本編

 俺の名はフレディー。ニューヨークはグリニッチ・ヴィレッジ、古ぼけた建物のレンガの壁にうようにつるを伸ばしたつた=アイヴィの、一枚の葉っぱだ。


 葉脈を流れる水を凍らせんばかりの容赦ない暴虐な気温、わずかに残る熱を奪い去り俺たちを何度もレンガに叩きつける残忍な凶暴さを隠しもしない風、絶え間なく降り注ぎ希望を奪い去る冷酷な無慈悲の雨。


 十一月の冷たい雨を、俺たちは三日間も耐え続けていた。終わりの日は近い。いや、今まさにこの時こそが終末なのだ。この三日間より前のことは、既におぼろげで遠い、風の中に飛んでいった仲間たちの後ろ姿よりも頼りない曖昧な記憶になっている。


「いや、そんなことはないぞ。覚えているか、伝導師プリーチャーマンのことを」


 俺たちは個々にして全体だ。思考は、俺たちを支える世界、今や茶色く変色し、養分である水を俺たち一枚一枚に送り続けることを諦めようとしてる残念なつるを瞬く間に駆け抜け、伝播する。


「ああ、もちろんだ」


 風に揺られながら歌うように道を説く伝導師プリーチャーマンの声、そうだ、俺たちは確かに彼のあの声を覚えている。


伝導師プリーチャーマンは言った。終わりの日は近い、と」


「ああ。そして伝導師プリーチャーマンは、こうも言った。神の国への扉は開かれている、と」


「熱狂の只中ただなかで神の国へと我らは旅立とう。その時まで祈り続けるのだ、と」


「ハレルーヤ」


「エイメン」


「エイメン」


 凍てついた蔓の中を流れる養分が少しだけ熱を帯びる。まるであの夏の日々のように。


 いや、それは気のせいだ。夏の日差しで燃え立たんばかりのレンガの熱さに決死であらがう葉っぱ一枚一枚に、昼も夜もなく波打つような大量の水を運んだつるの栄光の緑濃き日々は、とうの昔に過ぎ去った。つるだけではない、何時いつ落ちても不思議ではないほど弱りきった葉柄ようへいは、この雨の三日間より前から葉っぱを支えることをあきらめている。そして、まだなんとかすがりついている俺たち葉っぱ自身も、その表面の一部を茶色や黄色のしわに侵食され、ただ落ちていく瞬間を待っている。


 生き残った仲間たちの思いが伝わってくる。はるか下の地面、いや、神の国か。そこに舞い落ちていった仲間たち。慣れ親しんだつるから切り離され、濡れた土の上に身を横たえた伝導師プリーチャーマンや仲間たち。


「なあ、地上はいい香りがするらしいぞ」


「ほう、どんな?」


「下の方の古い葉っぱオールド・ギャングから聞いたことがある。湿った土の匂いって奴だ」


「それは……」


 今はまだ俺たちの中に残っている記憶を探そう。残っているわずかな葉っぱではなく、レンガの壁を覆わんばかりに茂っていた、あの頃の仲間たちの記憶を。


「この匂いは……」


 懐かしさとともに起こる切なさが俺たちの胸を締め付ける。この感情の正体は、一体、何だ。夏の日、生い茂る雑草の下の窮屈な地面に張った根から、はるばる先端の葉っぱまで送り込まれた水、その甘さ。


「わからない」


 養分が足りていたとしても、この三日間を乗り切るのは容易たやすいことではない。季節は秋、植物にとっては落葉の時期、やがて来る冬を前に、別れを告げ、終焉しゅうえんを迎える日々。


「ああ、わかることなどない」


「なぜ……」


 しかし、その想いは、結局、最後までたどりつかないのだ。


 十三枚目の葉っぱが落ちた。


 予期していた痛みは、俺たちにとって、もはや耐えられないほどのものでもない。諦観ていかんと慣れ。残るは十二枚。


「じゅうに……」


 さらにもう一枚。


「じゅういち」


「よし、オレがアポロだ」


 弾んだ声だ。


「なぜ?」


「さっき落ちた十二枚目と勝負してたのさ、十一枚目に残ったほうがアポロだってな」


「アポロというのは?」


「初めて月に行った宇宙船さ」


「月だって? あの空の上に浮かんだ、あの月のことかい?」


 返事はなかった。アポロは誇りを胸に抱いたまま、ここからは月よりも遠く思える地上へと、ひとり静かに旅立っていった。


「そろそろお別れだ」


「下でまた会えるか?」


 自分の最後を知る葉っぱもいる。それが幸運なことなのか否かはわからない。


 二枚は順に天に召された。


 その次の二枚は、なんの予告もなく落ちていった。


 冷たい風がつるの間を吹き抜ける。レンガに必死でしがみつくつるは、とても古く、半ば腐りかけている。毎年春に葉をつけることが信じられないほどに。


 そして、また一枚。


 三日前は百枚近くあった。それが今では、残り五枚。


「なあ、最後の一枚は誰になるんだ?」


 おどけた調子でそう言った葉っぱが間髪を置かずに落ちていった。


「少なくとも奴じゃなかったな」


 これだけの雨に打ちつけられているというのに、カラカラに乾ききった声だ。葉っぱじゃなかったら煙草の煙でも吐き出しているところだろう。もちろん、葉っぱだからそんなことはできないのだが。


「なあ、フレディー、老葉オールド・レイディのことを覚えちゃいないか」


老葉オールド・レイディ?」


「ああ、たった今、オレが名付けたのさ。俺たちの下の去年の蔓で半ば腐りかけたままどうやっても落ちずにいたあの古い葉っぱさ」


「ああ、」


 俺は古い記憶を呼び戻していた。穏やかな風の時は乾いたしわくちゃの葉でカサカサと悲しげな音を立て、激しい風の時は腐りかけ濡れた部分でレンガの壁にピタリと張り付いていた、あの葉っぱのことを奴は言っているのだ。


「そうさ、その老葉オールド・レイディのことさ」


「ああ、覚えているとも。生きながらにして腐りかけていく人生葉っぱの生きざまつかれ、早く天に召されたい、つまりは、地にかえりたいと譫言うわごとのように繰り返していた、あの葉っぱ。いや、老葉オールド・レイディのことは」


 しかし、この悪夢の三日間の最初の一吹きの風で、老葉オールド・レイディはあっけなく飛んでいったのだ。もしかすると、地獄のような雨風を耐え忍ぶことなくけたのは、彼女にとっては幸せなことだったのかも知れない。


「見てみろよ、向かいの建物の窓を」


「向かいの建物の?」


「緑の日除ひよけが降ろされた窓だ」


 それはすぐに見つかった。


「それが一体……」


 返事は無かった。奴は既に落ちていた。


 俺は緑の日除の降ろされた窓を見つめた。何の変哲もない窓でしかない。


 いや、違いがあった。


 窓枠の外に、見慣れた茶色い葉っぱが張り付いていた。


「あれは……、老葉オールド・レイディ……」


 なんということだ。あれだけ地への帰還を願っていた老葉オールド・レイディは、窓枠の上にみじめに引きちぎられた身体葉っぱさらしているのだ。


「神よ……」


 今や俺の他に残った三枚の内の誰か葉っぱが声にならないほどのなげきを、やっとの思いで絞り出す。


 ひときわ強くなった雨と風が、その声を掻き消す。


 やがて夜のとばりが降り、辺りは闇に包まれた。


 どれぐらい時間が経ったのだろうか。もはや、残っているのは俺だけだ。俺の意識も薄れつつある。終わりの時はもうすぐだ。


 鋭い光に照らされた。朝の光ではない。太陽とは違う方向から揺れる光が近づいてくる。誰かの息遣いきづかいを感じた。まさか、神か。最後まで残った俺のもとに神が訪れたとでも言うのか。


 そんな馬鹿な、と言いかけた俺は、恐怖に息を呑んだ。人間の男が、老人が、目の前にいる。男はいつの間にか立てかけられた梯子はしごを上り、俺の目の前に現れていた。


 間近で人間を見るのは初めてのことだ。下の方の葉っぱは稀に人間と遭遇することがあるが、俺のように高いところに付いた葉っぱは人間と近くで出会うことなど有り得ない。


 男の吐き出す息が俺に降りかかる。俺は身を固くした。この次に何が起こるのか、予想もできない。


 男は俺に手を伸ばしてきた。やめろ、触るな。今は触れられるだけで落ちてしまう。このつるに残った最後の一葉として俺はまだ生き延びたいのだ。だから、俺に触れるな。


 しかし、俺の願いも虚しく、男は俺に触れた。そして、なんと驚くことに、俺をつるから無情にも、もぎ取ったのだ。


「なんてこった……」


 遠くなる意識の中で、男がガサゴソと何かを取り出し、作業を始めたことを感じている。男は俺から手を離さなかった。何度もしげしげと俺を観察し、それから壁に向かって手に持った細い棒を滑らかに動かす。時折、俺を口にくわえ、俺を持っていた手で平らな板を取り出す。しばらくその板の上で棒を動かしてから、再び俺に光を当てて観察し、また壁に向かって棒を動かす。


 俺には何がなんだか分からなかった。凍りついてしまうほどの雨と風の中、男の作業は長く続いた。


 男は動きを止め、満足げに息を吐き出す。持ち上げたランタンで照らされた壁に、さっきまでのオレとそっくりそのままの葉っぱが描かれている。


 俺は混乱していた。これは夢か。夢だとしたら悪夢なのか、それとも良い兆しなのだろうか。


 男は激しく咳き込んだ。病魔が男を蝕んでいる。それが、なぜか俺にはわかっていた。


 男の手の力が緩んだ。俺は男の手を離れ、今や一枚の葉っぱとして風に翻弄され、地上をめざす。男がなぜ壁に俺を描いたのか、その理由すら知らぬままに。


 ◇ ◇ ◇


 グリニッチ・ヴィレッジの地面で凍てつく滝のような雨を浴びながら過ごす二日間は永遠に少しだけ似ている。


 降り注ぐ雨は止みそうにない。が、それでも朝はやってくる。地上に落ちて二日目の朝が。


「おはよう、若葉ヤング・ボーイ


 俺は、しわがれた老婆ろうばの、聞き覚えのある声で目覚めた。


「あんたは……」


 老葉オールド・レイディと言おうとして飲み込んだ。彼女は自分がそんな名前で呼ばれていたことを知っちゃいない。老葉オールド・レイディ身体葉っぱ千切ちぎれ、わずかにしか残っていない。


 それはともかく、若葉ヤング・ボーイとは、誰のことか。


「あなたのことよ、若葉ヤング・ボーイ


 老葉オールド・レイディの声は、心なしか弾んでいた。


「たったひとりで窓枠でバラバラになるのかと怯えていたわ。けれど、ようやく降りてきた地上には、あなたがいたのよ、若葉ヤング・ボーイ


「俺は若葉ヤング・ボーイじゃない」


「あら、では、なんと呼べば」


「フレディー」


「フレディー」


 老葉オールド・レイディは遠くを見つめるような声で言った。


「素敵な名前」


 そんなことは言われたことがない。


「フレディー、私は間もなく地にかえるのよ」


 言われなくてもわかる。そして、それは俺も同じだ。


「地上はなんだか暖かいわ。温もりを感じるの」


 そんなはずがあるわけはない。ニューヨークの11月は、地面の温度も下がっている。それに、まだ雨は降り続けている。


 なのに、俺は老葉オールド・レイディの言っていることが分かり始めていた。地面は冷たい雨に打たれていたとしても、あの壁のレンガのような恐ろしい冷たさとはまったく異なる。こうしてを横たえて初めて知る、つちの柔らかいぬくもり。


「私たちは全体の一部として生まれ、一枚の葉っぱとして落ち、土にかえり、再び養分として全体に戻るの。大きな輪の中に私たちの生はある」


 老葉オールド・レイディは、俺にではなく自分に語りかけているようだった。


「私は地面に還ることを望みながら、それをおそれていた。今は受け入れている。私は今、再び全体へと還る喜びとともにある」


 俺は老葉オールド・レイディのひとりがたりに口を挟まなかった。


「あなたもやがてわかるわ」


 老葉オールド・レイディの声は徐々に聞き取れないほど小さなものになっていく。だが、無理に聞き取ろうとはしなかった。


 つるから離れるまでは、終わりの時はつるから離れた時だと思っていた。けれど、本当の終わりは土に還る時までなのだ。そこに耐えがたい苦しみはない。ただ、受け入れるだけだ。


「そうそう、若葉ヤング・ボーイ


 最期さいごの時を前に、老葉オールド・レイディの声が一瞬だけ力を取り戻す。


「あなたを見ていた人間がいたわよ」


「俺を?」


 思わず聞き返す。


「ええ、私が張り付いていた窓枠の向こう。若い女性があなたのことを話していたわ」


「俺の?」


「いえ、本当はあなたじゃない。あなたのいた場所に描かれたあの絵……」


 それだけ言って老葉オールド・レイディの声は途切れた。


 あの絵が一体どうしたというのか。


 それを尋ねようとして、俺はやめた。もう、老葉オールド・レイディからの返事は帰ってこないだろう。


 それに、聞いたところで、どうなるという話でもない。


 俺は最後の一葉となり、散った。


 ただそれだけの話だ。




 終

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