4.扉を開けて
私が目を覚ましたのは、伊藤くんが外出した後だった。
時間を確認する。午前をとっくに過ぎていて、二時間前に午後を迎えていた。カーテンを開いてもあまり陽が入らず、部屋は薄暗い。太陽はもう少し頑張るべきだと思う。
そんな薄暗い部屋を眺めて、今日という日を無駄にした気分に陥る。実際無駄にしてしまったのだけれど。
思う存分に惰眠を貪った私は嘆息して、まだ寝足りないと不満を告げる頭を宥めつつ、ベッドの上でゆっくりと上半身を起こす。そのまま身体を伸ばしながら、深呼吸。脳に酸素が送られる気がした。覚醒。
ベッドから降りて、もう一度伸びる。背骨がぽきぽきと軽快な音を鳴らす。それから電灯をつけて、毛布を足元に三枚折で畳み、私は完璧に起床した。
あとは歯を磨いて、洗顔して、トイレにいって。
身支度を終えた私は、コーヒーの入ったカップを片手に、定位置に腰を下ろす。コーヒーを一口含み、カップを座卓に置く。熱いコーヒーが食道を落ちていく感覚に、安心感を覚えた。
床に投げ置かれた二つ折りの携帯電話を手に取り、充電器を外し、私はメール機能を呼び出す。受信メール一覧の中から、何度も眺めた目当てのメールを開く。
強めに設定されたバックライトが眼に痛い。けれど画面の中で躍る短い文章を眺めていると、どんな問題であれ些細なことのように思えた。
そのメールの内容は(彼が私に送った言葉は)現状維持を決定づけたのだった。
彼の優しさに触れた気がした。
私たちの異様な生活はそのまま。歪な関係もそのまま。
だから何も変わらないはずなのに、胸の内には不思議な喜びがあった。私はその感情に従って、だらしなく口角を上げる。
「ふへへ、ふへへ、ふはへ」
わけのわからない言葉を口ずさみながら笑う私は、どう考えてもどうかしていた。彼に見られては発狂ものだが、部屋には私しかいないので、気にしない。というか、気にするほど、余裕がない。追い込まれてなくても、人は心の余裕をなくせるようだ。新発見。
ぱたんと携帯電話の画面を閉じた。これ以上彼のメールを眺めていると、きっと頭がおかしくなってしまう。麻薬と一緒。中毒性があるのだ。
落ち着いて、コーヒーを一口。冷めてきている。と、お腹に違和感。痛いような、何かが動き回っているような、つまりは異変。
はて、と首を傾げたとき、ぐうと間抜けな主張が部屋に響く。私は胃が空っぽなことに気がついた。最後に食べたのはいつだっけ。
はてさて、どうしようか。冷蔵庫、キッキンの棚、さらには炊飯器を確認したところ、どこにも食材もしくは食品が存在しなかった。考えたところで選択肢は一つだ。
私は急いで着替えて、洗面所で眉毛と頬紅、カラーリップで顔を作り、玄関でスニーカーに足を突っ込む。そして解錠し、ドアを静かに半分ほど開けたところで、停止する。
停止せざるを得なかった。
ドアの前に、女性が立っていたからだ。
それは異常事態。
これは非常事態。
彼の元を訪ねる人間は、彼の言葉を信じるならば存在しないはずなのだ。私は混乱し、そしてフリーズ。空気は張り詰めていた。
女性はインターホンを押そうとしていたようで、その右手は人差し指を立て、ボタンを押す形を作ったまま中途半端な高さで止まっていた。ドアノブを掴んで中途半端にドアを開いている私と、そう変わらない。そして疑問も変わらないだろう。
「君は誰なの」「あなたは誰ですか」
私と彼女の言葉は重なり、不協和音を生み出す。疑問は変わらないけれど、私たちには明確な差異があった。
視覚情報で言うならば、ドアの内か、外か。
感情で言うならば、困惑か、敵愾心か。
私と彼女は簡単に、簡素に自己紹介を済ませた。初めに彼女、次に私の順番だ。自己紹介には、名前の他に彼との関係を明言する必要があった。私と彼女の共通点は彼以外にあり得ないし、何よりもこちらの方が関心の対象なので当然の話だった。
佐々木紗季と名乗った女は、伊藤くんと同じ大学に通っているそうだ。同じ講義を受講していて、よく話すのだと彼女は嘯いた。勿論、私は信じない。と言うより、疑惑は確信に変わった。
佐々木さんは彼の知人を、もしくは友だちを自称したけれど、それは自称でしかない。少なくとも、私は彼女の名前を一度も聞いたことがないし、彼女も私の存在を知らなかったからだ。決定的なのは、彼が不在中なのにも関わらず、彼女がこの部屋を訪ねてきた点だ。つまり、彼女は彼の連絡先すら知らない。
佐々木さんの言葉は、私への牽制なのだ。
「それで、あなたは彼とどういう関係なんですか」
苦渋の表情で、彼女は訊ねる。声音は低く、眼はあからさまな敵意に満ち溢れていた。これでは質問ではなく詰問だ。私はそんな彼女の態度に苛つきを覚えたが、ぐっと飲み込む。感情を昂らせれば、彼女の思うつぼだ。
わざとらしく嘆息して、冷静を装い、
「私と彼は……」
彼との関係を伝えようと口を開いて、私は言葉に詰まってしまう。彼との関係。私たちには、明確な関係が存在しなかった。
その隙を、彼女は見逃さない。ふっと鼻で嗤い、追撃をかけてきた。嫌な女だ。
「あなたと彼は、何だと言うんですか? どうしてあなたがこの部屋から出てきたんですか? 彼はいないんですか? 教えてください」
怒涛の質問攻めに、私はげんなりとした。そう一度に複数の質問をされてしまうと、答える気がなくなる。第一、彼女の方こそ同じ大学に通っている以外に接点はないのだから、私たちの関係に首を突っ込まないで欲しい。
そんな不満が爆発し、
「関係は居候と家主です。私たちはここで生活してるんですよ。ちなみに彼はいません。それより、君こそどうして彼の住まいを知ってるのかな。少なくここ数ヶ月は誰も訪ねてこなかったんだけど」
これでもかと、私は彼との生活感をアピールする。すると彼女は露骨に悔しそうな表情を作り、
「そうですか、いないならもう用はありません」
捨て台詞を吐いて逃げ帰っていった。彼女の姿が見えなくなったとき、私は安堵のため息を吐いた。しかし、今回の彼女との接触は、これから先起こるであろう問題の始まりを意味している。どうしたものか。
どっと疲労感が出てきたので、私は買い物を諦め、部屋に逆戻り。疲れた、もう一度寝よう。
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