3部屋目 ケトルちゃん

 さて。このケトル、蛇口の下に持ってきたのはいいが……どっから水を入れるのん? 頭にかぶってる丸い帽子みたいなの、上にちょこんと黒い突起があるけれど、これ蓋のツマミそのまんまだから、ここかな? 帽子取るのか? え? で、空っぽになってる頭から、空洞の胴に注ぐって事? なんか結構ホラーな絵面じゃないか、それ?


「お、お湯を沸かすんですよね? ど、どうぞ」


 とか考えていたら、ケトルがおずおずと上を向き、ぱっくりとそのちっちゃな口を開いた。口から入れるのかよ。蓋はどうなってんだよ。


 まあいいさ。どうせ、こんなの幻覚の類だろ。事前にハゲからあんな話を聞いたから、俺の深層心理がありもしない幻を見せているに過ぎないのさ。実際にはちゃんと現実のケトルがあって、開いた口は蓋を外したって事になってんだ。そんな動作はしてないけど、そこはそれ。何だか分からん不思議な力で不都合の無いようになってるんだ。これは俺の作り出した幻なんだから絶対そうだ。そう、絶対にだ。俺は蛇口のコックを上に引いた。


「ああっ、あっ、あっ。が、がぼ、ぼぼ。つめ、冷た、うう、んん」


 水の勢いが強過ぎた。水はケトルのその小さな口では受け止め切れず、溢れてしまった。ケトルは苦しそうに身を捩り、そのせいで狙いから外れた水が、ケトルの銀の全身を濡らした。


「…………」


 ケトルは水浸しになっている。全身タイツのような素材に見える服はますますぴったりと張り付き、白い地肌を薄っすらと視認させた。おへその窪みの所が少し浮いている。お尻の形など、まんま顕になっていて、もはや服の役目を果たしていないのではないかと思えた。そして、一番ヤバイのは胸だった。ふくよかな双丘が、ケトルが身を捩る度に弾けて震える。その双丘の頂点にある物も、良く目を凝らせばなんとなく分かってしまうのがもうとにかくヤバイってばよコレええええ!


「あ、あふ、ぶふっ。ご、ご主人、様。私、私、もうっ……あ、はぁ、はああっ」

「…………」


 ケトルは許容量を超えた事を必死で俺に訴えている。もう満杯だ。水はもう入らない。


「も、もう、これ以上入れられたらっ……、私、私っ、逝っちゃう。逝っちゃううっ」


 何というエロチシズム。抵抗出来ない子に、無理矢理に水を飲ませ続けて吐き出させ、あろうことかついには浴びせまくるとは。こんな刑罰が封建時代にはあったような気がする。何かのスイッチが入った俺は、無言のままケトルにひたすら水を入れ続けた。


「がぼっ、ぼぼっ、う、ううっ、ひっく、ぐすっ」


 ケトルはついに泣き出した。それでも口は閉じない。凄い根性だな……、はっ!


「ご、ごめん」


 しまった。ついに話しかけてしまった。とは思ったものの、とにかくこのままではいろいろとヤバイ。俺は慌てて水を止めた。


「ごほっ、ぼぼはあははは。だ、大丈夫、でふよ。私は、ごひゅひんはまのケトルなのれふから」


 水浸しになったケトルの作る笑顔は、苦しさを必死に隠そうとしているものだと分かる。こんなに酷い事をした俺に、怒るどころか笑顔を向けるだけでなく、気にしないようにという心遣いまでしているのが伝わった。


「悪かった! ごめんよ、ケトルッ!」


 感極まり、俺はケトルを胸にかき抱いた。少し零れた水のせいで、シャツが暗色に染まってゆく。


「何故だ? 何故、お前はそんなにも……俺、なんかの為にっ……」


 不覚にも感動してしまっていた。なんだこの健気で一途なケトルちゃんは。ケトルじゃなければ完全にプロポーズしてるわ。くそう、なんでお前はケトルなんだ! 


「あ、はは。嬉しい、よう。何故って……、お、覚えて、ますか? ご主人様。私と、始めて出逢った日。そして、初めての共同作業を……」

「え? ……ごめん、覚えて無い……」


 あれ? もしかしてもう結婚してたのかな? 初めての共同作業、終わってんの?


「あれは、二年前の、雪の降りしきる夕方でした……。ご主人様は、コートに積もった雪を払いながら、ホームセンターで売れ残っていた私の事を、すぐに見つけてくれたんです」

「は? あ。あー。あーあー」


 思い出してきた。寒かったなあ、あの日。自転車で激漕ぎして、途中で滑って転んで、脇腹を強か打撲したんだ。後で病院行ったら、肋骨折れてたんだよなあ。


「私は、処分品でした。みんな、次々と貰われて行く中で、凄く心細かった事を覚えています。悲しかった。寂しかった。でも! ご主人様が、真っ直ぐ私の所へ来て、展示品である私を、迷わず、力一杯に引っ掴んで、レジにダッシュしてくれたんです。……まあ、なんでそんなに急いでいたのかはいまだに謎のままなんですけど、そんな事はどうでも良くって。私、とにかく嬉しくて」


 ケトルちゃんが涙の笑顔で訴えかけてくる。そうだったのか。ケトルちゃんには、あの日、俺に買われた事が、そんなにも嬉しい事だったんだね。


 ……でも、ごめん。実はそれ、いきなり好きな子が家に来るとか言い出したせいで、ちょっと格好つけてレギュラーコーヒーでも出そうと思い立ったから、なんだよ。肋骨折ってまできみを買って戻ったのに、結局その子が来るまでに間に合わなくて、怒って帰っちゃったんだよな……あ。


「そして、初めて家にお邪魔するなり、ご主人様は早速私を使ってくれました。大きなマグカップに、ペーパードリップのコーヒーをセットして、私で沸かした湯を、そこに注いでくれたんです。あの時の、あの暖かいコーヒーの香りは、私、今でも忘れてません」

「ケトルちゃん……」


 胸アツ。たかが一杯のコーヒーを淹れるのに使われた事を、こんなにも大事な思い出にしてたなんて。あれ、俺にとってはかなり苦い思い出なんだけど。そのコーヒー、ブラックで飲んだし。とにかく全てが苦かった。


「結局、私を使ってくれたのは、あの時の1回きり、でしたけど……私、私、は、図々しいかもなんですけど、ずっと、ご主人様の、家族の一員になれたんだって、ずっと、ずっと、そう思って」

「うっ」


 そうだった。忘れたくて封印したんだ。今の今まで忘れてた。そうじゃなくても、このケトルちゃんて、ほら、注ぎ口がさ、かなり下の方から、にょるっと蓋の辺りまで伸びてるタイプで、管もかなり細めだから、ドリップコーヒー淹れるくらいしか用途無いんだ。


「分かってます。私、あんまり、使い勝手が、良くない、から。でも、でも。また、いつか、ご主人様に、こうして使っていただける日が来るって、信じてました。私、信じて、いたんです」

「ケトルちゃーん!」


 俺は再びケトルちゃんを抱き締めた。強く、強く抱き締めた。涙腺は崩壊した。俺は、過去の俺を許さない。絶許。そして俺は誓った。もう、ケトルちゃんを泣かせない。こんなにいい子を、もう泣かせたり出来ないっ!


「あは。く、苦しいですよう、ご主人様あ。ほら、泣かないで。コーヒー、淹れましょ? 私で、お湯を沸かして下さい。私、ペーパードリップのコーヒーを淹れる事にだけは自信があるんです。数回に分けて、くるくるって、お湯を注ぐの。私なら、それが凄くやりやすいって知ってます。それが、私の存在理由で、存在価値、なんですから」

「うん。……うん。ぐふっ、ずずっ」


 俺は男らしく腕で涙を拭うと、ケトルちゃんに促されるまま、コンロにかけた。でかいコンロは特別製で、オール電化住宅なのにガス式である。ガス管、来てたから。炒飯とか作るのに高火力じゃないと嫌だし、火が見えないと火加減がイマイチ分かんないから。


「……待て」

「え?」


 ケトルちゃんをコンロにセットし、着火ツマミを回そうとした所で、ふと思った。


 この子を、火にかけるのん? 凄い残酷じゃないのん、それ? いやいやいや、ケトルだし。火にかけないとお湯が沸かせないし。見た目は美少女でも、ケトルだもんな。ケトルだろ? ケトルだよね?


「……ケトルちゃん」

「はい?」

「火、着けるけど。いいんだよ、ね?」

「もちろんです」


 ケトルちゃんは「任せて下さい」と、肘を締めた可愛らしいガッツポーズで答えて見せた。そんなんされると、余計火を着け難いんだが。で、でも、確認はしたし。やるぞ。着けるぞ。着けてやるぞお!


 俺はツマミを回した。コンロがボッと青い火を噴く。


「ああ。あああああーっ! あ、熱い、ああん、熱いいーぃ!」

「おいおいおいおいおいおいいい!」


 ケトルちゃんが悩ましく絶叫した。



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