episode2-2 各人の枷鎖
午後三時二〇分。病院に併設された自動販売機にて。
自身の部屋で若干遅い昼食を取った後、やや空いた腹を満たすために自動販売機の前に来たのだ。
だが、かれこれ二〇分ほど、隆一は何にするか自販機の前で決めあぐねていた。無糖のブラックコーヒーか微糖のブラックか、財布を手に悩ましい唸りを静かに上げる。
「すまないが、先に選んでも構わないかな?」
横から声が掛かる。振り向くとそこには仕立ての良いスーツに身を包んだ二十代後半程に見える長身の男がケーキ屋の箱を片手に立っていた。
隆一はその男の顔にどこか見覚えがあるような気がした。
「ん、すまない。何か気に障ることをしたかな?」
「いえ……お先にどうぞ。」
「ありがとう。」
男は硬貨を弾くように入れ、無糖のブラックコーヒーを選んだ。
その間も隆一は男の顔をじっと見つめていた。
「何か?」
煩わしそうな顔をして隆一に自身を見つめる訳を問う。
「人違いだったら申し訳ないんですけど、もしかして浅見さん。浅見聡一郎さんですか?」
「そうだけど、どこかで?」
険しい態度から一転、不思議そうな顔に変わる。
「俺、浩介の友だちの滝上隆一って言います!」
「浩介の、友だちか……。」
隆一の発言に聡一郎は感慨深い面持ちになった。それは心の底からくるものに見える。
「浩介のお見舞いですか?」
聡一郎と同じ銘柄のブラックコーヒーを選びながら聞いた。
「そうだよ。」
淡々とした答えをするが、先ほどまでよりも柔らかく、温かい声だった。
隆一は聡一郎とともに再び浩介の病室へと向かう。
浩介のいる七階までエレベーターで上がるなか、無言を破って聡一郎が話しかけてきた。
「浩介とはいつ、どこで知り合ったんだい?」
気まずい空気を和らげようとしたのか、あるいは弟の友人が気になったのか、両方かもしれない。
隆一は浩介が病室からいなくなったことを、言うか、言うまいか迷ったが正直に伝えることにした。やや緊張しながら重い口を開く。
「今日の昼ぐらいに、浩介が病室からいなくなったと看護師の人から聞いて、俺もそれを手伝うことにしたんです。それで知り合いました。」
隆一は自身が派手に転んだことは言わなかった。恥ずかしかったこともあるが、重要でもないことだと思ったからだ。
その言葉を聞いて聡一郎は険しい表情になり、何かを思案し始める。
「そうか、浩介はまた逃げ出したのか。」
また?
隆一はその言葉が引っ掛かったが、そういうこともあるかと敢えて何も言わず、すぐに思考を放棄した。
甲高いベルの音とともに、目的の七階に着く。
聡一郎は開放ボタンを押し、隆一が先に出るのを促す。
「ありがとうございます。」
礼を言うと隆一は外へと出た。鼻をロビーよりも強い消毒の香りがくすぐる。病院暮らしが長かったため、この匂いには懐かしささえ覚える隆一であった。
すぐ後に聡一郎がエレベーターから出てきた。先ほどまでの思案顔は消えている。
二人は無言のまま浩介の部屋へと歩いていく。
「日奈さん。ここは?」
「ここはねえ……。」
そんな会話が聞こえてきた。浩介の声はとても明るく、それだけで浩介の表情は笑顔であろうことが予想できる。
聡一郎が先に部屋に入り、隆一はその後に続いた。
「遅くなってしまってすまない。」
「あ、どうも。」
冷静な表情を崩さず、落ち着いた声の聡一郎。
対して、隆一は首筋に手を当てながら苦笑いを浮かべている。
「あ、兄さん! それに隆一も!」
もともと笑っていた顔をさらに明るくする浩介。その笑顔に隆一を含めたその場にいる全員を包む空気が明るくなったように感じられた。
「日奈、いつもありがとう。一緒に食べてくれ。隆一君もどうだ? 有名なケーキ屋のチョコ詰め合わせだ。」
聡一郎は、浩介の隣で座っている日奈をまっすぐ見据えて言うと、箱を浩介のベッドのテーブルに置いた。その目からは確かな感謝の念が感じられた。同時に、深い愁いも。
「聡ちゃん……ありがとう。」
日奈はうっとりとして、まるで運命の思い人を待ち焦がれていた乙女のような表情をしている。他の人間が視界に入らないほどに。
「日奈、少し話せないか?」
「浩介君。いいかな?」
「うん、大丈夫だよ……。」
浩介は一瞬寂しそうな顔をしたが、今の日奈にその機微を感じ取ることは出来なかった。二人はそのまま病室から出ていく。とても親密な雰囲気を醸し出して。
その姿を浩介は無言で見送った。
隆一は何も言わず窓側に立ち、その様子を眺めている。
(ふーん、成程。そういう。)
隆一はある仮設を立てた。
恐らく、浅見聡一郎と花形日奈は恋人関係にある。少なくとも、お互いに好意を抱いている事は確かだろう。それを知った上で浩介は日奈に好意を抱いている。胸を刺す痛みに耐えながら。
「ほら浩介、俺からも土産だ。好きかは分からないけど。」
微糖のブラックコーヒーを差し出すと、浩介は苦笑いを浮かべながら受け取った。
室内に缶の開く子気味の良い音が二つ響く。
二人は同時に缶の中の液体を一気に口に流し込んだ。口の中がコーヒーの苦みと香りで充満する。
「兄さんと日奈さん、お似合いでしょ?」
「ん? ああ……。」
自嘲するかのような顔で淡々と語る浩介。その顔は彼の兄のするものによく似ていた。
隆一は液体の苦みを噛み締めながら、適度に相槌を打つ。
「僕がまだ、病院暮らしをする前だから……三年前かな。付き合い始めたの。元々近所に住んでて、いわゆる幼馴染ってやつだったんだけど、兄さんあの通り堅物だろ? しかも鈍感ってやつでさ。日奈さんが好意を抱いてることにその時まで全然気付かなかったんだ。で、まあ、兄さんが家の会社を継ぐ時にさ、一緒にお見合いの話がきたんだけど、それを聞きつけた日奈さんが会社に乗り込んで来て、『じゃあ、あたしと結婚して!』って言ったらしいんだ。ははっ笑っちゃうよね? で、今に至るのさ。まあ、色々あってまだ結婚はできてないんだけど。」
ここまで好きあっている様子を間近で見ていれば、引かざるを得ないだろう。浩介のような人間なら猶更。
「隆一は、好きな人っている?」
「気になってる子はいる。」
「それって好きってことじゃないの?」
「んーどうなんだろう。目が離せないっていうか、まあやんちゃするってタイプじゃないんだけど、こう……娘を思う父親的なやつ。」
まあ、そんな娘と日曜にデートするんだけどね! ――敢えてこれは心の中に留め、口には出さない隆一。
「あはは! 何それ。隆一、まだ一七でしょ? おじさんみたい。」
「だよなぁ、自分でもそう思うよ。」
二人は笑いあう。室内は先ほどまでの空気から一転して、明るい雰囲気に戻る。
隆一は窓の外を見る。
太陽はやや陰りを見せ始め、夜の始まりを伝えてくる。
「ふう……。」
ため息を吐くと缶を真上に向けて残った液を口に流し込もうとする。だが、缶の中には何も残ってはいなかった。
隆一の身体を春の冷たい夜風がさらう。
今日は冷えるだろう。
「日奈、最近はどうだ?」
「まだいる。昨日の夜もあたしを後ろからずっと見てたの。」
聡一郎と日奈は同じ階の誰もいない休憩スペースの隅で話していた。聡一郎の手は震える日奈の手を包んでいる。
「大丈夫だ。知り合いの警察にも連絡したし、そういうのを専門に扱う所に取り合ってくれたらしい。それに僕もついている。」
日奈を握る手を強めた。だが、決して痛いとは感じない、優しいものだった。
「聡ちゃん……あたし怖いわ。どうなっちゃうの……? 阿久野不動産も爆発事件にあってるし、一体何が起こってるの?」
日奈は聡一郎の胸に首を預け、それを聡一郎は力強く受け止めた。
背中を照らす太陽の光が徐々に弱まっていく。
「悪夢はいつか覚める。今がそうさ。阿久野不動産との話し合いも、もうすぐ終わりそうなんだ。それが終わったら式を挙げよう。君が前から言っていたあの海辺の小さな教会で、ささやかだけど、幸せな式を。君の家族や浩介を呼んでさ。」
「聡ちゃん。」
他に誰もいない空間で、二人の影と影が交じり合う。お互いの不安を和らげるかのように。
影が震える。
午後六時一八分。滝上重工第三倉庫にて。
滝上椿姫は強化スーツの開発主任である叔父の滝上隆次郎に呼ばれていた。改良の施された強化装甲鎧『TP‐01改』のスペックの把握をしてもらうためだという。
「ふう……。」
粗方説明を聞き終え、椿姫は吹き抜けになった倉庫の天井を眺めながらため息を吐いた。
兄は大丈夫だろ椿姫うか。――昨日の夜以降会っていない兄の安否を憂いた。兄はこれからどうなるのだろうか、父の大丈夫だ心配ないという言葉も、今の椿姫にとっては何の薬にもならなかった。
人を異形の獣、幻獣へと変える謎の薬『ブルーアイ』。それを自らの身体に投与した少年、滝上隆一。人知を超えた化け物、幻獣に姿を変貌させた。彼もあの三人の『ブルーアイ』の売人たちのように人に危害を加える存在へと変わるのだろうか。
いや、それは。――椿姫は自身をよぎった予感を振り払う。あの兄がそんな風になるはずがないと。根拠のない妄言を藁にも縋る思いで信じた。
「……ひっ!」
突然首筋を冷たい感触が奔った。後方を振り返るとそこには直属の上司である荒城亨がいた。手には透明な容器に入ったアイスコーヒーを持っている。
「浮かない顔をしているな。」
指揮をする時よりも幾分か優しい声を椿姫に掛ける。
頭頂部は薄く、バーコード状になっているが、顔つきは歴戦の勇士のもの。それに違わぬ鋭い洞察力だった。底光りする黒い瞳の前では椿姫の考えていることなどすぐに見抜いてしまうことだろう。
「兄、滝上隆一君のことか?」
本当に、すぐに見抜かれた。――
椿姫のはっとしたような顔を見て、荒城はけらけらと笑う。
「本当に顔に出やすいな。安心しろ。APCOの所属となった。当面の間は大丈夫だろう。」
「兄さんがここの……?」
心ここにあらずと言った顔の椿姫は、自分で言っている言葉の意味が理解できていない、いや、受け止め切れていないようだった。
「直属の上司は滝上理事だから恐らく悪いようにはされんだろう。」
「そう……お父さんが。」
「だから、今は爆破事件の被疑者への対応に集中してくれ。出来る限りの支援は行うが、この事件の解決の鍵は君が握っている。期待しているぞ。」
「はい……。」
手に持ったカップから雫が滴り落ち、床に小さな水たまりができる。水面が揺れる。
椿姫は忘れていた自身に科せられている運命を思い出す。
私が、私がやらなくちゃ。――少女は自身に言い聞かせる。祈るように。呪うように。只々自らを罰し続ける。終わりはない。自らが壊れる、その時までは。
午後八時。滝上中央病院・VIP病室にて。
「ふう……。」
夕食を終え、隆一は自身のベッドの上でため息をついていた。
あの後も浩介とたわいない話をしていると、一〇分程で聡一郎や日奈が戻ってきた。二人の目が少し腫れていることに隆一は気づいたが、詮索はしなかった。
チョコ詰め合わせを食べているときは、皆甘い幸福に包まれていた。笑顔で心の底から笑い、温かな空気に包まれ、ただただ幸せな未来を夢見る子どものようだった。程なくして隆一は自室に戻り、今に至る。
部屋は静寂に包まれ、隆一の呼吸音や電子機器の微かな音がやけに耳をくすぐる。
今日はやけに目が冴えた。
本を読むか、携帯をいじるか。
ふと、携帯を朝から構っていないことを思い出した。画面を付けてみる。湖のバック画面上にたくさんのメッセージが表示されていた。詳しく内容を見ると、送り主は友人たち。自身の体調を心配している内容のものばかりだった。その中にはクロエからのものもある。それらに対して当たり障りのない返信をする。
一通り返し終わると、携帯が振動を始めた。表示される番号に心当たりはない。間違い電話と思い、無視しようかとも思ったが鳴りやむ気配がなかったため、出ることにした。
「滝上です。取るのが遅れて申し訳ありません。」
『東藤だ。今話せるか?』
隆一にとって予想だにしない人物からだった。
「はい、大丈夫です。」
『明日迎えに行くからロビーで待っていてくれ、朝の八時だ。』
「分かりました。何か持っていった方がいい物は?」
『特にない、携帯ぐらいだ。』
「分かりました。」
通話が終わっても、自分の耳元に携帯を当て続けている。携帯を持つ手が震えた。それは高揚によるものか、恐怖からくるものか。
隆一は明日に備えて身支度をして眠りについた。
お帰りなさい。――眠りにつく瞬間、微かな声がそう言った。祝うように。待ちわびていたように。只々祝福する。子守歌は続く。眠りにつく、その時までは。
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