2.流れる

 伊藤悟と名乗る彼が案内してくれた部屋は、寂れた公園からほど近い、わりと新しい二階建てのアパートだった。その二階に三つある扉のうち、真ん中が彼の部屋である。

 1DKの部屋には必要な家具家電しかなく、それらも綺麗に保たれているために、どうにも生活感が希薄に思えた。まるでビジネスホテルにいるような気分だ。

 アパートの周囲は住宅街なのに、静かというか辺りからは人の気配が全くしない。やはり彼には選択肢がなかったのだろう。罪悪感を抱く。

 その場のテンションに身を任せ、私は穴から助ける代わりに、成り行きと勢いで泊めてくれと交渉し、彼は何も訊かず二つ返事で了承してくれた。

 少しばかり卑怯な手を使ったのだけれど、しかしその交渉は冗談みたいなものだったので、まさか本当に泊めてくれるとは思わなかった。穴を掘る行為といい、彼は本当に変わっている。

 変わっているから、私は心を奪われたのかもしれない。別に惚れたわけではない。興味が湧いたのだ。

 初めは身体目的なのかと自意識過剰にも危惧したが、彼にそのつもりはないようで、泊めてもらってから三日経った今でも肉体的接触は皆無である。ちょっとだけ自信を喪失したのは秘密だ。

 それにしても、三日。おこがましいことに、私は彼の部屋に三日間も滞在している。言いわけをするならば交渉のときに期間を設定しなかったので、私が気にすることではない。と、開き直れたらどれだけ楽か。

 ただ彼が何も言わないので、何となくこちらからも切り出しにくくずるずると時間ばかりが過ぎていた。

 そんなこんなで独りと独りの共同生活である。

 彼は私がいることを受け入れているというか、特別気にせずに生活している。だから当然のように、見ず知らずの私を置いて大学に行ってしまうし、帰りは二人分の買い物をしてくる。

 そうして極々自然に生活を再開した彼を見て、戸惑いながらも私は家事の手伝いを申し出た。すると彼はお金と合鍵を差し出し、私に買物を頼んできた。

 内心、いやいや、それ持って私が逃げ出すとか考えないの? と実に驚愕したものだ。

 大きく構えているのか、防犯意識が低すぎるのか、人を信用し過ぎているのか。私には判断がつかないけれど、何だかそんな彼を見ていると、自分ばかりそわそわしているような気がして馬鹿らしく思えた。

 四日目の昼。やはり極々自然に向かい合って食事をする光景に、どうして私はここにいるのだろうと疑問に思い、成り行きを想起していた。

 何度思い返しても、私もおかしかったけど彼の対応もおかしい。笑えてきた。

「ねえ、君は私がこうしてここにいることに疑問を抱かないの?」

 質問すると、彼は不思議そうに首を傾げる。不思議なのは私の方だけど、とは言わない。

「別に理由を訊いても意味がないしね。それに、訊かれたくないことって誰にでもあるもんだよ」

 もちろん僕にもね、と付け加えて彼は締めくくった。

 だから詮索しないのか、と思ったが彼の様子を見る限り、そんな気遣いはなさそうだ。きっと彼は自分の秘密を語りたくないだけなのだろう。

 だけどそれが、たとえ気遣いでないとしても、私にとってはありがたいことだし、そんな彼との生活は心地いい。彼は、私の存在をありのまま許容してくれる。

「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ。はい、お礼」

 そう言って、私はお皿に盛られた付け合わせのトマトを彼に差し出す。トマトは凶器です。

 彼は差し出されたトマトをまじまじと眺め、しばらくしてからそれを無視し、食事を再開した。酷い。今ので意図は伝わったはずなのに。

「トマト嫌いなんだね。わかった、夕飯はトマト鍋にしよう」

 彼は私の眼を見ずに、お皿を眺めて爆弾発言。一体なんの恨みがあると言うのだ。

「えっちょっ、死んじゃいまいますよう」

「トマトをバカにする奴はトマトに泣けばいい」

「そんなにトマト好きなんだ……」

 私の必死の懇願虚しく、彼は吐き捨てるようにトマト攻撃を宣言した。

 抵抗しようにも、この部屋の諸々の権力は彼が握っている。というか彼の独裁だ。つまり、今晩はトマト祭りならぬ、トマト地獄……。

 考えただけで恐ろしい。背筋が震える。

「ごめん。トマトをバカにしたつもりはないんだよ。だからさ、どうにかトマト鍋だけは勘弁してもらえないかな」

 私は素直に謝罪する。さすがに好きなものを貶されれば、怒りもするだろう。

 もちろん、トマト地獄を回避したいという下心も全開だけれども。

 だから、私は土下座した。人生初の土下座だった。

 鬼気迫る勢いで土下座したせいか、彼は若干引いたのだろう。「とりあえず顔を上げてよ」と静かに言った。

 勝った。と、内心ほくそ笑んだ私は、我ながらいい性格をしていると思う。

 顔を上げると、伊藤くんは私を見下ろしていた。

 そして私のお皿を指差した彼は、

「このトマトを完食したら考える」

 満面の笑みだった。

 彼は私と同じぐらいいい性格をしていた。

 泣く泣く食べ終わり、私は一言。

「私のことは空気か何かだと思ってくれればいいから」

 こんな扱いを受けるぐらいなら、そもそも無視してくれた方がましだ。

 そう、心の中で毒づきながらも、こんな生活を楽しんでいる自分にも気が付いた。

 私は、彼といれば存在を取り戻せるような気がして、嬉しくなった。

 もう少しだけ、ここにいさせてもらおう。

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