episode2-6 制御不能の現実/青年の決意

 四月二七日、午前六時一三分。滝上中央病院・VIP室にて。

「はい。こちらは大丈夫です」

 雲一つない空、朝陽が差し込み、春鳥たちが朝であることを鳴いて教えてくる。

 そんな晴れやかな早朝から隆一は陰鬱な表情で通話をしていた。相手は東藤である。その声には張りがなく、暗雲が立ち込めている。それはまるで死刑宣告を受けた人間のようであった。

『そうか、ここからは俺たちじゃなく装一、ああ、別の班とやることになったからそっちの班長と……ああ、お前はホシとの約束に集中しておけばいい。そこら辺のカバーはやってくれるそうだ。あと、その……まあ、頑張れよ』

「? はい」

 東藤のぶっきらぼうな言葉には隆一の身を案じるようなニュアンスが多分に含まれていたが、隆一にはその意味が分からず、流されるままに返事をする。傍から見ればその頭にはクエスチョンマークが浮かんでいるように見えたことだろう。

 その後、五分程度今後の行動について話し合って通話を切った。

 青年の心は揺らいでいる。今でもこれは悪夢だ。そうに違いない。そう信じたかった。

「はあ……」

 隆一は再び陰鬱とした表情でため息を吐く。そのため息には疲れと後悔が含まれていた。

 浩介は阿久野不動産爆破事件の犯人の最有力候補に上がったのだ。いや、最早、東藤たちの言葉を借りるならクロ。そう言っていい。犯人でないにしろ浩介が『シーカー』であることは確かだ。そして、浩介の言っていたあの人とは誰なのだろう。

 ふと、隆一の脳裏に木島にバイトの勧誘をした黒ずくめの男の話を思い出した。

 今はそんなことよりも“浩介との契約”の件に集中しよう。――隆一は意識を昼からのことに向ける。

 昨日の八時まで時間を遡る。



 四月二六日、午後七時四五分。滝上重工本社ビル・捜査第一班・デスクルームにて。

「浅見浩介の検査?」

 浅見聡一郎の実弟だったか――

 東藤は怪訝な顔を浮かべ、電話をしていた。

 現在、浅見聡一郎は滝上重工・別棟に設置された容疑者専用の監房に拘留されている。部屋の壁は特殊な素材を使用しており衝撃などに強い構造になっている。内装は白を基調としてベッドやトイレ、洗面台と簡素だが清潔な印象を与えられる。独房にしては豪華な造りである。

『はい、お願いします』

 通話相手は隆一。その声色はとても暗く、重々しかった。

 東藤はただならぬことがあったに違いないと考えを巡らせる。東藤はデスクに乱雑に置かれた書類の中から浅見家の情報が載ったものをがさがさと大きな音を立てて探す。慣れているのか、目的の紙束はすぐに出てきた。浩介に関する情報は彼がノーマークだったためか、すでに知っている情報しか載っていなかった。仕方ないので再び通話に戻る。

「検査には血液が必要だ。そこはどうなんだ?」

『あります』

 隆一は浩介が血を吐いていた桶を捨てると嘘をついて持っていたビニールパックに移し替えていたのだ。

「分かった。すぐに向かわせるから職員用入り口の所に……そうだな、五〇分までには着くだろう。浅見浩介には気づかれるなよ」

『はい』

 そう言って近くにいた高水に目配せをする。高水は一瞬渋い顔をしたが、すぐに車のキーを手に取って部屋を出た。それを確認した東藤はじゃあなと言って通話を切ろうとする。

『あっ待ってください。ここからも重要なんです』

 慌てて通話時間に延長を求める。東藤からは不満げな呻きが漏れたが、隆一にそんなことを気にしている余裕はなかった。

『こう……浅見と昼にある人物と会いに行くことになりました』

「ある人物だと?」

 東藤は丸めていた背中をピンと伸ばし、デスクに置かれていた適当な紙をメモ代わりにする。

『はい。詳しくは教えられなかったんですけど、恐らくは浅見に“ブルーアイ”を渡した人物だと思われます』

 物凄い速さでメモを取る東藤。その気迫に残っていた捜査員たちが釘付けになる。とはいえ、一班ではよくある光景であったため、すぐに各々の仕事に戻っていった。

「場所は?」

『それについてもまだ。明日の昼、一緒に病院からその場所に行くことになっています」

 これはまた……厄介なことになりそうだ――東藤は確実に待ち受けているであろう苦難に頭を悩ませる。

「分かった。何はともあれ検査結果が出ないことにはお前に付ける護衛の申請なり、新たな作戦なんかも立てられない。取り敢えずの所は下に降りておけ。高水が向かってる」

『分かりました。下に降ります』

 その言葉を聞くと会話は終わり、東藤はリラックスを目的にベランダへと出た。



「よし、行くか。」

 通話を終わらせた隆一は、冷蔵庫に入れていた血液入りの黒いビニール袋を取り出し、部屋から出た。誰かに見つからないか不安に駆られていたが、幸いにも警備員を含め人に出くわすことはなかった。

 職員用入り口前に立っている時は流石に人に出会ったが、紺色のスタッフジャンパーを羽織っていたおかげで詳しく聞かれることはなく、それから五分と経たないうちに見慣れた黒い車が駐車場に入ってきた。隆一はヘッドライトの光に目を細めながらもゆっくりと向かっていく。近づくと運転席側のサイドガラスが下りる。

「こんばんは~」

「やあ、こんばんは。それが?」

 隆一が手に持っているビニール袋を指差す。

「はい、そうです」

「じゃあ、こっちに」

 高水は助手席からクーラーボックスを取り出し、ビニール袋を中に入れる。一瞬受け取るときに顔が不快だと言わんばかりに歪んだが、すぐに元の爽やかな笑顔に戻る。

「ありがとう。じゃあすぐに科学研に持っていくよ」

「……はい、お願いします」

 隆一が陰鬱な表情を浮かべていることに気付きつつも、高水は深く詮索しようとはせず、サイドガラスを上げてエンジンに火を入れた。



 午後九時五七分。滝上本社ビル・研究棟にて。

 東藤は研究室前にあるベンチに深く座り、顔をしかめていた。その視線で床に穴が開きそうなほどの眼力であった。

 それから一〇分ほどが経ち、時刻は一〇時を回った。しきりに腕時計を確認しているとふいに研究室のドアが開く。出てきたのは、最近度々逢う女研究員であった。

「東藤班長、結果が出ました」

 検査結果の載った紙を持って部屋から出てくる。

「で、どうだった?」

 東藤は食いつくように研究員に近づく。その気迫に未だ慣れない彼女は若干引き気味に結果を話し始める。

「浅見ぃ、浩介ぇ……でしたか」

「ああ」

 背中に冷や汗をかきながら固唾を呑み結果を聞き入る。時間が何倍にも長く感じられた。

 こんなに心臓がどきどきするのは花咲里が出産した時と朱里の中学受験時以来だ。彼はどっちだ……――――

「検査の結果は、陽性でした。それも進行がかなり進んでいる兆候が見受けられます」

「そうか……」

 東藤にとってはただの容疑者候補に過ぎなかったというのに、その時は何故か頭から血が抜けていく感覚に陥った。隆一には何と伝えたものかという理由で。東藤は長年の勘で隆一が内心で、浅見浩介が犯人であってほしくないという感情を持っていることが分かっていたためであったためだ。

「夜遅くに、ありがとう」

「仕事ですから」

 きっぱりと言って、頭を下げると白衣の女性は研究室に再び戻る。

「さて……」

 東藤は別棟のデスクルームに向かってとぼとぼと歩き始めた。

 護衛の申請書か、はたまた装甲機動隊にこの件を任せるか、まあ、どちらにせよ先に滝上の奴に伝えるか――――晴れない気持ちを無理やり奮い立たせ、東藤は廊下を踏み進める。



 時間は戻り、四月二七日、午前七時三分。滝上中央病院・VIP室にて。

 隆一は通らない食事を水で無理やり流し込む。病院食であることを加味しても、味噌汁や焼き鮭、その他に味を感じられず、ただただ栄養を身体に与えるだけの単調な作業に思えた。

 ふと、窓の外を見る。外は青空が広がっており、流れる雲が一層その爽やかさを引き立てている。敷地に生える木々には何匹かの鳥が泊まり、鳴いて一種の音楽を奏でているようにも聞こえた。

 食事はいつの間にか終わっていた。食器を下げ、洗面台で自身の姿を見にいく。

「はあ……」

 鏡を見てため息をつく、無論自らの容姿に陶酔しているわけではない。未だに浩介が犯人でないと思いたがっている自身に嫌気がさしているからだ。

 鏡に映る自分はどこか老け込んで見えた。

 そんな時、背後からドアを開く音が聞こえてくる。

「やあ隆一! おはよう! 今日もいい天気だね!」

 浩介であった。

 浩介は昨日の夜のそれとは似ても似つかぬ爽やかな笑みを浮かべつつ、手を振りながら、隆一に近寄ってくる。それは隆一の知る浩介に限りなく近いものであった。

「お、おはよう……」

 対する隆一の返事はぎこちなく、笑みも固いものであった。そんなことは気にも留めずにどんどん距離を詰めてくる浩介。

「昼の約束忘れないでね? ああ、あと看護師の人たちには感づかれないように。これが結構難しいんだから」

 それは確かに隆一の記憶にある浩介の言葉、浩介の声色、浩介の顔である。だが、決定的に違うものがあった。それは目、今の“浩介”の目は井戸の底のようにどこまでも吸い込んでいく闇がそこにはあった。

「ああ……そうだな、気を付けるよ」

 足元から血が抜けていき、地面がぐらりと揺れるような感覚に陥る。隆一は必死にそれを押さえ、平静を保つことに専念する。心臓が破裂しそうなほど強く鼓動し、この音が目の前の“見知らぬ少年”に聞こえるのではないかと危惧するが、幸いにもそれはないようだった。

「うん。あっ、そういえば一緒にご飯でもどうかと誘いに来たんだったなぁ。まあいいや、それにもう食べちゃってるみたいだし、じゃあお昼にね?」

 少年はにこにこと笑顔を浮かべながら部屋から去っていく。隆一はその姿を見えなくなるまで黙ってじっと見つめていた。青年の背中はじっとりと汗ばみ、それによる不快感すら気にならないほど、注意は少年に引き付けられていた。

 ほどなくして、隆一は汗を流すためにシャワーへと入る。

「ちぃっ……!」

 やりきれない、もやもやとした感情を隆一はシャワー室の壁を小突くことによって解消しようとする。室内に少々重い音が響いた。

 しかし、その感情が晴れることはない。

 今度は俯いて頭から冷水を流し、鬱屈した思考を洗い流そうとするが一向にそうなることはなく、自らの体躯を悪戯に冷やすだけであった。



 午前九時三八分。滝上重工第三ドックにて。

 荒城を含め装甲機動隊、強化装甲の開発班は慌ただしく、吹き抜けになった倉庫内でそれぞれの仕事に専念していた。

 ある者たちは灰色のコンクリート壁にはめ込まれたホワイトボードの前で作戦内容のチェックを行い。また、ある者たちは複数のケーブルに繋がれた約一.八メートルの鋼鉄の人型の前でタブレットと鋼の肉体を交互に見合わせて何かを話し込んでいる。

「荒城班長。残るはシステム系の最終チェックのみとなりました。これが現在TP‐01改に搭載されている装備、また、現時点で使用可能な拡張装備になります。」

 開発主任である滝上隆次郎が荒城に近づき、白い紙束を渡す。その表紙にはTP‐01改・ADELEと書かれている。

「名前……」

「アディール、だそうです。椿姫ちゃんが密かに名前を考えていたそうで、まあ、いつまでも型番だけで呼ぶのも何ですからね。採用しました」

「……そう」

 さほど関心も寄せる素振りも見せず、荒城は紙をパラパラと捲る。

「先の戦闘でカメラの使用が……」


 時間は刻一刻と過ぎていく。

 



 時が経ち、午前一〇時二六分。

 隆一は自分の病室でカップコーヒーを飲んでいた。中の液体は牛乳と砂糖を入れ過ぎたがために、最早亜麻色にまで変色している。そんなことは気にも留めず、口をつける隆一。口の中を野暮ったい甘さが過剰に舌を刺激するが、今の彼の精神状態ではそれを気にする余裕はなかった。いや、普段と違うことをして気を紛らわせたかったのかもしれない。

 ちょうど、亜麻色を飲み干した頃だった。

 隆一の携帯に見知らぬナンバーが表示される。一瞬間違い電話かと思ったが、最近の事を加味するとAPCO関係者では、との結論が出たため、電話に出た。この時間、僅か三秒。

「はい、滝上です」

『私は荒城。君の妹くん……椿姫くんの上司だ』

 隆一にとっては知らない人物であった。いや、実は目撃はしているのだが、頭頂部の禿げた冴えないおっさんと渋い声の叔父様とが一致していない事が原因であった。

『今日は私の部隊、装甲機動隊第一班の指揮下に入ってもらう』

 単刀直入、かつ沈着冷静に事実を話していく荒城。

『看護師に扮装した職員がインカムとその他を届ける。もし、目の前にターゲットがいたならばくれぐれもばれないようにしてくれたまえ』

「はい……」

 どんよりとした暗い返事をする隆一。

 それに対して荒城は柔らかい声で言う。

『安心してくれ、君のバックアップはこちらも最大限行う。それとも、よもや君はターゲットに対して同情をしているんじゃあないだろうね?』

 冷たい氷柱のような鋭い指摘であった。

 隆一の背中に先ほどまでとは違う怖気が奔る。

『だとするならば……いや、これ以上はよそう。いかんな。つい説教臭くなってしまって』

 その言葉は先ほどまでと同じ柔らかい雰囲気に戻った。そして一度咳払いをして、

『何はともあれ、君に留意してほしいことは二つ。ターゲットへの“対処”と彼の言う“あの人”なる人物に会い、可能ならば身柄を確保すること。以上だ』

 その言葉とともに通話が切れる。

 隆一は携帯から流れるビジートーンを垂れ流しながら、しばらく放心していた。

 荒城の言う“対処”と確保。その言葉の違いが意味するものとは恐らく――――

 しばらく放心していると、背後で、ドアを開く音が聞こえた。

「あら、隆一いるじゃなあい。ノックもしたのにい」

「母さん……」

 隆一の母、美冬であった。

 美冬は上品さが漂う濃紺の和服を身につけ、手には果物を詰め合わせたバスケットを提げ、隆一に向かって歩きはじめる。

「お父さんは心配ないって言ってたけど、やっぱり母親としては心配じゃない? 昨日も来たんだけど、病室にもいないし、電話も繋がらなかったじゃない?」

「ああ、ごめん」

「あらぁ、なんだか浮かない顔をしているわねぇ……きっと悪いことでもあったのねぇ」

 いつもはのほほんとして世間話に事欠かない母であるが、時として、勘の鋭さを見せることがある。多くを語らない父も母に隠し事を隠し通せたことは一度もないほどであった。

「まあ……詳しくは話せないけど、うん」

「そう……なら詳しくは聞かないわ」

 淡々とした口調であったが、息子の考えを尊重するような、労わりを感じられた。

 美冬はベッド脇の椅子に腰を掛けるとバスケットの中からリンゴを取り出し、果物ナイフで要領よく皮をむき始める。

「……ねえ」

「ん、なあに?」

 ベッドに俯いて腰を掛け、母に内なる迷路のヒントを尋ねてみる。

「母さんは……目の前で友だちが悪いことをしてたら、母さんはどうする?」

「私? ……そうねえ」

 リンゴの赤い体は螺旋をえがき、段々と内なる白を露にしていく。

「先ずは話し合いで止めようとするわね。で、何でそうしたのか聞くわ」

 白い皿を赤が彩り、小さな山を作り上げる。

「それが無理そうなときは?」

 先の浩介の症状を見れば、話し合いで通じるような相手ではないだろう。浩介の心体にある深い闇、どう考えても穏便に済むとは思えない。

「喧嘩してでも止めて、叱るわ」

「そっか」

 隆一は窓の外を見る。美しい青空が広がり、雲が悠々と流れ、鳥が飛び交っていた。そこに浩介の笑顔を重ねる。感情が豊かで、人の幸せそうを祝福する、子どもっぽい少年の笑顔を。

「隆一」

 子気味の良い音とともに、テーブルに等分されたリンゴが置かれる。

「迷ったら、自分の心に従いなさい。それがたとえどんな結果になろうと、悔いの残らない選択をすること」

「うん、ありがとう……母さん」

 リンゴの一つを手に取り、口に運ぶ。

 とてもさっぱりとした、優しい甘さが口に広がった。

 

 

 刻一刻と運命の時間は近づいていく。

 それはきっと誰にも止められない。


 青年は心に刻み、自身に言い聞かせる。何があっても後悔はするなと。

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