とどかない背中

1.不協和音

 変わった人がいる。

 彼を一目見て、私はそう感想を抱いた。具体的な理由はわからない。けれど、直感的に「ああ変だな」と思ってしまうだけの異様さがあった。違和感とも言う。好奇心を刺激される気がした。

 かくして、講義中に彼の存在を認識してしまったものだから、教授の話は右から左。ノートは純白を保ち、右手に握られたシャープペンは直立不動を決めていた。民主主義の欠陥を滔々と語る教授の声に、一抹の苛つきと煩わしさすら覚える始末である。

 斜め前に座る彼に視線を向ける。できるだけ自然に、ぼうっとしている風を装って。

 彼は周囲の学生と同様に教授の話に耳を傾け、シャープペンを忙しなく動かしルーズリーフを黒く染めていく。こうして眺めてみると特に変わった点はない。むしろ彼の様子を観察している私こそ、不審極まりないと言うべきだろう。

 気のせいか。そう納得しようとして、視線を動かそうとしたとき、彼に抱いた違和感の正体に気づく。彼のルーズリーフは黒一色に染められていたのだ。赤色や黄色が一切ない。さらには、長机の上に消しゴムがなかった。というかペンケースがなかった。あるのは、彼が持つシャープペン一本のみ。

 何かこう、ハーモニーの中にある間の抜けた和音を見つけたような、そんな感覚。不安を煽られる。別に、シャープペン一本しか持ってきてなかったとしても、それは人それぞれだ。あるいはペンケースを忘れただけなのかもしれない。

 しかし、第六感は警鐘を鳴らす。

 何故だか、もっと違う理由がある気がしてならなかった。

 と、同時に講義の終わりを示すチャイムがスピーカーを通し、空気を揺らした。学生は一斉に動きだし、その人混みに彼の姿は隠されてしまう。見失わまいと彼の背中を探したが、視界が開けたときにはもう、そこにはいなかった。

「やや、紗季? どうかしたのかなっ」

 呆然と、彼の座っていた辺りを眺めていると、隣に座る有希に声をかけられた。その声に、はっとして我に返る。

 得体の知れない違和感を追っていたなんて説明したら、間違いなく不思議ちゃんの二つ名を手にしてしまう。そうでなくても、一目惚れしたとか茶化されてしまう。さすがにそれは避けたくて、私はなんでもない風に言う。

「いえ、ぼうっとしていただけです」

「そ。それならいいんだけど。ほら、ご飯行こうよ」

 有希は興味なさげに言うと、急かしてきた。

 講堂を出るのは名残惜しい気がしたけれど、早くしなければ中庭はすぐに人で溢れかえってしまう。仕方がないと踏ん切りをつけて、彼女の言葉に従い席を立った。

 遅くても来週のこの講義でまた会えるはずだ。それに同じ大学に通っている以上、どこかしらで目にすることもあるだろう。

 私は有希の背中を追うようにして、講堂をあとにした。


 彼を再び見つけたのは、二日後のことだった。なんと必修の語学(英語)で同じクラスだったのだ。今まで全く気づかなかった自分が憎い。

 その背中を見つけたとき、胸が高鳴り気分が高揚していくのを自覚する。これじゃあ恋する乙女だと自嘲したが、探究心と恋心の熱量に、大きな差はないように思う。

 結局は、何かを知りたいわけだし。勿論、恋ではない。宇宙人が目の前にいて、一目惚れする人はたぶん地球人とは呼べない。

 どうにか近づく機会はないものかと、タイミングを窺う。しかし、一度人間関係が構築されてしまった現状、なかなか難しい。

 友達であることと、友達でないことは、同義である。

 友達という関係と、友達でないという関係。どちらにせよ取捨選択した結果に過ぎないのだ。意識的にせよ、無意識にせよ。私たちは選択する。

 選択せざるを得ない。

 後悔先に立たず。今の人間関係に後悔しているわけではないけれど、こうして新しい関係を築こうとすれば枷となる。どちらにとっても。どうしたものか。

「はい、というわけで、男女のペア作って」

 八方塞がりに陥った私に光明が差した。どういうわけかは話を聞いていなかったのでわからない。講師の用意した例文でも読むのか、はたまた議論するのか。何だっていい。

 重要なのは、絶好の機会が訪れたということ。

 講師の言葉とともに、クラスメイトたちはそれぞれペアを作るため席を立った。あぶれないように必死なのだ。

 その中でただひとり。彼は席に座ったまま微動だにしない。なるほど。どうやら彼は独りらしい。これはまたとないチャンスだ。

「相手いる? よかったらどう」

 席を立つと、私が属するグループの松下が声をかけてきた。しがらみ。普段からしつこいぐらいアプローチをかけてくるので、あまり好きではない。けどこの瞬間に限って言えば、この男でよかった。

「すいません。お断りさせて頂きます」

 私が迷惑しているのは周知の事実である。だから断ったとしても不自然ではないし、あとで有希にフォローを入れておけばいい。松下はあからさまに落胆していたが、私には関係のない話だ。

 それより。

「見た感じお相手がいないようですが」

 できるだけ威圧感を出さないよう気をつけて、私は彼に声をかけた。自分で思っている以上に声は硬い。緊張しているらしい。

 彼はきょとんとした表情を作る。まるで、話かけられることが意外だと言わんばかりだった。

「えっ、ああ。僕には友達がいないから」

 感慨なさげに言う彼。悲観すらせずにそうはっきりという姿に、《ああ変な人だな》と改めて感想を抱いた。

「なら、どうです?」

 手を差し出す私。こうすれば断り難いだろうとの算段だ。

 思惑通りに彼は私の手を取った。躊躇いなく、動揺すらせず。当然のように、私と彼は握手した。

「うん。よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 女慣れしているのだろうか。無駄のない、洗練されたその動作に、私のほうがたじろいだ。しかし、それぐらいは些事である。私は彼の隣に座った。簡単な自己紹介を済ませる。

 伊藤悟と名乗った彼の机に視線を向けると、やっぱりシャープペンしかない。好奇心が臨界点を迎える。

「あの、どうしてシャープペンしかないのですか?」

 いきなり過ぎたかな、とちょっと心配になったけれど、そもそもこんな質問をする機会はいつだってないだろう。ならば、いつしたって一緒だ。

 質問を聞いて、彼ははて、と首を傾げ腕を組んで考え始めた。質問の意味がわからないのかもしれない。そりゃあそうだろう。今まで友達皆無の人間が、急に質問されても困るに決まっている。

「特に、理由はないかな。というか、考えたこともなかった」

 だから、彼が口を開いたとき私は笑いを堪えきれなかった。

 その応えが、あまりにも意外なものだったから。困惑しているならまだ、わかるけれど、そういう雰囲気でもない。

 彼を見て、こんな孤独なら私もいいかなと、思ってしまった。

 現実から目を背けるように、そう思ってしまったのだった。

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