episode2-5 悪魔の述懐
午後三時二四分。滝上重工別棟・取調室にて。
「いやあ、血液採取しちゃってすみませんね。これも必要なことなので。では、阿久野不動産を狙った事件の現場、その四つに居合わせていた理由をお聞かせ願えますか?」
灰色の無地の部屋にシンプルなデスクが二つ。
そこに二人の男が机を挟んで対面するように椅子に座り、一人の男がもう一つの机で調書を取る形で座っている。三人とも表情は険しく、
「浅見聡一郎さん?」
向かいにいる聡一郎に向かって東藤が厳しい口調で問いただす。対する聡一郎は口を開こうせず、俯いている。
東藤はそのことを気にも留めず、喋り続ける。
「私が言うのもアレだが、ウチの捜査班は優秀でね。貴方の周りの事を調べさせてもらいました。」
東藤はクリップで留められた白い紙束を捲る。
「浅見聡一郎、年齢二八歳。亡くなったご両親の後を継いで、大手製紙会社・浅見製紙の若き社長ですか。しかも、身体の弱い年の離れた弟さんの面倒まで見て。いやあ、泣けますねえ。」
淡々とした口調でつらつらと述べていく東藤。それを聡一郎は無言で聞き入っている。
「で、ここからが問題だ。貴方の婚約者、花形日奈さん。いや、ここまでは問題ない。だが、その実家は和菓子屋の老舗、花菱。その花菱、四か月前からあの阿久野不動産から随分ひどい嫌がらせを受けていたとか。」
追加で足されたと思われるページを開く。
「ああ、最近婚約者さんストーカー被害で警察に届けを出されてるんですねえ。しかも化物に付きまとわれてるって話だとか。だから先ほどウチにその案件が回ってきましたよ。とは言っても直に対応するのは別の班なんですがね。」
緊張のせいか、聡一郎の身体からは汗がだらだらと流れている。
「ここからは私の独り言、ただの勘です。別に貴方を犯人と言いたいわけじゃあない。ただ、貴方はこの一連の事件に何らかの関わりを持っている。深い、密接な何かを。私はそう思っているんですよ。」
額から流れた汗が机にぽたぽたと落ち、水たまりを作る。
「嫌がらせを受けている婚約者の実家の和菓子屋。嫌がらせをしているのは阿久野不動産。その阿久野不動産は最近、化物に襲われている。今日のを含めて四件も。そしてその四件全ての現場に貴方はいた。加えて、今日はこれを持って。」
東藤はビニールパックに入った中身の入っていない注射器を見せる。その注射器には青い目を持つ猫が描かれている。
俯いていた聡一郎の顔が上がり、目の前の注射器に釘付けになる。
「これ、解りますか? “ブルーアイ”。最近噂のどんな願いでも叶えてくれる魔法の薬……だったか。だが、実際はそんなもんじゃあない。人を怪物に変えてしまう悪魔の薬だ。」
東藤は鋭い視線を聡一郎に浴びせる。数瞬の後、聡一郎ははっとした顔になった。
それについて、何か思い当たったことでもあったのかと問いただそうとしたが、後方からのノック音に東藤は振り返り、ドアを開きに向かう。
「どうした?」
目の前には三件目の現場にいた女研究員が立っている。
「あ! えっと、検査結果が出ました。」
尋問を後に回すことにした東藤は、取調室のドアを閉めて廊下に出る。
「で、結果は。」
無表情ながら気迫のある顔で結果を訊ねる東藤。
研究員はその顔に恐怖し、震える手を必死に抑えながら紙に書いてある結果を答える。
「血液検査の結果、浅見聡一郎氏は陰性、ブルーアイの成分は血中から検出されませんでした。」
「何だと……。」
東藤の間の抜けた声が廊下に響く。
研究員が自身の役目は終わったと言わんばかりに、早歩きで取調室前から去っていく。
東藤は内心では聡一郎が一番の有力候補だと考えていた。検査の結果は容疑者の口を割らせる絶好の、いや、唯一の証拠だと言っても過言ではない。何しろ、今回の事件では犯人のDNAはおろか、まともな足跡すら採取できなかったからだ。採取できたのは犯人の幻獣状態の時の細胞片のみ。それは人間の状態の者とは一致しないことが分かっている。
滝上の言っていたことが当たったか。――東藤は記憶を遡る。
取り調べが始まる少し前の事である。
「東藤さん。」
「何だ?」
資料の束を持って取調室に向かう途中、後ろから声を掛けてきた隆一に振り返る。その顔は何か引っかかっている、そういった疑念の表情を浮かべていた。
「浅見さん、犯人じゃないような気がするんです。」
「何故そう思う。」
あの状況、あの行動、その上使用済みの“ブルーアイ”を所持していた時点で事件と何か関係しているのは明らか、でなくとも、取り調べを行うのは変わらないのだが、同じ力を持つものにしか分からないことがあるかもと思い、東藤は隆一の話を聞くことにした。
「傷の治りが早いんです。」
「それはお前もそうだろう。」
事実、車で滝上重工に着くころには、隆一が阿久野不動産で負った傷はほとんど治っていた。今では普通に歩いている。しかも、人間では確実に死に至るであろう攻撃を耐え抜き、さらには撃退までして見せたのだ。尋常ではない。
東藤は目の前の青年に今更ながら恐ろしさを感じた。
「まあ、そうなんですが。なんとなく、あの人は違うと思うんです。どうしてかって言われると言葉にしづらいんですけど。」
頭を傾げながら視線を逸らす隆一は年相応の青年に見える。だが、彼は完全な人ではない。人を悪魔に変える細胞を保有した者たちの一人なのだ。
「ま、一応頭に入れとくよ。」
「はい、ありがとうございます。」
長くなりそうだと感じ、早々に会話を切り上げて取調室に向かった。
午後四時三〇分。滝上中央病院・ロビーにて。
隆一はスタッフジャンパーを左手にかけながら自動販売機で品物を選んでいた。
昨日は無糖のブラックにしたため、今回は微糖にしようかとも思っていた。これだけならばこうも悩んではいなかっただろう。だが、目の前には期間限定の無糖ブラックが置かれていた。その道のプロが選りすぐりの豆、三種を配合。などと謳っている。
自身の優柔不断さが嫌になるが、この悩む時間も今の隆一にとっては幸せなものに思えた。
ええい、ここは運だ! ――隆一は持ってた一〇〇円玉でコイントスをした。結果は裏、期間限定の方である。
試しに飲んでみる。
鼻、口いっぱいにコーヒー独特の香りが通り抜ける。そして、芳醇な苦みが口の中に広がる。だが、決して不快なものではない。
隆一はひとしきり缶コーヒーを堪能すると、自身の部屋にジャンパーを掛けに行く。
「うん、うまいな。浩介の奴に買っていこう。」
もう一度自販機に硬貨を投入し、同じ期間限定のコーヒーを選ぼうとするが、
「売り切れかあ。」
赤く、売り切れの文字を光らせていた。隆一は適当な炭酸飲料を買い、エレベーターに乗った。
程なくして、隆一は七階へと赴いていた。理由はもちろん浩介に会うためである。
「浩介ー? 入るぞー。」
返事はなかった。
明かりはついておらず、隆一は寝ているのかと思い、音を立てないようにこそこそとベッドに歩いていく。無論邪魔をしたいわけではなかった。お土産の缶コーヒーを置くためである。隆一はカーテンをゆっくり開き、内側に入る。しかし、そこには寝息を立てる浩介の姿はなかった。
「ぐっ、ごほっ。」
そこには苦痛に顔を歪ませ、腹を抱えて床にうずくまり、プラスチックの桶に血を吐いている浩介の姿があった。
「こ、浩介!? 大丈夫か!? すぐに看護師さんを」
隆一はその光景に狼狽しながらも浩介の傍に駆け寄り、ベッドに座らせ、看護師を呼びに部屋を出ようとするが、浩介は隆一の袖を強く握り、止める。
「い、いや、呼ばなくて、いいから……。」
息を荒くしながら、隆一を制止する。
明らかに体調が悪く見えるが、隆一は浩介の意思を尊重することにした。
「ならいいけど、あんまり無理はするんじゃないぞ。何かあったらすぐに言えよ?」
まるで自身の弟に言い聞かせるような口調であった。
そんな隆一の言葉も、今の浩介には届いているかは定かではない状態であった。
左腕で腹を押さえ、自身の右手をずっと凝視し続けている。口の端からは微量の血液が流れさせている。歯はがくがくと小刻みに震え、一見寒さに凍えているようにも見える。今の浩介の視線の先には自身の青白い手は映っていない。遠いどこか、または何かを見据えていた。
しばらくして、息が整い、落ち着いた浩介は抑揚のない声で、
「隆一はさ、自分が自分でなくなる感覚って解る……?」
「……、いいや。」
嘘だ。分からないわけではない。だが、言い出すことが怖かった。それに、恐らく浩介の感じているものとは違うだろう。
そっか。といい、浩介は再びぽつぽつと話を続ける。
「何から、話そうかな……そうだな、よし。僕はね……二年前からこの病院でずっと暮らしてたんだ。」
それは隆一へと向けている言葉にも、また、己に言い聞かせているようでもあった。
声色に感情の色は見えず、無色透明、空っぽに感じられる。
隆一は目の前にいる無機質に話す人物と自身の知っている浩介がどうにも合致しなかった。
「しかも、その頃は病状が思わしくなくてね、余命はあと僅かだって言われてたらしいんだ。僕にはそんなこと、これっぽちも伝えられなかったけどね。」
自嘲するように口元を緩める浩介。そこには朗らかな笑みを浮かべていた少年の面影は欠片もない。
「死んだパパやママ、兄さんはいつも僕に『いつかお前も学校に行けるぐらい体が良くなるさ。』っていってたけど、ちっとも病気がよくなることはなくて、そんな家族の願いとは裏腹にどんどん体調は悪くなるばかりさ。病院に入ったときはもう僕は一生ここからでることはないんだろうなって思ってた。」
まあ、元々家のベッドで暮らしていたからあまり変わり映えはしなかったけどね。――と付け加える。
薄暗い病室に当たる陽の光に影が差し始め、部屋の闇が一層深まっていく。
「そんな僕にもただ一つ。好きなことがあった。君も分かっているだろうけど、日奈さんと勉強する時間さ。」
その表情は変わらず、無表情で、無気力で、無機質。ただ、自身の胸の内を再生するだけの機械のようであった。
「あの時間だけは僕にとって生きる意味、目的だった。あれだけが僕にとって価値のある時間だった。優しくなでてくれる柔らかい手が好きだった。花のように甘い匂いが好きだった。向日葵のような明るい笑顔が好きだった。」
隆一の背中を冷や汗がじっとりと濡らす。悪い悪夢を見ているようであったからだ。
浩介の声には日奈への愛おしさ、好意などは微塵も見えなかった。代わりにどす黒い何かが埋め尽くしている。
「そんな日奈さんが兄さんと結婚するって話を聞いたときはとっても嬉しかった。本当だよ? 心の底からだったかどうかは解らないけど。でさ、半年ぐらい前のことだったかなあ。日奈さんが泣いていたんだ。ばれないように隠していたけど、僕には分かった。これも愛の力ってやつかなあ。まあ、最後まで何も教えてはくれなかったけどね。兄さんも。と言っても、兄さんは普段から口数が少ないから期待はしてなかったけど。あの時は悲しかったなあ。……いっか、そこは。それから一か月くらい後だったかなあ、彼と出会ったのは。」
“彼”そう言った時の浩介の口は悪魔のように吊り上がっていた。
その不気味な笑みに隆一は先ほどまでよりも強い怖気を感じる。頭からは血の気が引いていく。手足の震えを抑えるのが精一杯だった。
「“彼”と出会ってからの僕の生活は見違えるように変わっていった。枯れ葉のようだった僕が本や音楽を楽しめるぐらいに好奇心が沸いたし、街中を歩くことすら出来るようになった。しかも、もうすぐ退院できるかもって話。ほんと、すごい変化だよ。」
まあ、看護師さんには迷惑をかけちゃったけどね。――再び口を歪めて言う。
自分の事であるというのに、それはどこか他人の事のように空虚であった。
「空いている時間には日奈さんの所へこっそりと抜け出して行ったりもしてさ。それで日奈さん、兄さんが困っている詳しい原因が分かったんだ。その原因を解決したりしてたんだけど。まあ、そんなことはどうでもいいかな、もう。もっと面白い奴に会えたから、でも今の僕じゃ駄目だ。明日、あの人に会えることになったから、言おうかな。」
沈み切った太陽があった方角を見て言う。その顔を外の灯りが怪しく光らせていた。
隆一は恐怖に耐えて浩介におそるおそる聞いてみる。
「何を?」
「秘密さ。」
にべもなく、その問いの答えは闇に葬られた。
「隆一も良かったら来ない? 明日の昼。出来る限りの歓迎をさせてもらうよ。“彼”と一緒に。でも、これで君も逃亡犯の仲間入りだねえ。」
これは悪魔からの誘い、いや、契約だ。
己の本能がこれ以上は危険だと訴えてくる。だがここは、
「いいな、それ。俺も気になるよ。」
悪魔と契約を交わす。
午後八時一五分。滝上中央病院・VIP室にて。
隆一は喉を通ろうとしない食事を無理やり流し込んで、働こうとしない頭を無理やり働かせて一通りの身支度を終わらせ、電話を掛ける。電話相手は、
「東藤だ。」
「滝上です。今話せますか?」
夜の帳が下りて星が煌めく中、忘れられない三日間の最後の一日が始まろうとしていた。
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