episode2-7 幸福の時/前之巻

 午前一一時三五分。滝上重工別棟・別棟・取調室にて。

「では浅見さん。昨日の続きのお話しをしましょうか? 貴方が阿久野不動産爆破の犯人ではないことは判明していますが、何故なにも話してくれないのか。それを教えていただけませんかね」

「…………」

 白塗りのシンプルなデザインの建築物では、慌ただしく人々が往来している。その内部のある一室で東藤と聡一郎は対面して座り、睨みあっていた。昨日の取り調べの時ほどではないが、やはり二人の間には厚い隔たりがある。

「犯人の正体。いや、化け物の正体について、貴方も知っているんでしょう?」

 東藤の言葉に先ほどまで反応を示さなかった聡一郎に、明確な心の揺らぎが垣間見える。その揺らぎを東藤も見逃しはしなかった。

「……弟は本当にいい子だった。そしてとても可哀想な子だった……」

 しばらくして、魂の抜けたような覇気のない声で壊れた再生機のように聡一郎は呟き始めた。そこには、スーツを着こなして堂々と振る舞う普段の彼の姿はどこにもない。

「生まれた時からあの子の世界はベッドの周囲だった……年の離れた兄弟で、喧嘩すらしたことがない。いや、あの子の性格では起こるはずもなかったか……もしかしたら、私が知らなかっただけなのかもしれない……あの子について」

 誰に向かって話しているのか、何を話したいのか。今の聡一郎の話は要領を得ない。しかし、東藤はその話を黙って聞き続ける。

「私がもっとあの子に付いていてあげれば、もっとあの子のことを解っていていてあげられたら……いや、もっと兄弟らしくお互いの感情をぶつけてさえいれば……こうはならなかったんじゃないか……そう、思うのです」

 それは彼の、浅見聡一郎の、一人の兄としての噴出した行き場のない後悔の念であった。

「それは……」

 言っても仕方のないことですよ――東藤は続きの言葉を紡ぐことをせず、心の内で留める。聡一郎はそんな言葉すら届いていないように、呟きを続ける。

「私は弱い男です。弟のしていたことには薄々感づいていたはずなのに、それを否定して……兄としても、婚約者としても最低な男です。いつもそうだった。人の望むがままに生き、行動してきた。これからも、それは変わらないでしょう。あの子も、日奈もそんな私を見てどう思っていたのでしょうか。情けない、意気地がないと感じていたのでしょうか」

 それは叱られた子どものような表情であった。鉄の仮面に隠された一人の男の内側。せき止めていた思いは濁流のように流れ、外に漏れ出る。

「……あの子があの注射器を持っていた時、無我夢中で取り上げました。あの時、いや今でも何を考えて注射器、“ブルーアイ”を取り上げたのか解りません。兄として弟のしたことをやめさせるつもりだったのか、それとも、弟の行った罪を私が被るためだったのか、それすらも……ここに来てからの事も、総て、全くもって、解らないのです……意味不明、ですよね……私は愚かだ」

 男は両手を擦り合わせ、それを不安げな眼差しでじっと見つめていた。

 東藤もその手を見つめるが、当然そこには何もない。ただ空っぽの男の手だけが存在するのみであった。



 午後一二時二九分。滝山市・滝中町にて。

 隆一と浩介は昼にしては人通りの少ない街路を歩いていた。時折、平日から子どもが歩いていることはすれ違う人の視線を引き付けたが、面と向かって何かを言われることはなかった。

「いやあ……撒けたねえ。隆一、結構上手いじゃない。才能あるよ、脱獄の」

「そ、そうか?」

 不名誉な才能だ。全く嬉しくない――

 じっとりと背中を不快感が撫でてくる。だが、隆一はそれを気に掛ける余裕はない。遥か後方では自分を含めた二人を監視する、不特定多数のAPCO隊員がいるのだから。そして首から下げている青い宝石をあしらった

 滝中町、その工場が立ち並ぶ区域に入って一五分。

 浩介の視線や表情はまだ道は長いということを物語っている。

「ん、ああ安心しなよ。待ち合わせ場所はもうすぐだよ」

 向けられる視線の意味を理解したのか、あるいはただ単に察しがいいだけなのか、どちらにせよ隆一にとっては朗報であった。

 それからしばらくして、工場たちのオーケストラから離れ、閑散とした錆塗れの工場が立ち並ぶ区域に入る。

「ほら、あそこだよ」

 浩介は穴が開いた錆塗れの壁。天井には細かな穴から太陽の光がプラネタリウムのように建物の中を彩っていた。進んでいくと、内部には長らく使われていないであろう埃を被った何らかの作業機械。そして、片手に細長いステッキを持った黒ずくめの男が立っている。それは隆一が木島から聞いた“ブルーアイ”の有名な売人の素性と一致した。

 程なくして、建物内に入る。

 建物の中に入るまで死角で隠れていた、白い布を被せられたナニカ。その前では二人を見て不敵な笑みを浮かべる黒ずくめの男が待ち構えていた。

 男は黒い紳士服に身を包み、暖かくなってきた春だというのに、黒いコートを羽織り帽子を目元を隠すほどに深くかぶっている。

「やあ、浩介くん。こんにちは。そこの君が……」

 美しいテノール歌手のような声で男は挨拶をしてくる。そして浩介のやや後ろに立っていた隆一を爪先から頭までじっと眺める。

 ふと光に照らされる男の明らかに日本人のそれではない端正な顔、そして不自然なほどに光る煽情的な青い瞳が見えた。

 その美しくも不気味な眼球に、隆一は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまう。

「滝上……隆一です」

 何とか返事は出来たものの、その返しはぎこちなかった。

 隆一の反応がツボに入ったのか、男はくすくすと笑い始める。

「そうか、隆一くんか……君とはとても仲良くなれる。そんな気がするよ」

 なめまわすような視線に隆一は嫌悪感を覚えるが、そんな視線を送っている当の本人は全く気にしていないようだった。

「ああ、すまない! 私としたことがつい舞い上がってしまった。許してほしい。人の名前を聞くときはまず自分から……というのがこちらの礼儀だったね。そうだな、君たちには【幻相】とでも呼んでほしいな」

 男は明らかな偽名を隆一に名乗った。

 それよりも隆一は男の後ろにある布を被ったナニカが気になって仕方がない。布の裏では明らかに何者かが呼吸をしていたからだ。

「それよりもさ、アレを」

「浩介くんは短気だねえ。仕方ない」

 【幻相】は足元に置いている鍵の付いた銀色のアタッシュケースから、ペン型の白い注射器を二本取り出した。それには予想した通り、青い目を持つ猫のイラストが描かれている。

「君にもこれをあげよう。初めての人と、資質のある人間にはタダで渡しているんだ。浩介くんのようにね」

 そう言って男は隆一に両手で注射器を一本手渡すと、隣の浩介に視線をやる。

 隆一は【幻相】から浩介の方へと目を動かす。そこには手に持った青い瞳に釘付けになり、手を震わせている浩介の姿があった。

「ああ、あとそこで見ている君たちに伝えておきたいことがあるんだ」

 男はアタッシュケースの中身を片付ける片手間に話を掛けてくる。

「……何です?」

 手に持つ“ブルーアイ”を握りしめながら、警戒心を隠さない冷え切った声で言う。

「邪魔はしないで欲しいな。これは私と隆一くん、そして浩介くんの舞台だ」

 この男は何と言った? ――――

 明らかに【幻相】の言葉は隆一の胸のカメラ付きのペンダントに向けて投げかけている。

 何故ばれた? ――――しかし、目の前の男はそれを思考させる暇を与えることはなかった。

 アタッシュケースを片付け終えた男は、愉快そうに不愉快な笑みを浮かべて後ろの白い布を取り払った。そこには、柱に括りつけられた



 ほんの少し未来、取調室から出された聡一郎は東藤、そして高水とともに本社・別棟の入り口から少し離れた所にいた。

「……本当に出してよかったんですか?」

 東藤の耳元で聡一郎に聞こえないように、高水は訊ねる。

「違法薬物所持で取り締まろうにも、本人は使っていない上に違法薬物の指定にはまだ法律上なっていないからな。まあ、犯罪幇助で上げようかとも考えたんだがな。決定的な証拠もない。証言もあやふや。それに、あんなんだろ?」

 東藤は聡一郎へ視線を向ける。

 聡一郎の顔は憔悴しきっており、見ている者の心すらも暗く蝕んでいくようであった。

「……あー」

 その表情を見て納得と言った声を上げる高水。

 ふと、聡一郎の内ポケットから女性の声が着信を告げる。胸ポケットから取り出されたのはハートのストラップの付いた黒い携帯。

「……んん。日奈かどうしたんだ?」

 男は咳払いをすると、鉄の仮面を被る。堂々かつ柔らかな振る舞い。そこに先ほどまでの脆弱な内面は欠片も見えなかった。

「……誰です?」

 聡一郎の声が一変して冷たいものになる。

 東藤はジェスチャーで通話をスピーカーに変えるように促す。それを見た聡一郎は素早く携帯を操作した。

『ああ、すまない。また名乗るのが遅れてしまった。一度ミスしたことを次はしないというのが私の長所なんだが、今日はどうも気分が有頂天になってしまっているようだ。許してほしい。ふふ、長々と喋ってしまって申し訳ないね。私は、いや、君に名乗る必要はないか。ふむ……そうだな、君の恋人を誘拐した人物とでも言うべきか、あるいは、君の弟にアレを渡した人物と言うか。まあ、どちらも真実であるから、どうでもいいことだね』

 その場にいた三人の表情が強張る。

 電話の男は愉快そうに嗤って己の所業をつらつらと述べるのだ。まるで世間話をするかのように。

『ん、ああ! すまない君に何故電話したのか言っていなかったね、目的はそうだなあ……君に電話を掛けること、そして、君にこの電話を聞き続けてもらうことかな。本当ならビデオ通話にしたかったんだが、生憎それをしている余裕はなくてね。音だけで我慢して欲しい。いや、その方が良かったかな。君のような男には刺激が強すぎるよね』

 そう言うと男の声が少しの間途切れる。代わりに獣のような荒い息と風を切るような音が聞こえてくる。そして、パチンと指を鳴らす音とともに、

『さあ、愛しの彼だ』

『聡ちゃん! 助けてえ……』

『いやあ、それは出来ない。彼にはこの様子を一切動かずに堪能してもらう必要があるからね』

 電話の男はただただ愉快そうに嗤う。その声だけで相当不快な笑みを浮かべているのは想像に難くない。

 何故こんなことに――――聡一郎は自身を取り巻く悪夢にただ絶望に染まる。

『聡一郎さんですか! 花形さんは! っちい! 俺が助けますから! 安心してください!』

 この声は浩介の友だちの、いや、そんなことよりもなぜそこに? ――――色々、考えを巡らせるが聡一郎はただ携帯の向こうにいる彼の言葉を信じるしかない。

 携帯から笑いを堪えるような音が聞こえてくる。そしてそれは決壊し、

『はははっ! 本当にいいね君は! 今のを聞いたかい? そうだな、ここは一つ賭けをしようじゃないか』



 少し前。

「花形さん!?」

 白い布で覆われていたのは花形日奈であった。白い布が膨張と縮小を交互に行っていたことから呼吸を行っていることは確かだが、人質を取られ、いるのは自分のみ、頼みの綱のAPCO隊員の存在は相手に筒抜け、この状況は将棋で言う詰みに近いものであるということを隆一は密かに思った。

「いやあ、我ながらいい筋書きを描けたと自負しているのだが、どうだろう?」

 悪趣味な奴――――口にこそしないが、隆一は侮蔑の視線を【幻相】に向ける。

「あまり、睨まないでくれないか。私は視線に敏感なんだよ」

 【幻相】は隆一の視線に合わせてにっこりと目を見開いて笑う。

「いいですねえ。燃えるよ、滾るよ。僕のリベンジには相応しい舞台じゃないか」

 浩介の顔は醜悪的な破顔をして、右腕に“ブルーアイ”を当てる。

「浩介! お前、花形さんが好きじゃなかったのかよ! お前何とも思わないのかよ! なんでこんな、こんな……」

 震える声で浩介を問いただす。

 そんな二人の様子を日奈の傍で愉快そうに観客に徹する【幻相】。

「隆一、昨日の話じゃ自分が自分でなくなる感覚について詳しく言ってなかったよね」

 注射器を己の血管に当てる、離すという行動を交互に行いながら話す浩介。

 隆一は、何故今そんな話をしているのか解らなかった。

「自分の心、魂とでも言うのかな、それがやすり削られてさあ……別の“自分”が塗りたくられるような……そんな感触が、痛みが……君にはないの?」

 ああ、やはり違う。浩介と俺は決定的に何かが違う――――自分と浩介の違い、具体的に何が違うのかは解らなかったが、隆一の胸の中には確かな否定が渦巻いている。

 だが、浩介に対して感じていたしこりの正体は分かった。

「ああ、ねえよ。そんな風に感じたこと、全然ねえよ! 認めたくなかったけど、認めるよ。俺の知ってる浩介はもういないってな! 決めた……だからせめて守る。浩介の尊厳を傷つけようとする“お前”らから」

 持っていたブルーアイを地面に叩きつける。容器が割れて砂埃塗れのタイルに、粘性を持った緑色透明な液体がじわじわと浸食していく。

「そっか、君とは“トモダチ”になれると思ったんだけどな」

 隆一は右目から涙を流しながら内ポケットから灰色の無地のペン型の注射器を取り出した。その様子も、【幻相】は笑みを浮かべながら眺めている。

「へえ、そうか。君はそれを使って“雑ざりモノ”に変身しているのか……全く、人間ときたら“禽獣草木の始祖”に対して罰当たりなことをする……まあ、私からすればどうでもいいことだがねえ」

「ねえ、【幻相】さん」

「……はあ、君は全く。ここは、このまま一騎打ちで勝負する所だろうに、まあ仕方ない。君も大切な顧客で友人だからね。じゃあ、隆一くん。胸のそれも捨ててもらおうか、舞台を盗み見るようなマナーのなっていない輩が僕は嫌いだからね……うん、よろしい。では、こちらはこちらで新たな趣向で楽しむとするよ」

 ペンダントを投げたことを確認した男は、それを勢いよく踏み砕き、足とタイルの間で擂り潰す。

 満足したような顔になると、その装束に似つかわしくないハートのストラップが付いたピンクの携帯を手にした。片手には鋭く先の尖ったステッキ。日奈の心臓にいつでも突き立てられる位置で構えている。

「そういうわけだから、隆一には少しの間、人間の姿のままでスパーリング相手になってもらうかな。じゃないと“ヒナサン”がどうなるか想像つくよね。それに、そのままでも結構動けるはずで、しょ!」

 浩介は“ブルーアイ”の内容物を身体に流し込む。浩介は身体を包む高揚ともとれる悪寒に陶酔する。肉体の奥底から熱が湧き上がってくる。血が沸騰するようだ。実際に沸騰しているのかもしれない。だが、痛みはない。恐怖も、ない。

 ああ、ボクはとても幸福だ――――

 


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