10.朝焼けと目覚まし
カーテンの隙間から射し込む朝日に照らされて、僕は微睡む。
一度目の目覚まし時計が鳴ったのは、五分ほど前のことだった。次は十五分後に鳴るよう設定してある。キンキンと頭に響く音は耳障りだ。本当なら買い替えたいのだが、いくつか試した結果、この目覚ましでなければ僕は起きられないようで、替えるわけにはいかなかった。
ぼんやりした思考は落ちていく。浅い眠りのはずなのに、僕は深く深く意識を沈める。いつもの悪夢だ。
ゆっくり、ゆっくりと沈んでいく意識と同時に、僕はあらゆる感覚を失い、独りになった。
そして辿り着いた先は時間、空間、感覚がない交ぜになった渦の底。僕はまとまらない思考を続けながら漂う。
僕という個は消えて、それでもなお、思考するこの存在は一体何者なのだろうか。認識できない存在は、存在といえるのだろうか。
僕はここにいるのだろうか。
不安に駆られて、もがこうと手足をばたつかせてみる。しかし感覚がないので、ばたついているのかも定かではない。
怖い怖い怖い。
僕が生きている意味はなんだ。
僕の価値はなんだ。
何もかもが融けて消える。それだけでいいじゃないか。僕は自分に言い聞かせて、体を預ける。何も変わらない。
僕はいない。この世界に僕はいない。
いてもいなくても変わらないのなら、それはいないことと同義だ。僕がいなくても世界は回る。いることといないことは同義ではないのだ。
このまま僕が目を覚まさなくても、世界は変わらない。
分かっていたことだった。必要ないと宣言されたのは、もう随分昔のことなのだ。いまさら悲観する必要はない。
だけど、残酷なほどに時間は進む。終わっていても、続いてしまう。僕は意味もなく、価値もなく生き続けてしまった。
願いもしない朝がやってくる。
このまま夜明けが来なければ、それは幸せなのかもしれない。
「そうは言っても朝はやってくるものよ」
揺さぶられて、僕の意識は急浮上。感覚が置いてけぼりなってしまう。
「私と一緒にね」
意識と感覚が横に並び、やっと僕は身体の感覚を取り戻した。まずは瞼を上げる。次に、揺さぶっているその手を払う。最後に身体を起こす。
「起きました」
「よろしい」
水瀬はこぶりで可愛らしい鼻と、僕の不細工な鼻をくっつけて、優しく微笑んだ。
「起こして欲しいとは、頼んでないんだけどね」
「頼まれなくても起こすのが、私なりの愛なのです」
言って口づけする彼女。接吻。咥内に彼女の舌が侵入。僕の舌はそれを迎撃。眼は開いたまま。
寝起きにいきなりキスをされて喜ぶのは、虚構のなかだけだ。少なくとも僕は違う。ただ、妥協して、せめて歯は磨かせて欲しい。
彼女の肩を掴み、引き離す。深呼吸。咥内に置き忘れていった彼女の香りが広がり僕を支配する。朝の合図だった。飲み込む。
恨めしそうに睨む彼女は、口を尖らせて不満を漏らした。
「何でキスで終わせるのかな」
「朝だよ?」
「朝嫌いなんでしょ」
彼女はそう言いながら、僕の首に腕を回し生殺与奪権を握る。引き寄せられた。
彼女の胸に顔を埋められ、僕は言葉と共に閉じ込められる。
彼女は下着を着けていないらしい。豊満ではないが、小さくもない乳房を僕の顔に押しつけて、彼女は甘い声を漏らした。
「くすぐったい」
「なら、離してくれよ」
返事はない。いつものことだった。これが日常。尊いものかはわからない。
彼女の腰を掴み、引き離す。そのときも彼女はわざとらしく小さく喘いだ。どうやら続きを所望しているらしい。断る。
嘆息。彼女を無視して立ち上がる。カーテンは彼女が開けてくれたようだ。
「私はね、思うんだよ」
着替えるためにシャツを脱ぐと、彼女は僕の背中に抱き付いた。彼女もシャツを脱ぎ捨てているようだ。温かい。
「生きていくことに意味はいらないんだよ。価値もない。何となくでいいんじゃない?」
僕の夢に対する解答が、彼女の口から発せられたことに素直に驚く。
「寝言でも言ってた?」
「うん」
夢を言葉にしていたらしい。恥かしいと思う。けれど、それを察せられるのは余計に恥ずかしい気がして、僕は何でもない風を装う。
そんな僕の強がりを知ってか知らずか、水瀬は続ける。
「でもねぇ、私にとって君は世界の重要な一部なんだよ」
価値を付与するのは、いつの時代も人だ。そしてその価値はひとによって違う。僕にとって僕は無意味で無価値だけれど、彼女にとって僕は重要だと言う。
心が晴れるなんて、そんな綺麗事はない。悩みですらない、疑問だ。僕の答えではない。
「そっか」
でも、それでいい。きっとそんなものだろう。何もわからないまま進む先には、何も分からない場所が広がっている。だけど、それでも確かに、僕たちの時間は進んでいくのだ。
「そこは、僕もだよ、って言うところだよ」
「さあね」
僕は彼女の手を離して、振り返る。彼女は不思議そうに首を傾げた。
僕から接吻。少し身長差があるから、彼女の高さに合わせる。今回はすぐに離す。大人のキスは歯を磨いてからだ。
眼を見開いて驚く彼女。仕返しだ。
僕は言う。
「おはよう」
彼女は答える。
「おはよう」
僕たちは目を覚ました。
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