episode2-3 それぞれの戦場
午後九時一二分。滝上市、白滝公園にて。
花形日奈は帰り道、街灯の明かりを頼りに人気のない夜の公園を歩いていた。
辺りはすっかり夜に包まれ、輝く星々も今日は雲に覆われてその姿を見ることはできない。昼間は子どもが遊ぶ遊具も今はどこか不気味な物に見え、公園の周りを覆う木々のさざめきは悪魔か何かの笑い声に聞こえてくる。
何故こんなことになってしまったのだろう。――日奈は己の置かれている状況を嘆いた。
本当ならば今頃は思い人とともに暮らしていたはずなのに、と。
数か月前のことである。日奈の実家の和菓子屋へ、落書きや窓ガラスを割る、チンピラを店へよこすなど様々な嫌がらせが突如として始まった。後にそれは阿久野不動産の差し金であることが判明したのだが、そのいざこざを解決するべく婚約者である浅見聡一郎が名を上げたのである。
不幸はこれだけに留まらなかったなかった。
最初の嫌がらせから一か月程が経った頃、日奈の周りをうろつく、いわゆるストーカーが現れたのである。初めは気のせいかと思ったが、それは数日経てば現実として認識せざるを得なかった。日増しにその不気味さは増していき、今ではその気配を肌で感じ取ることが出来るようになった。
「…………。」
今もソレは居る。すぐ後ろで、こちらの様子を窺っている。
「……っ。」
日奈は苛立ちを募らせながらも、無視する。元から勝気な性格であったため、一度何かを言ってやろうかとも思った。その者の影を見るまでは。
ソレの背中からは複数の突起物が生え、腕には鋭い鉤爪があった。時折、小刻みに身体を震わせて何かを突起物から放出し、歯をガチリという金属同士が擦れ合うような音を立てさせている。
加えて、一〇日前から今日で三件も起こっている阿久野不動産爆破事件。噂では見たこともない化け物がいたらしい。
日奈のうちにある反感の心は打ち砕かれてしまった。
自殺を図ろうともした。だが、それは実行に移されることはなかった。
家族や恋人である聡一郎、その弟であり教え子でもある浩介は難病を乗り越えて今では元気に生活している。懸命に生きる周囲の人々の姿を見ていると急に自身が恥ずかしくなったからだ。
花形日奈は振り向かない、怖いからだ。だが、死ぬつもりは毛頭ない。明日を生きるために、輝かしい未来のために。今は恋人の言葉を信じて。
翌日、四月二六日。午前七時四五分。病院前ベンチにて。
目の前を通るバスの排気ガスの臭いに若干顔をしかめながら隆一はベンチに腰を掛け、空の胃袋に缶コーヒーを注ぐ。カフェインの効果は関係なく、常より目が冴えている。朝陽をまぶしいとも思わなかった。朝特有の身体を包む倦怠感もない。
一五分前からこうして座っているが、全く気にならない。むしろ隆一の心の中は幸福、高揚で溢れている。今まで自身に開いた穴が埋まったよう、そう表現するのが一番近いだろう。
傍らに置いていた携帯が着信を受けて振動し、ベンチの板を叩く。
画面に表示されている名前は妹のものだ。
先ほどまでの心の熱は急速に冷え込むのを感じた。
隆一と椿姫の仲は良いとは言えない。昔は自他ともに認める仲の良い兄妹だったのだが、その頃の記憶がない今の隆一では、生まれた時から仲の良くない兄妹と同じことだった。さらに、妹が時折見せる、昔の隆一を自分を重ねるかのような表情は、隆一の心に重くのしかかり、その関係を冷え込ませた。
伸ばす手が妙に重く感じたが、構わず電話を取った。
「……どうした?」
声も心に引きずられて重く、暗いものになっていた。
〈……兄さん、元気ですか?〉
椿姫の声も到底明るいとは思えないもので、相当に気負っているのが素人の隆一にも分かった。
「ああ……元気だよ。お前の方は元気か? 身体、痛くないか?」
妹の前で自分まで暗い声を出してはいけないと思い、隆一は今の精一杯の明るい声を絞りだす。
〈ええ、お陰様で……私は元気です。〉
椿姫も同じように明るい声を作った。
「そうか、よかった……。」
隆一は心の底から安堵した。自身のしたことは蛮勇ではあったが、確かに人を、妹を救うことが出来たのだと、心が赦されたような、そんな気持ちに。
だが、これは仲の良い兄妹とはとても言えないよそよそしい兄妹の会話だった。
失った一〇年の絆。それを隆一、そして椿姫は痛感した。
戻りかけた熱が再び失われていく。
ところで。――椿姫は再び重い口調で言う。
会話にさらなる冷気が吹き込む。
太陽は雲に隠れ、その輝きを遮られる。強い風が隆一を叩く。
〈兄さん、APCOに入ったって本当ですか?〉
来た。――いつかはこの質問をしてくると、そして答えなければならないと思ってはいたが、こうも早いとは思わなかった。いや、電話を取る手が重かったわけはこれが関係していたのかもしれない。
「ああ、入った。」
〈お父さんの、APCO理事の直属の部下なんですね。〉
え、そうなの。聞いてない……。教えといてよ、父さん。――内心そんなことを思ったが、話の空気は至って真面目。この状態の妹にそんな冗談が通じるとは到底思えなかった。隆一は必死にそのことを椿姫に知られないように努めた。
「ああ、そうだ。」
〈そうですか……。〉
椿姫の声は安堵している。感情の機微というものに疎い隆一にもそれは分かった。
〈兄さんは戦うことに抵抗はないんですか?〉
「元は俺がやるはずだったことだろ? 平気だよ。それにこれを受けなかったら実験台にされるって話らしいし、やるしかないじゃないか。」
その言葉は淡々としていて、どこか自分に言い聞かせるようなものだった。
椿姫はじっと息を呑んでそれを聞いている。
それに――
〈それに?〉
言うべきか、そうでないか迷ったが話すことにした。
自分たちは家族じゃないか、何も気負うことはない。――隆一は自身の想像する“家族”というのを信じて、話すことにした。
雲からそっと太陽が顔を出した。優しい、だが力強い、包み込むような光だった。光は隆一を、大地に慈母のような優しさを与える。
隆一は太陽に応援されているような気がした。……普段はこんなメルヘンなメンタリズムではないのだが、今の隆一は常とはやはり違うようだった。
「今の俺に、初めて役割が与えられた、居場所が出来た。そんな気持ちなんだよ。」
〈っ……!〉
椿姫は内心で絶句した。あの兄が、そんなことを考えていたのかと。滝上隆一という一人の少年について振り返る。思えば、二日前の朝の会話にもそのような節はあったような気がした。
隆一は妹が何を考えているかなど及びもつかないため、きょとんとした顔をしている。
その直後、目前の路で止まる一台の黒い車。しばらくしてウィンドウが開き、中にいる東藤が手招きをしてきた。
「悪い、もう切る。じゃあな。」
〈あっ、はい。〉
車両に向かって歩きながら話を打ち切る隆一。
会話は唐突に打ち切られ、兄の言に呆然としていた椿姫は反応出来ず、流されるままに通話を切られた。
「彼女か?」
「妹です。」
仏頂面だが、冗談めかしてからかってくる東藤にきっぱりと否定の言葉を示す。
事情聴取の時は分からなかったが、案外気のいい人間なのかもしれない。
乗れとでも言うようなジェスチャーに従い、隆一は後部座席に借りてきた猫のような様子で座る。
シートベルトの着用を確認した東藤は、サイドブレーキを外し右脚に力を込めた。
一般道に出ると道路を挟む歩道を行き交うスーツ姿や学生たちが目に付いた。常ならば気にも留めない光景だが、今の状況が普段を逸脱していることが影響しているのだろうと思う。
「どこに向かうんです?」
「滝上重工本社だ。」
それから一〇分程が経ち、外を眺めることに飽きた隆一が訊ねる。これには沈黙に耐え兼ねたという意図もあったのだが。
滝上重工本社は隆一も記憶のある範囲でも何度か訪れたことがある。そのどれもが、肩身の狭くなるような式典によるものだったことを思い出す。
「どうした? あそこは嫌いか?」
隆一が苦い顔をしていたことを即座にミラー越しに気付く東藤。相手の一挙一動を観察する。それは長年刑事をしていたことによる一種の癖のようなものだった。
「えっ? あっ別に、そういうわけじゃ……ないんですけど。」
どうにも歯切れが悪く、俯いた隆一。その様子を見た東藤の口元が若干緩む。
「そろそろだな。」
その言葉に頭を上げると、空色を反射した全面ガラス張りの真新しい本社ビルが見えてきた。芸術的な意匠のビルはとても目を引く。
程なくして、車は敷地内の駐車場に停められ、隆一と東藤は本社の従業員入り口に入った。二人はエレベーターに乗り込み、八階へと上がる。しばらくすると甲高い音とともに扉が開いた。
「僕がここに呼ばれた訳って何です?」
「それは、部屋に入ってから話す。」
そう言って東藤はエレベーターから隆一を先に出させ、自身の目的の部屋へと誘導する。
三分と経たないうちに『捜査第一班・デスクルーム』と札の付いた部屋にたどり着く。
「ここだ。」
その言葉とともに隆一は部屋の中へと入れられた。元は最新の機材を取りそろえた機能的な部屋だったはずだが、散らかった書類の束に隠れて見る影もない。中には高水を含め、八名の人間がいる。全員が入ってきた見慣れないを凝視している。ある者は値踏みをするように、またある者はにこやかに、各々様々な顔で異物を観察していた。
「あっ、どうも。滝上隆一って言います! よろしくお願いします……?」
東藤は部屋の全体を眺めると、壁に設置されたホワイトボードの前に立つ。
白い板には黒焦げになった建物や見るも無残な写真が貼られ、細かな情報が黒や赤などの色で書かれている。
「よし、全員揃っているな。では、始めるぞ。滝上への説明と事件のおさらいを兼ねてまずは初めから。」
その後の話を要約するとこうだ。
阿久野不動産を狙った爆破事件が三件起きている。
事件が起こるのは決まって昼の時間。
犯行の期間は短くなってきているため、近いうちに起きるであろうということ。
金品が取られていないことや、爆破するまでに店内の物を手当たり次第に破壊していることから、犯人は阿久野不動産に強い恨みを持っていると考えられる。
犯人は残る本社を狙うと思われ、それが起こる前に何としても検挙しなければならない。
現在、容疑者候補は三人。
戸島行雄、三七歳。阿久野不動産従業員。最初事件の五日前から行方不明。
高田保邦、三二歳。同従業員。同事件の三日前から行方不明。
謎のスーツの男、年齢は二〇代半ばほど。三件の事件現場に現れている。
「うーん。」
「どうかした?」
会議が終わってから五分ほど経ち、ほとんどの人間が自身の持ち場に移るなか、隆一はスーツの男の写真をじっと見つめていた。その理由を訊ねる高水。
「いやあ、この人どこかで見たような気がするんですよね。」
「そうなの? どこで?」
「いやあ、それがなかなか……すいません。」
申し訳なさそうな面持ちになる隆一。高水は笑って、
「君が謝ることじゃないさ、それに、こういうのは僕らの仕事だしね。餅は餅屋ってやつ。」
日焼けした顔に映える白い歯を見せて笑う高水。六、七歳は離れているがまるで部活の先輩のように見える。
「君の仕事はあの怪物がまた出てきたって時に、どうするかって所。僕らが人間の姿をしている犯人を捕まえられたら、そんなこと考えなくてもいいんだけどね。」
今度は高水が申し訳ないといった表情をする。
「僕の仕事ですから、気にしなくても……。」
「おーい、高水、滝上。そろそろ行くぞ。」
そんな二人を尻目に人差し指に車のキーを引っ掛けながら部屋を出ていく東藤。二人は慌てて追いかけていく。その顔に先ほどまでの辛気臭い顔は欠片もなかった。
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