4部屋目 安彦チュートリアル
「ううっ、ぐすっ、ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
「いいんだ、いいんだよ、ケトルちゃん。無理しなくってもいいんだよ」
結局、業火に焼かれるケトルちゃんの姿に耐えかねた俺は、火を止めてしまっていた。元はステンレス製なんだし、絶対に大丈夫だとは思うけど、熱いもんは熱いよね、きっと。俺の胸の中で泣きじゃくるケトルちゃんは、サイズ的にも仔猫くらいでやたら可愛い。俺はよしよしと頭を撫でて慰めていた。
リビングのテーブルには、湯気を立てたコーヒーが置かれている。湯を沸かすのを断念した俺は、カップに入れたインスタントコーヒーを水で溶かし、レンジでチンする事にした。だから問題は何も無い。
ただ。
ケトルちゃんは、その体で沸かしたお湯を、一体どこから流出させるのだろうか? 水を入れたのは口からだから、順当に考えると……なんか、とんでもない事になりそうな気がする。それを俺が喜んで飲んでしまったとしたら、人間としてもう取り返しのつかない事になっていたのではないだろうか? だから、これで良かったのだ。ちっとも残念なんかじゃないぞ。これは心の底から思ってる。思ってるよね、俺?
「ふふふ。素晴らしい。美樹本くんとそのケトルの絆、しかと見せてもらったよ」
「何? 誰だ!」
俺は焦って振り返った。背後から拍手とともにいやに芝居がかった台詞を吐いたのは、お隣さんの安彦さん。安彦さんは玄関で壁によりかかり、眼鏡のズレをくいっと直しているけれど、何勝手に入ってきてんのこの人!? クールぶってても、それ不法侵入なんですけど!?
「ああ、勝手にお邪魔したのは申し訳ないと思っている。でもね、インターフォンを鳴らそうとしたら、きみたちのやり取りが聞こえて来てしまってね。これは盗み聞き……いや、様子見するべきだと判断したわけなのだよ」
「わけなのだよ、って。そんな正論ぶった言い方されても、結局ただの出歯亀じゃないですか」
「出歯亀は勘弁してくれ。トムと呼んでもらえた方がまだマシだよ」
「ご主人様あ、あの人、怖いですう」
「おーよしよし、大丈夫だよーケトルちゃん。俺がついているからねー」
怯えるケトルちゃんを俺はしっかり抱き締めた。ケトルちゃんの小さなお手手が、俺のシャツの胸元をきゅっと握り締めてくる。俺は父性に目覚めた。
「……きみ、すっかりケトルの保護者になってしまったな……。素晴らしい対応力、と言うのか、耐応力、と言うべきか。普通の人は、ケトルが喋ったりしたら、気味悪がったり怖がったりするものだ。きみは僕の見込んだ通りの人間だったな。ふふふ」
「……何を見込まれたんですかね、僕? あんまり嬉しく無いんですけど」
「あー、もう。窮屈ー。お腹も空いたって言ってるのにー」
「うわっ。なんだ、ルーターか。勝手に俺のジーンズのポケットから出てくるの、やめてくれる? びっくりするし」
話に割り込んで来たのはモバイルルーターだった。自力で出て来れるのかよ。どっか遊びに行かれたりしたら困るだろコレ。
「だって出してくれないんだもん。さっき、ケトルに水を入れてた時なんてサイアクだったし。なんかむくむく膨らんできて、めっちゃ圧迫されてたんだからね、あたし。なんでケトルに水入れるだけで興奮しちゃってるワケ? 変態なんじゃないの、あんた?」
「うおわあああああ! そんな事にはなってねえええええ! 嘘だあ! 嘘をつくんじゃねええええ!」
「ぎゃあああああ! くるし、苦しいいいー! 握り過ぎ! 強く握り過ぎーっ!」
ルーターに指摘された事は、絶対に誰にも話さないと決めていたのに! それは墓場まで持っていくべき俺の汚点であり、近々に誕生したばかりの黒歴史なのだあ!
「……うん。まあ、そんな事もあるだろう。男って、そんなもんさ。なあ、美樹本くん」
「あ、安彦さん……! ありがとうございます。ありがとう、ございますっ……!」
あまりの恥ずかしさで暴走状態になった俺への、安彦さんの優しい笑顔と肯定の言葉が、しゅわわと胸に染み入った。
「マジで? うーわ、男ってサイテー」
ルーターの蔑視線も同時に染みた。ルーターになんか何言われたって平気かと思ったら意外とそうでも無かった。女の子の姿というのは、それだけで凶器足り得る事もある。という、一つの発見をした俺だった。
「もうお前うるさい。これでも食ってろ」
「あ、アダプターだ。わーい」
ルーターにぽいっとアダプターを投げ渡すと、大喜びでキャッチした。が、アダプターて結構重い。ルーターは予想通り「きゃんっ」と鳴いてアダプターに潰された。が、ルーターは強かった。のし掛かるアダプターをえいやとどかすとコードを担ぎ、わっしょいわっしょいとコンセントへ引き摺った。
そして、アダプターはコンセントに差し込まれた。で、その先っぽはどこに差すのかなーなんて興味津々観察した。とんでもない所だったら嬉し恥ずかしどうしようとか考えていたのに、ルーターは普通に口で咥えて「うまうま」と笑顔で口をもぐもぐさせた。エロ要素ゼロ。むしろほのぼの。
「ふふふ。どうだい、可愛いだろう?」
「……はっ。あ、いやあ、まあ」
によによしてルーター見てた俺を、更に安彦さんが見ていたようだ。これは照れる。気付けば安彦さん、俺のソファにどっかり座っちゃってるし。俺もまだ座った事無かったんだけど、それ。
「しかしね、美樹本くん。引っ越し初日に、ここまではっきりと美少女化するのは、実は珍しいのだよ」
「へえ。そうなんですか」
初日だろうが10年目だろうが、どちらにしろ珍しい。と思ったけど言わない。この人、多分そういうのにムキになって反論してくるタイプだろうから。
「大抵の人の持ち物は、ニ、三ヶ月はかかるんだよ。そこから、徐々に、徐々に、一つ、二つと美少女の姿となって現れる。これは僕の実感として、なんだが、どうやら絆の強い物から美少女化するのだろう。常に持ち歩いている物、あるいは、そのケトルちゃんのように、強い思いがある物、とかね」
「へえ。そうなんですか」
腹が減ってきた。この近く、コンビニあるかな? そういや朝メシまだだったわ、俺。てか、まだ増えるのかよ。
「僕が思うに、これほど早く美少女が現れると言う事は、美樹本くん、きみは多分、物に好かれる体質なのだろう。きみ、物を大事にする方なんじゃないのかな?」
「へえ。そうなんですか」
「うん?」
「あ、ああ。そうですね、そういえば俺、物持ちがいいって良く言われます」
危ねえ。話聞いてないのがバレるとこだった。バレたら刺されそう。この人、そういうタイプっぽい。
「ふふ。きみがこの子たちをどう思うかはまだ分からない。ケトルちゃんは最早ケトルとしては使えない。これから、そういう"物"が、どんどん増えてゆくわけだからね」
「えっ? え、ええー?」
そうだ。これマズイだろ。いろんな物が本来の役目を果たさなくなるのかも知れないなんて、俺の生活どうなんの?
「なぜここでそんな不可思議な事が起こるのかは誰も知らないし分からない。ただ、ここは地域柄、それこそ教科書にも載ってるような事件の舞台になったりしている。古くは神話の時代から、名を馳せた戦国武将や、維新の立役者、大戦で活躍した指揮官にも縁がある。一番なのは、付喪神が関係している神社だろう。ここは、おそらく日本でも随一のパワースポットなのではないか、と僕は推察しているが。大学に地脈を研究している人がいるので、一度調べてもらった事があるだが、この真下には、かなり強くて太いのがあるそうだよ。それも関係しているのかも知れないね」
なんか言ってるわー、この人。学院生とか言ってたけど、何を研究してんだよ。科学のかの字も出てないぞ。もう俺は呆れているのを隠さなかった。口をぽかーんと開けていた。安彦さんは、多分とんでもないアホ面してるなーって思ってるはず。
「そうそう。そんな仮説や推論にもなっていない話より、現実の話だ。もっと役に立つ話をしようか。美少女化の順序としては、絆の強い物、そして、小さい物からだ。大きな物ほど後になる。きみは、きっと困る事になるだろう。でもね、これだけは覚えていて欲しいんだ。僕はそれを伝えに来た。このメゾン美少女の、先輩住人としてね」
「はい?」
「彼女たちは、僕らの事が好きなんだ。だから、疎まないであげて欲しい。彼女たちは役に立とうと思っている。実際、使おうと思えばちゃんと使える。でも、それより大切な事がある。彼女たちは、それを教えてくれるんだ」
「へえ。そうなんですか」
疎まないようにするのは、表面上なら可能だろうけど。心底って言われると無理そう。あと、使えない物が何を教えてくれるって? 使えない物は使えない物だろ。それ以上でも以下でも無いんじゃないのかな。飛べない豚はただの豚になるわけだし。
「分からないだろうね。今はそれでいい」
安彦さんはまた妙に格好いい台詞をほざいて立ち上がる。やっと帰ってくれるらしい。安彦さんが帰ったら思う存分悶絶したい。俺、めっちゃ恥ずかしかったのを、一生懸命我慢してんだ、今。
「ああ、あと、大事な事を言い忘れる所だった」
「なんですか?」
不意に振り返った安彦さんにも、俺はポーカーフェイスを崩さない。完全に帰るまで油断しないぞ。帰る時、あからさまに喜んだりしたらその後気まずい感じになる。これから住むのに、隣にそんな人がいたらイヤだ。
「彼女たちを外に連れ出す時は、絶対に離れないようにね。離れたら、もう二度と彼女たちは戻らない。ただの物に戻るんだ」
「……えっ……?」
どきりとした。なんでだ? 元の物に戻るだけだろ。いい事じゃないか。
「そして、最悪なのは死者の持ち物。本体である遺灰や遺骨なんて最低だ。忠告しておくが、これだけは部屋に持ち込むな」
閉まる直前、ドアの隙間から見えた安彦さんの横顔は、何か、壮絶な過去があった事を物語っていた。
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