6.一歩進んで

 リズミカルに包丁を振るう。野菜の大きさは適当に揃える。少し大きすぎたかもしれない。許容範囲内、もしくは誤差範囲内と言えなくもないけれど。正直、野菜の大きさなんてどうでもいいのだ。

 重要なのは、私が彼の部屋で料理をしているという事実である。

 伊藤くんの知人を自称した佐々木さん。私への敵愾心を隠さなかった彼女。私と彼の関係を言及しようとした彼女。

 私はそんな佐々木さんと先日、半ば必然の再会を果たし、当然のように対峙した。いや、『佐々木さんは対峙した』と言うべきか。私には彼女と争う意思はなく、好きにやってくれと放置しようとした。勿論、失敗に終わったのは言うまでもない。

 佐々木さんにしてみれば、ぽっと出の私が伊藤くんと同じ空間で生活し、そして隣りに寄り添う光景が気に食わなかったのだろう。おこがましいとは思うけど、私はそう推測している。

 こう言ってしまうと佐々木さんは否定するだろうし、私としても彼女の気持ち、想いを安っぽくして扱うようで躊躇われるのだけれど、それでも確信していることがある。

 私には、彼女の言動が理解できてしまう。

 身勝手な妄想で、自己中心的な思い込みだ。きっとありきたりな間違いで、醜悪な勘違いなのだ。それでも、たとえ非難され、糾弾されたとしても、私は断言する。

 私と彼女に、大きな差異は存在しないと、断言する。

 だから、私は彼に選ばれた事実を喜べない。いずれは彼女と同じ道を歩むのではと、危惧していた。

 私と彼女。二人は対極に存在し、絶対に交わらない。だからこそ近い。向きは違くても、スカラー量は同じ。方向が違えば、私は彼女に、彼女は私になっていたことだろう。つまりは同属嫌悪なのだ。

 些細な差異は致命的。

 彼女は私を否定した。しかし、気づいていない。否定することは、否定されることだと、彼女は最後まで気づかなかったのだ。私と伊藤くんは否定された存在である。彼女が何も知らずに踏み込んだ場所は、私たちにとって地雷原だった。

 経験の差。それが私と彼女の差異。私は孤独を知っている。それだけ。踏み込まずに、歩み寄る方法を、私は身に付けていたのだ。

 佐々木さんはもう少しだけ慎みを覚え、慈しみ、そして彼に歩み寄るべきだった。彼の気持ちを汲む努力に励むべきだった。それは彼女にとって、難しい話ではなかったはず。彼のためなら、それぐらいの努力はできたはず。

 想いを押しつけてなびくのなら、彼は孤独になどならなかった。彼女を責める気は毛頭ないけれど、常識を彼に適用するなんて残酷すぎる。誰も彼も強くはないのだ。

 料理は佳境に突入する。というか、あとは煮るだけ。夕食はカレーである。私の得意料理だ。隠し味は愛という名のトマト。隠れて特訓した甲斐があり、私はトマト恐怖症をどうにか克服していた。依然、好きにはなれないけれど。

 料理は面白い。ばらばらの食材から一つの料理ができあがる。私たちと同じだ。私と彼には、孤独である以外に共通点はない。思考回路も、感性も、価値観も。どれを取ってもまったく違う。

 それなのに同じ空間で、心地の良い生活を送っているのだ。それは偶然。たまたま波長があっただけ。私が後天的に手に入れたもの。

 笑えない事実だった。

 鍋の中身をくるくるとかき混ぜる。ルーは溶け、野菜に染みていく。私のようだと、心のなかで自嘲気味に笑った。

 私は孤独に染まり、伊藤くんに感化され、佐々木さんに影響される。笑えるほど浅薄な人格の持ち主だ。

 ……自暴自棄なのだろうか。彼女の気持ちを考え、同調しているだけなのかもしれない。愚かしい。

 どうしてだか私の胸は痛む。刺さった小さな棘はズキズキと痛みを残し、緩やかな速度で心を壊死させていく気がする。

 私と彼女の差異は小さい。

 しかし、私と彼の差異は、深く大きい。

 その差異が致命的に変貌する可能性なんて、いくらでも存在する。そんなことを考えると、縁に立っているような気がした。一歩先は深淵。底から手を招くのは孤独だ。怖い。

 彼女が指摘した問題は、何一つ片付いていない。改善されていない。改善ってなんだろう。解決なんてできるのか。

 私は心地良いと認識した関係に、首を締められる。

 そんなとき、

「カレーってさ、人によって味がかなり変わるよね。いや、家庭によってと言うべきか」

 何の前触れもなく、何の脈絡もなく、彼は私の背後に立ってそう言った。油断し切っていた私は「ひゃあ」と間抜けな声を上げる。心臓が爆発するのではと疑うほど強く速く鼓動し、嫌な汗が身体中からじんわりと滲む。

「君のカレーはどんな味なんだろうね。楽しみだよ」

 いつの間にか隣りに移動していた彼は、カレーの入った鍋を覗き込み、お玉でかき混ぜる。私はそんなあまりにも自然な彼の行動に、呆気に取られていた。

 これは、彼なりの気遣いだ。私の異変を察してくれたのだろう。そう思うと、何も解決していないけれど、安堵する。

 彼もまた、私と同様に歩み寄ろうとしてくれている。その方法はとても不器用だけど、だからこそ私は嬉しくなった。彼だって苦手なことに向き合っているのだ。

 私は決心する。今まで目を背けてきた関係に、感情に向き合おうと、決意する。

 たとえ結果が共わなくとも、向き合える機会があるだけで、私は幸せなのだ。

 機会を手にできなかった佐々木さん。彼女を想い、ぐっと息を飲む。私も頑張るから。心の中で呟いた。

 彼との生活は、これからも続く。そしてここから始まる。

「美味しいよ、すごくすごく美味しいよ」

 私は幸せと出会ったのだ。

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