8.重ねる
孤独感とは、物理的な距離に左右されない。
いくら親しい人間が寄りそっていても人によっては孤独を感じるし、また辛くなるときもある。逆に距離が開いていても、満たされるときもある。
私は中途半端に、他人と関わりを持ってしまった人間だ。そして、痛い目を見て失った。だから、物理的な距離ほど役に立たないと認識しているし、嫌悪さえする。
みんな嘘吐きで、私を騙そうとする。嘘で塗り固められた距離は虚しく、かえって孤独を呼び込むのである。
つまるところ、孤独とは精神的な距離感で決まるものなのだ。
伊藤くんとの生活を続けて、私が孤独を感じなくなったのは心の距離が近くなったからに外ならない。彼との生活は、私にとって憧れそのものだった。
あり体に言うならば、私は惚れていた。
ただ、惚れているだけでもなかった。
伊藤くんの顔を眺めつつ、座卓に置かれたおちょこを手に取り、日本酒を啜る。芳醇な香りが鼻を抜け、さっと引いていく。口の中には独特の辛味が広がり、遅れて甘味がゆっくりと喉を通り過ぎていった。かぁっと顔が熱くなり、アルコールを摂取していると実感させられる。
私たちは晩酌をしていた。この部屋にきてから初めての晩酌である。
奮発した甲斐があり、普段お酒を飲まない私たちでもこの日本酒は「美味しい」と感じられた。でもきっと独りで飲んだらそうは思わないだろう。
眼の前にいる彼が肴となっているから、こんなにお酒は美味しいのだ。と、心の中で惚気る。
アルコールが緩やかに身体を回り、思考の回転数を落としていく。不思議なほど気分がいい。今なら彼の魅力をいくらでも雄弁に語れそうだが、ダメだ思考が動かない。もう彼を眺めることで、精一杯だった。
おちょこが空になってしまったので、危なげな手つきながらも酒瓶を取り、日本酒を注ぎ足した。
まだまだ飲めるぞ、と意気揚々におちょこを呷る私とは対照的に、彼はすでに船を漕いでいた。
「大丈夫? 水持ってこようか」
「ううん、大丈夫。もう少しなら飲めるよ」
一応正常な反応はあるので、眠っているわけでも、泥酔してわけでもなさそうだ。
どうも彼は下戸らしく、二三杯で船を漕ぎ出していた。お酒を飲んだのはこれで二度目だそうだ。一度目はひとりで試したと、飲む前に言っていた。
ちなみに私がお酒を飲んだのは四度目である。初めてを共有したかった。後悔が残る。
そう自然に考えている自分に気づき驚く。誰かと共有したいなんて、今まで考えたこともなかったからだ。言葉を交わすたびに胸が躍る日常が訪れるなど、孤独に追いやられた私に想像できるはずがなかった。
幸せ。ふとそう思った。
私は彼からたくさんのものを貰った。何よりも私という存在を許容し、私の存在を求めてくれた。
それだけで、私は救われた。
不思議な気持ちだ。惚れているのは確か。ただ、恋心かと言えるかは、微妙だった。好きだとは思う。でも、それ以上に、彼に幸せになってほしいのだ。
「私はさ、君からたくさんのものを貰いました。だけど貰ってばかりなんだよね。何一つ返せていない」
酔っ払っているからだろうか。私は何も考えずに、胸の内を口にしていた。
はっとして、彼を見ると座卓に突っ伏していた。眠ってしまったようだ。恐らく私の失言も聞いていないことだろう。
胸の内を言葉にした瞬間、何かもやもやしたものが晴れていくような気がして、気分が良くなっていた。どうせ聞いていないのだ、全て出し切ってしまおう。
「だからさ、ときどきすごく苦しくなるんだ。君の邪魔をしていないか、すごく不安になるんだ」
意味のない独白。こうして口に出すだけで心が軽くなっていく気がする。
「私はね、君の邪魔だけはしたくないの。君を傷つけたくないの」
私は、本当にここにいていいのだろうか。
最後は言葉にせず、心の中で呟いた。それを口にするのは、とても怖かった。
「僕だって、君を傷つけたくない」
と、不意の返答。
彼に視線を向けると、座卓に突っ伏したままだった。幻聴かと耳を疑う。
「えっと、君は起きているのかな」
「うん起きてるよ」
「い、いつから?」
ちょっと待ってほしい。顔が暑いのはお酒のせいか、羞恥心のせいか。
そんな私を知ってか知らずか、彼はおどけた。
「さあ、いつからだろうね。まあ細かいことはいいじゃないか」
「良くないですよう」
ああ、どうしてこうなってしまうのか。私は頭を抱えて悶えた。口元が弛む。しかし、次の瞬間にはまた不安になった。
何も解決していないけれど、不安は拭えないけれど、それでもこうして私たちの想いは重なっていたのだ。
そう確信して、だけども今にも飛び出しそうな想いと、締め上げられそうになる不安を抱えて、私は彼と向き合う。
私は何をしたいのだろうか。
今にも泣き出しそうな情緒不安定な私。相反する感情に突き動かされて、私はごまかすように彼の頭を撫でる。
「君は、酔っ払うと考え込むタイプなのかな。まあ、笑い上戸とか、泣き上戸よりはましだけど」
私たちの距離はきっと、少しずつ近づいている。
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