episode2-8 幸福の時/後之巻

 埃をかぶった作業機械に繋がれたパイプに強く叩きつけられ、管は無残な音を上げて奇妙な形にへしゃげ、それは閑やかな廃墟に反響する。

 骨が軋むような感覚と背中を車で撥ねられたような激痛が奔り、意識が飛びかける。

「ぐっ! 野郎! 前よりも」

「どうシたのかなあ! 隆一ィ! さっキは俺が日奈さンを助けるトかナんとカ言っテたけどォ! そンなんじゃア! ウォーミングアップにもなラないじゃないかァ! 反撃は禁止シてないんダから打っテこいよォ!」

 腹部を何度も以前よりも長くなった鉤爪の、刃の付いていない腹で殴打してくる異形。

 隆一は異形が言葉を話していることに驚きつつも、風を切り裂きながら振り下ろされる凶爪の応酬への対応で精一杯だった。加えて人間態であるために瞬発力も反応も異形よりも鈍い。

 全身が引き締まりつつも逞しさを増し、その俊敏性、強靭さ、あらゆるスペックが以前の戦闘の時よりも格段に上がっている。

「ちいっ!」

 体勢を即座に立て直した隆一は灰色の異形に向けて、渾身の力を込めてこぶしを振り上げる。だが、

 隆一、僕はね! ――――

 浩介の笑顔が、目の前の唾液を垂れ流しながら醜悪な顔を歪ませる異形と重なり、こぶしは勢いを止めてしまった。

「どうしタんだよウ! それジゃあ、駄目だロう! ちャんト僕の練習相手になラなきゃア!」

 浩介だった怪物は、隆一をその豪腕で弾き飛ばす。隆一の身体は勢いよくタイルに叩きつけられ、タイルは粉々に砕けて周囲に四散し、砂ぼこりが舞う。

 本当にお前の中の本当のお前は死んだのか? ――――

 口の中が切れたのか、内蔵にダメージを負ったか、あるいは両方か、口の中が血の塊で満たされた。隆一はタイルに血反吐を吐き捨てる。赤黒い液体はタイル片と砂に混ざりながら床を汚す。

「次はコれだァ!」

 灰色の怪物は自身の体色と同じ、六つの円筒から白い煙を大量に放出する。それはまるで巣を攻撃された蜂の群体のように隆一へ物凄い勢いで向かっていく。

「――ッ!」

「やばいっ!」

 危険を察知した隆一は右方へ跳ぶ。

 粉末は導火線のように炎の閃光を瞬かせ、元いた場所は炎と轟音を上げて吹き飛んだ。爆風によってタイルや工作機械の破片が辺り一面に吹き飛び、タイルや壁、天井、そして隆一の身体を傷つける。

「ぐ、ぐう!」

 左わき腹にこぶし程の大きさのコンクリート片が勢いよく当たり、鈍痛が走る。

「隆一くぅん? さっきから全然反撃してないじゃないかあ? それじゃあつまらないなあ……? じゃないと……この人がどうなっても知らないよ?」

 【幻相】は段々と声を冷たくしていき、日奈の首をステッキの先で撫でる。日奈の首の薄皮がうっすらと切れて血が滲んだ。

「ひ、ひい!」

 日奈は恐怖の呻き声を上げる。

「ちっくしょおおおおおお!」

 隆一は大地を踏み砕くように走る。タイルには足の形に広がって細かな亀裂が入り、細かな破片が飛び散った。

「――ッ! ――ッ! ――ッ!」

 三本の炎の閃光が燦然と輝きながら軌跡を描き、隆一の脇を走って服を焼き裂いた。

「おらあああああああああ!」

 自らの肉を焦がす鋭い熱の痛みは、身体から分泌されるアドレナリンによって誤魔化される。

 隆一の体の奥底から、秘めた熱が湧き起こり、全身を、特に左腕を巡る。

「ヤっと本気にナったァ……でもネぇ」

 愚直で直線的な走りに異形は乾いた笑いを上げ、だらんと腕を提げて無防備に見せかけつつ、凶爪を構える。

「動きガ見え見えナんだよォ!」

 命を容易く刈り取る魔の刃が、青年の身体に振り下ろされた。



 件の廃墟から離れた空き地に止められている、APCO指揮車両内は喧騒に包まれていた。黒ずくめの男、そしてターゲットに自分たちの存在がばれてしまったからである。

「荒城さん! 兄は、兄さんはどうなるんですか!」

 送られてくるカメラ映像は【幻相】とやらの指示によって途絶え、画面は黒に染まっている。しかし、同時に流れるインカムからの音声により、戦闘が行われているということは分かった。

 荒城に物凄い剣幕で詰め寄る椿姫は体のラインが隠れるほど分厚い黒いインナースーツを身に纏っている。それはインナースーツというよりは無駄をそぎ落としたボディーアーマーといった方が近い。

「まあ待て、落ち着け滝上。お兄さんと人質のことはこちらで何とか対策を考える。あの男がどのようにして我々の存在に気づいたのかは分からないがな。君は出撃の準備を整えるんだ。」

 上司の真剣な眼差しに椿姫はトレーラー内に併設された装甲鎧のデッキへと戻った。

 雀の巣のようになった己の頭髪を掻きながら荒城は思考を巡らせる。

 コンソールデッキに送られてくる音声からは金属がへしゃげる音や床のタイルが砕ける重厚な音、肉を殴る鈍い音が不鮮明ながら聞こえてくる。

 何故だ、何故ばれた? ――――少ない情報から荒城は道を模索する。人質、そして隆一を救う方法を。

 思い出せ、奴の言葉を、表情を――――不快な男、【幻相】の言葉を頭の中で再生する。繰り返し、何度も、何度も。

 繋げろ、推測しろ――――荒城はかつての上司から学んだ言葉を思い出す。今の自分を創り出した、今は亡き、恩人の言葉を。 

 脳裏を一筋の電流が奔る。

「……! そうか、滝上! 出撃準備を急げ、今から作戦のデータをアディールに送る。各隊員はドローンからカメラを外し、マイクを設置して、周囲に展開、あの食えない男に一泡吹かせるぞ!」

『了解!』

 隊員たちが一斉に気合の入った返事をする。

 これは分の悪い賭けだが、今はこれしかない! ――――



 件の建物を一望できる廃ビル、その最上階で、藍色の鉄人は静かに陽の光を反射しながら佇んでいた。その二つの瞳は輝いていない。

〈こちら滝上、定位置に到着〉

『了解、合図をするまでそのまま待機せよ』

 廃墟の中で、四つの影が見える。凡そ人には見えない影と、それと格闘する影。震える影と愉快な動きをする影。だが椿姫にはそれらが実際に見えている訳ではない。音を視覚化して創り出した映像である。

 兄さん、待っていて必ず私が助けてあげるから――――少女は静かに誓う。

 藍色の鎧は自身の体躯よりも長いライフルを、窓枠に二脚を刺して固定し、はるか遠く下の廃墟にその銃口を向ける。

 


「動きガ見え見えナんだよォ!」

 隆一、迷ったら、自分の心に従いなさい。それがたとえどんな結果になろうと、悔いの残らない選択をすること――――

 ああ、わかったよ、母さん――――青年は迷わない。ただ、まっすぐに進んでいく。

 体から蒸気があふれ、力が漲る。

 死を孕んだ禍々しき刃が風を切り、青年の体躯を肉薄する。たとえ人を超えた人であっても当たればその肌を、肉を、骨を、容易く切り落としてその命を奪うだろう。

 それが人の姿をしているならば、必ず。

「な、ナんでェ!」

 死の鉤爪は蒸気によって遮られる。いや、正確には蒸気を発するその中心、隆一の左腕によって防がれた。白亜の甲殻を纏った魔人の腕に。

「ほう、あの注射器がなくても気力だけで部分的に変わることも可能なのか。浩介くん以上の当たりだねえ……。性質的には私たちにとても近い……やはり、“王の祝福”は私たちが測れない……可能性に満ち溢れている……」

「もう、何でこんなことに……」

 【幻相】は隆一の、いや、魔人の左腕を今まで以上に興味深く見入り、日奈は己の置かれた状況を嘆く。

「うらぁ!」

 白亜の甲殻は轟音を上げる蒼い雷を帯びながら灰色の怪物の腹を殴打する。その衝撃で獣は後ろに吹き飛ばされる。

 それに合わせて異形の円筒からは白い塊がぼとりと落ちた。

「痛いじゃナいか! そレに君が姿を変えルのはまだ許可しテないじゃないかア! 【幻相】ォ!」

 背後にいる【幻相】に向かって叫ぶ。そこに先ほどまであった強者の余裕は見えない。

 黒ずくめの男は不快そうに顔を歪ませ、

「呼び捨てはやめて欲しいんだが。……まあいい。これからが面白くなりそうだったんだがルールはルールだ。審判は常に公平であるべきだ。つまり、ルール違反には厳粛に対応する、ということになるね」

 すぐに元の端正で冷徹な顔つきに戻り、真横の女に向き直る。

「い、いやあ、聡ちゃん……助けてえ」

 日奈は命乞いをし、場にいない恋人に救いの声を出す。

 黒ずくめは陽に照らされて黒光りする杖を隆一に見せつけるように逆手に持って構える。そしてもう片方の手で桃色の携帯を持つ。

 やばい! ―――隆一がもう駄目か、目の前の命を諦めかけた時、耳に

「……! はい」

「彼氏くうん! 残念だが、彼女とはここでお別れだあ。申し訳ないが別れの言葉をささげさせる時間はぁ、なあい」

 男は口を歪ませ、笑い声をあげながら杖を振り下ろす。男の心が愉悦に満ちる。

 風を切る音とともに杖の鋭い切っ先が日奈の心臓を貫き、辺りに鮮血が舞う。

 …………。

 ……。

 ことはなかった。

 杖は真ん中から真っ二つに折れてしまったからである。

 遅れて空を震わせる銃声が届いてきた。

「何故だ“視線”は感じなかったはず……」

「うらあああああああああああああああああああああ!」

「な、ナ!」

 隆一は灰色の異形の脇を滑り込むように通り過ぎ、動揺している黒づくめの男と日奈の方へ向かって駆けていく。


「行かセないィ!」

 異形は隆一を追おうとする。が、自身に向けて飛んできた弾丸を、後方に跳んで避けたことによって、失敗に終わった。そして置き去りにされた銃声がやってくる。

 高熱を浴びた鉛の弾は異形の元居た場所のタイルを穿ち、轟音をあげて大穴を空ける。

〈行かせないわ〉

 遠く離れた廃ビルで少女は異形に向けて、聞こえるはずのない独り言を呟いた。

 鎧はライフルが生み出した反動を微動だにせず、はるか遠くの醜悪な獣を見据えている。


 APCO指揮車両にて。

 荒城は成り行きを見守りながら、自身の予想は正しかったと確信した。

 やはりだ、奴は自身を見ているモノには敏感だが、音に関してはそうではないようだ。奴はカメラには真っ先に気づき破壊したが、インカムについては言及すらしなかった。残念ながら、この舞台の勝負はこちらが貰った――――


「おらぁ!」

 隆一は稲妻を帯びた左こぶしを黒ずくめへ向けて振るう。

 【幻相】はそれを容易く避け、隆一と日奈から距離を取った。が、雷を躱すことは出来ず、ピンクの携帯がタイルに落とし、黒いコートの裾がやや焦げる。

「いやあ、驚いたよ。まさか人間がここまでやるとはねえ。折角の高いブランド物のコートが台無しだ。これ、知り合いの友だちに作って貰った特注品なんだけどねえ。……それにしても全く視線を感じなかったよ。まさか、目隠しで撃ったんじゃあないよねえ? 全く事技術の進歩において、人間という種は我々を凌駕しているようだねえ。こんなこと昔じゃあ考えられなかったよ。種明かしとは……」

「無理だろうな。花形さん大丈夫ですか?」

「た、滝上くん! その腕は!?」

 自分を固く縛り付けていた鎖をいとも簡単に引きちぎる隆一に驚き、その原因であろう腕について訊ねる。

「今は気にしないでください。この先に、紺色の服を着た警官みたいな人たちがいますから、そこまで走ってください!」

「え、ええ!」

 ドアへと向かう日奈の背中を守るように後方を数歩ほど開いて守りつつ、灰色の異形と黒ずくめの男【幻相】を睨みながら牽制した。三十秒ほど経ち、隊員に保護されたのを確認すると、隆一は再度、灰色無地の注射器を取り出した。

「おっと、ゲームはここで終わりのようだねぇ……私はここで失礼させてもらうよ。また、いずれどこかで会うこともあるだろう。忌々しき君の指揮官にも伝えておくよ。……ではまた、次の機会に」

「おい、待て!」

 仰々しく、舞台の役者のような振る舞いをすると、隆一の追跡も虚しく【幻相】は影に融けて消えた。

「何シてくれテるのカなァ! ――――――――――!!」

 灰色の獣は怒りを露にして、雄叫びを上げる。機械は叫びによって震え上がり、砂埃は獣を中心に捌けていった。

 知性を得た獣は再び野生へと還っていく。

「浩介……これで、終わりにしよう」

 今度こそ、青年は液体を体内に流し込む。全身が沸騰するような感覚が奔り、体中を熱と高揚が満たして行く。雷を纏った渦雲が隆一を中心にして発生し、渦からは轟音を上げる激しい風が吹き荒び、周囲の砂ぼこりを巻き上げ、タイルを大量の雨で濡らす。激しい稲妻は天井の蛍光灯を割り、作業機械と火花を散らした。

 風が止み、雲が晴れわたり、その姿が太陽の下に晒される。

「…………」

 白き魔人は泰然とそこにいた。

 白亜の鎧は陽の光を浴びて雪のように淡く白く輝き、左眼は燦爛と紅く発光しながら、変わり果てた友の成れの果てを見据える。

「隆一ィィィィィィィィィィィィ!!」

 異形の怪物は脈打つ白い噴煙を体の周りにまき散らしながら、魔人へと突進する。


〈これじゃあ、撃てないじゃない!〉

 遠くの寂れたビルから椿姫は舌打ちをし、ライフルに安全装置を掛けて遠隔で他人には撃てないようにロック状態に設定、左腕のワイヤーを固定して最上階から一気に降下、隆一たちのいる遠く離れた廃墟まで走り始める。


「…………」

 吐き気を催すような臭いを放つ唾液と生を孕んだ粉末を垂れ流しながら向かってくる醜悪な異形の目に知性の輝きは見えない。

 今いるのはただの獣。断じて、勉強が好きだった少年ではない。

「――――――――――――!」

だが、

 お前は本当に消えたのか? ――――目の前の本能のままに赴く獣に魔人は動揺を隠せない。

 その一瞬が、命取りであった。

「…………!」

「反応ガ鈍ってるよォ!」

 異形は魔人の身体を鉤爪で勢いをつけて袈裟切りにする。

 辛うじて振り下ろされた爪は腕で受け止めることができ、腕の甲殻の部分が裁断されることはなかったが、生み出された衝撃はタイルに一五メートルに及ぶ二本の傷跡を引き、クッション代わりの作業用機械は魔人の形をかたどった奇怪なクレーターが生まれた。

「……ウゥ……」

 奇妙なオブジェと化した機械の下で、身体そして心に傷を与えられた魔人はうずくまる。不動産での戦闘時の比ではない激しい痛みが全身を駆け巡った。その上から砂埃やボルト、剥がれ落ちた錆などがぽろぽろと落ちていく。

 倒れ伏せる魔人に異形は白い噴煙を上げながら、ゆっくりと近づき、その頭を器用に持ち上げて悪臭を放つ口を開けた。

「何ガ、俺の知っテる浩介ハもういナいだよ。……君は初メからコの“ボク”とシか出会ってイないンだよ。こレシか知らナいんダよ、分カった気ニなってイるだけダったンだよ! 君ハさァ!」

 僕は浅見浩介と言います――――

 やっぱり勉強をしてる時が一番好きだな。だって――――

 日奈さん。ここは? ――――

 兄さんと日奈さん、お似合いでしょ? ――――

 あはは! 何それ。隆一、まだ一七でしょ? おじさんみたい――――

 自身の持つ少年の温かな記憶が泡の如く次々に割れていく。

 体中が猛烈な虚脱感で包まれる。

「阿久野不動産でのビリビリの蹴り、とッっっテも痛かっタよ! こンな風ニさァァ!」

 異形は掴んでいた頭を勢いよく地面に叩きつけ、タイルは魔人の顔を象った。そして地面で這いつくばった魔人をボールのように蹴り上げる。

 魔人の体躯は奇妙なオブジェを破壊して、その奥、さらに奥へと突き進まされていき、段々と勢いを削がれ、やがて止まる。だが、今回衝撃を和らげたのは、固い鉄のクッションではなかった。強烈な腐臭を放つ粘り気のあるナニカ。それが屋根から差し込んだ光によって照らされる。

 赤黒く鉄の匂いを放つ液体、それは血だった。

 驚いて周囲を見渡すと、そこには二つの土気色の肉塊が佇んでいた。そのうちの一つは先ほどの衝撃の緩衝材代わりになった者で、あばら骨がひしゃげ、胴体が不自然に窪んでいる。どちらも蛆が沸き、見るに堪えない姿であった。

 浩介、これはお前がやったのか? ――――魔人の内は情が消えて、代わりに怒りが込み上げる。白亜の鎧はぶよぶよになった死体の手を握り、震える。

「アア、そレ! ボクが最初に殺しタ人間ダよ。ヒナサンの家に嫌がらセをしタからボクが裁イたンだ。ボクはタだ悪事を働く害虫ヲ駆除したダけサ。むシろ感謝さレるべキことをしタんだよ? ……何だイ、その雰囲気ハ。ボクは悪い事なンてしちャあいなイ。そこにいルのは蟻サ……君は生マれてから一度モ蟻の一匹、踏み殺したコとがないノかい? いや、別にいイか。無いダなんて口先デはイくらデも言えるシね」

 強い粘度を持つ唾液を血で薄汚れたタイルにべっとりと垂らしながら、醜悪な笑みを浮かべ、人の倫理を完全に逸脱した精神性を発露させる異形。

それを赤き瞳はじっと見つめ続ける。

 自分の心に従いなさい――――母の優しさと力強さを併せ持った微笑み。

 白き弔い人は俯きつつ、愁然としながらも、豪然と立ち上がる。

 ……隆一――――少年の思いやりのある儚い笑顔。

 白い相貌を上げた。その紅き瞳を煌々と輝かせ、魔人の左腕と右脚は夥しい碧き稲妻が収束し、唸りを上げて閃光を放つ。

「……!」

「そんな動きいィ!」

 異形は魔人の雷を帯びた肉体を、噴煙を周りに噴出させた。廃墟は白い薄闇に包まれる。迂闊に電撃を使えば爆音を上げて大爆発し、魔人はおろか周辺の建物や人間に甚大な被害をもたらすだろう。

 だが、それは廃墟を襲う暴風雨によってかき消された。

「……」

 一体、何なんだこれは――――灰色の異形は六つの円筒からだらだらと白い液体を垂れ流し、一目、空を仰ぐ。本来あるべき穴だらけの天井は黒い渦雲によって隠され、陽の光の代わりに大粒の雨が降り注ぐ。尋常ではない。確実にその元凶である目の前の白き忌み人を睨みつける。

 雨に打たれる紅き瞳は燦爛と淡く煌めきながら、なみだを流していた。

「隆一ィィィィィィィィィィィィィ!!」

 異形は渾身の力を込めて青年の名を叫び、水飛沫を上げて魔人に最後の武器で切迫する。それは凝縮された比類なき暴力の結晶。累積したあらゆる悪徳の顕現。雨を、風を、障害となる総てのモノを切り裂いて、眼前の憎き怨敵を切り刻む、強い意志がそこにはあった。

「………………!!」

 浩介――――

 魔人は万感の思いを込めて少年の名を呼び、左腕に全身全霊を籠めて雷の刃を形成し、構える。それは洗練された玲瓏なる魂の輝き。集積したあらゆる感情の発露。闇を、霞を、破滅をもたらす総てのモノを討ち払い、碧落の親友を救い出す、確かな絆がそこにはあった。

「――――――――――――――――!!!」

「……!!」

 異形の鉤爪は魔人の右肩を、魔人の雷刃は異形の腹部に必殺の一撃を定めた。

激しい衝撃と轟音が廃墟の中に轟き、周りの人を、物を震わせる。

二つの揺るぎない思いは交錯し、衝突し、やがて嵐が止み、静寂が訪れると同時に一つの影が大地に倒れ伏した。



「浩介、浩介!」

 傷だらけの身体を厭わず、人の姿をした少年を揺する隆一。

 譲れない思いの激突は魔人が勝利したのだ。

 だが、少年の身体は胴体に大穴が開き、すでに処置をしても助かる見込みがない状態であった。そんな状態の人間に声を掛ける悲愴な青年の様子を、紺色の制服に身を包んだ者たちは黙って見守ることしか出来なかった。

「兄さん……」

 実の妹である椿姫も。

「なあ! 浩介! 浩介ェ!」

 しばらく、少年に悲痛な呼びかけを続ける隆一。そんな様子に耐え兼ねた荒城が声を掛けようとした瞬間、

「う……隆、一?」

 薄っすらと浩介の瞼が開き、青年の名前を呼んだ。

 少年は帰ってきたのだ。

「……“僕”とこうして話すのは……何日ぶりかな、あはは、ちょっと、よくわかんないや」

 今にもふっと消えてしまいそうな、か細い声であった。

「……!」

 目の前の奇跡に、隆一を含めたその場の全員が声を失う。

「……隆一」

「ああ……何だ?」

 目の端に涙を浮かべて、少年に慈愛の返事を返す。

「……携帯……貸して?」

 それは浅見浩介の最期の願い。最後の幸福な時間。



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