誰のために

 アパートの階段を上ってくる足音が聞こえる。

 間違いない。ご主人様の足音だ。


「佇まいは鏡で入念にチャックしたので大丈夫です。あとは第一声をきちんと言えるかどうかにかかっています。おかえりなさい! よし、完璧です」


 階段を曲がり、玄関前で足を止めた。

 鍵を回す音が聞こえる。


「今更ですが、おかえりなさいませの方がよかったのかもしれません……」


 もう遅い。


 扉が開いた。


「ただいま~」


 彼女はそう言って、棚の上に鍵を置き、靴を脱ぎはじめる。

 のれんを隔てた先に強烈な気配を感じる。足が、がくがくと震えだす。

 怯える心を断ち切るように首を振り、

 ――誇り高き小鳥神よ、ボクに勇気を与えたまえ!

 覚悟を決め、のれんを振り払って一歩進み、


「おおおおかえりなさい、ごっご、ご主人様!」


「――ッ?」


 ご主人様との初顔合わせに歓喜の顔で出迎えた。

 が、今さらになって気づく。

 どうみても、不審人物である。


 ドサッ、と買い物袋が床に落ちる。


 彼女は震えながらボクを指で差し、


「あ、あなた、誰よ。何してるのよ、こんな所で……」


 しまった、事の経緯をどう説明するか考えていません。


「あの……これはつまり、その、」


「警察」


「ま、まってください!」


 回れ右をした彼女を後ろから抱きしめるように止めた。彼女は振り解こうとして暴れだし、


「放しなさい泥棒!」


「どど泥棒じゃありません! ボクはその、」


「女の子なのにボクってますます怪しいじゃない!」


 必死になって押さえ込む。

 だが、そこでなぜか動きを止め、ボクの身なりをじっと見て、


「それ……私の服じゃない。なんであなたが着てるのよ、返しなさい!」


 と今度は服を引っぺがそうとして暴れだす。


「に、人間になったら裸だったんです! そんなに引っ張ったら破けます。落ち着いて話を聞いてください!」


「わけのわからないこと言って誤魔化そうとする気ね、この泥棒!」


 下駄箱の上に置いてあった花瓶が倒れ、のれんが外れ、ちゃぶ台の上にもつれるようにして倒れこんだ。けして意図したわけではないが、上から押さえ込むかたちになってしまった。

 ここで真実をねじ込むしかない。


「ボクは、十姉妹じゅうしまつのピーちゃんです!」


 その一言が彼女の動きを止めた。が、やがて呆れたように笑だし、


「もう我慢の限界だわ。あなたどこの高校? 校長に突き出して退学にしてもらうわ」


「ご主人様がこんなにも分からず屋だとは思いもよりませんでした。どうしたら信じてくれるのでしょうか……そうだ!」


 いいことを思いついた。 

 ご主人様と一緒に練習した囀り。いっぱい練習して、上手になって、たくさん褒めてくれた鳥の歌を聞かせてみよう。

 ボクは深く息を吸い込み、唇を尖らせ、


 ――ッ。


 鳴いた。

 ご主人様が呆けたようにボクの囀りを聞き入っている。

 この歌は、彼女の疲れを癒すためにボクが考えたとっておきの歌だった。


 ――ご主人様、ボクを信じて。


 そして、想いを込めた歌を、歌い終えた。


 1秒が果てしなく長い沈黙が続いたあと、彼女は誰もいない鳥かごの中を見て、もう一度ボクを見て、そして、鳥だった頃の面影が色濃く残るボクの髪にそっと触れ、


「ピーちゃん、なの?」


「はいっ」


「でも、どうして……?」


 やっぱりボクのご主人様だ。ボクがピーちゃんだということを認識してくれた。

 泣きそうになるのをぐっと堪え、


「ご主人様に恩返しをするために人間になりました!」

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