7.傾く
感情の尺度は相対評価に外ならない。
感情。もしくは、感覚(五感ではなく感受性)と言い替えられる。なんにせよ、感情、感覚が変化するときは、何かしらを基準に評価しているはずだ。
感情や感覚の変化とは、端的に表現すれば外的な刺激に対する反応だ。
大きいか、小さいか。増えているか、減っているか。
反応自体は絶対的な変化と言えるが、変化前の状態があるからこそ観測できるのである。つまり、どこかしらの時点を基準にして観測しなければ、変化は変化になりえないのだ。
また、連続した刺激に反応は鈍くなる。
たとえば、宝くじを買うたびに当選する人がいたと仮定する。その人にとって『宝くじに当選する』事象は常識であり日常だ。幸運とも幸福とも思わないだろう。
ありふれた日常に、人は自身が幸運であると、幸福であると自覚できない。『失ってはじめて大切さを知る』とはよく言ったもので、あって当然なものを失ったとき、人は比較するからその大切さを認識できるのである。
幸福は『以前と比べて』の幸福だし、愉快も『以前と比べて』の愉快なのだ。
つまるところ、楽しい体験があれば次は往々にして辛い体験をするハメになるのである。百点満点を取ってしまえば、次は同点以下しかないのだから。
結論に行きつく。私なんかの考えだ、きっと間違えだらけだろう。
しかし、そもそも正誤は度外視しているので問題ない。
嘆息。そんな思索をしてしまうほどに、私は退屈していた。
ここ数ヶ月、めまぐるしく変化する生活に、私は戸惑いながらも楽しみを覚えていた。何をするにしても、彼との生活は目新しく、そして賑やかだった。
少なくとも、今までは退屈を感じなかった。待っている時間はわくわくして、伊藤くんと何かをしているときはうきうきして。どうしようもなく、私は浮かれていた。
だけどこうして今、私が退屈しているのはこの生活に慣れた証拠なのかもしれない。そうでなければ、飽きたことになるが、伊藤くんといる時間は今でも楽しいと感じるので、決して飽きたわけではない。
ああ、彼と話をしたい。楽しいことをしたい。……何これ、乙女過ぎる。
乙女と化した私をよそに、彼はひたすらにパソコンに向かっている。どうやら課題が思いの外難題だったようだ。
「ねえ、まだ課題終わらないの?」
退屈に耐えかねて、私は彼の背中に向けて訊ねる。折角の休日なのだから、たまには二人で遊びに行きたいのだ。
彼はコンピュータに顔を向けたまま、
「うん、もう少しかかるかな」
キーボードを叩きながらあしらわれる。私をぞんざいに扱う彼だった。
彼も私と同じく、この生活に慣れたのかと好意的に解釈しようとしたが、初めからこんな感じだったことに気づく。もう少し、優しくしてくれてもいいと思ったり。そう心の中で不満を漏らした。
たとえば、私を構ってくれても罰は当たらないはず。課題が進まないという問題は発生するだろうけど。それでも構って欲しいと考えている私は、面倒くさい女だ。
それに、何だかんだ言って伊藤くんは優しい。まあ、見ず知らずの私に、詮索しないでこの部屋に泊めてくれている時点で、むしろ優し過ぎるほどなのだが。どうも彼は人との距離の取り方に、接触のしかたに、苦手意識を持っているきらいがある。きっと優し過ぎるからこそ、気が利き過ぎて疲れしまうのだろう。
たぶん、私が今まで見てきた人の中では一番優しいと思う。ただ、彼には特別優しくしている気はなく、思うがままに生きているそうなのだ。
裏表のない優しさは、世界から孤立する。
人間は誰でも腹黒さを抱えていて、優しくするときは当人にとって利益利点がある場合のみだ。だから無条件の優しさに触れたとき、人は不信に思うし、疑う。
自分と彼を比べ、類似点を探す。
「何が目的だ」と、詰問する。弾劾する。そこに深い意図がないからこそ答えられない彼は、きっと断罪されてきたのだろう。
彼の優しさは気まぐれであり、だからこそ裏がない。
マジョリティに所属できない人間は、いつの時代も淘汰されるのだ。その正しさが証明されるのは、世代が移り変わり、冷静な評価を下せるようになってから。
本当に優しくない世界である。
伊藤くんの優しさを、私だけは素直に受け入れよう。都合のいい決意をして、彼の背中まで隠密行動。息を殺して、右人差し指を彼の右頬手前で待機。
左手で彼の右肩を叩く。
「ねえねえ、休憩しようよ」
彼は叩かれた肩の方へ振り返り、私の右人差し指が彼の右頬にぶつかっていた。
「…………」
無言のまま微動だにしない彼。無言で固まる彼に気圧され、私は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「や、やあ引っかかった。ほら、い、いつまでそうやってると肩が凝るよ。だから休憩がてら少し遊ぼう……、なんて」
どもりながらもどうにか言葉を発した私を、彼は横目で一瞥し、顔をコンピュータに向け直す。怒らせてしまったか、と怖くなり、私は彼の身体を揺さぶった。
「無視は酷いですよう」
何事もないように、彼はキーボードを数回叩き、そしてマウスをクリックする。
ああ、やってしまった。なんて謝ろう。彼の肩から手を放し、謝ろうと居住まい正したときだった。
彼は振り返り、
「キリのいいところまで終わらせたよ。何するの?」
訊ねてきた。
その瞬間、私は気分が晴れていく気がして、やっぱり彼とのコミュニケーションがこの生活での楽しみであると確信した。やはり感情は相対評価なのだ。
私は、彼の優しさを知っている。
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