

『そうだったのか……』

「龍は今までの自分を振り返りました」

 それに合わせて老人の声と顔も沈んでいくように見える。

 子どもたちの顔も真剣な顔つきになり、物語の世界へと入り込んでいく。

『ああ、私は何て愚かだったのだ』

 絵の中の美女は龍に手を差し伸べ、

『貴方が自分を許せる時が来るまで、共に生きましょう』

「しかし、龍はその手を取りませんでした」

『君の気持ちはとても嬉しい。だが、私は王と、いや、友と決着をつけなければ、私は自分を許すことはできない』

『分かりました。私はここで貴方を待っています』

「再び龍は魔物の国へと戻りました」

 そして、龍と魔物の王は対面し、

『龍よ、人の王の首はどうしたのだ?』

『王よ、部下として、そして貴方の友として、言いたいことがあるのです』

『なんだ?』

「王は龍に興味津々な顔になりました」

『人との戦争を止めていただきたいのです。争いは虚しいだけです」

『ダメだ。人間は嫌いだ、それに信用が出来ない』

「しかし王は龍の話を聞こうとしませんでした」

『では、力づくで止めて見せます』

『よかろう』

 そして、王と龍が戦う、というよりは喧嘩すると言った方が近い絵に変わる。

 子どもたちもその様子に見入る。

「龍と王の戦いは三日間にも及びました。そして、最後まで立っていたのは龍でした」

『私が間違っていた。争いは確かに無益だ。すまなかった』

「王は自分の考えを改め、龍に謝りました」

 終幕、二つの国を背景に、一匹の龍と美女が並んでその二つを眺めている。

「こうして戦いは終わり、魔物の国と人間の国に平和が訪れました。やがて龍と姫は添い遂げ、子どもとともに幸せ暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」



 その終わりの言葉とともに、子どもたちを始めとして、聞いていた者たちから拍手が上がる。その観客の中には隆一とクロエの姿もあった。

「へえ、結構よかったなあ」

 ベンチに戻った隆一は隣に座ったクロエに言う。

「そう? 私はあまり好きじゃないわ……」

 クロエの表情はカフェにいた時と似たような雰囲気を纏わせ、苦虫を噛み潰したのを堪えるような顔をしている。

「だって、」

「だって?」

少女は重い唇を持ち上げ、沈んだ声で呟く。

「現実はあそこまで、良いものじゃないから……」

「それって、どういう……」

 続きの言葉を紡ごうとする。そこへ、

「やあ、どうだったかな」

 先ほど紙芝居をしていた老人が、先ほどまでと変わらぬ柔和な笑顔を浮かべ、道具一式をキャリーカートで引きつつベンチに近づいてくる。

「ああ、さっきの紙芝居をやっていた!」

「良かった、やっぱり見ていてくれた子たちで間違いなかったようだねぇ」

 老人は気品さを漂わせながら、さらに深い微笑みを浮かべた。

 隆一はその表情を孫を見る時のものに近いように感じた。

「私の名前は柳沼、時々ここで紙芝居をしている者だ。良かったら君たちの名前を教えてくれないかな」

 柔和な笑顔の底に確かな知性と繊細さを兼ね備えた、一種のカリスマ性のようなものを隆一は感じ取る。その隣で柳沼を睨みつけるクロエには気づかず。

「僕は、滝上隆一って言います! こっちは、」

「竜ヶ森です」

 不機嫌というよりは、柳沼に警戒心を抱いているといった方が近いだろうか。初めて会う人間がいきなり話しかけてくれば、そう思うのも仕方ないと隆一は考えた。同時に人の出会いとは、そういうものだとも。


 これは、裏切りの物語。その出会い。

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