9.胸に残る微熱を
寒い。シャツは汗で湿っている。体温が奪われていく。
悪夢は続く。眠りに着くと、悪夢にうなされる。まるで眠るなと言わんばかりに、安眠を妨害してくるのだった。
しかし、今まで違うこと。
「大丈夫? うなされてたよ」
悪夢を最後まで見ることが少なくなったのだ。水瀬のお陰とは、悔しいので言わない。それに途中で起こされたからといって、悪夢が終わるわけではないのである。繰り返す。悪夢は終わらないまま、僕を待ち、その牙を研いでいる。
「大丈夫だよ」
だけど、僕も繰り返す。大丈夫だと何度でも答える。気遣いや、優しさの様な高尚なものではない。悟られたくないだけという、誰しもが思う、独り善がりのわがままだ。
「嘘。嘘だよ。顔真っ青だもん」
僕の顔を覗き込む水瀬。多分、心配しているのだろう。お節介。そんなことを思ったりしてみても、さすがに口には出さない。僕だって空気は読むものだ。でも、部屋は薄暗い。僕の顔色までは、いくらなんでも見えないはずだ。
僕が黙っていると、気が付けば彼女の顔は、文字通り目と鼻の先にまで近づいていた。
どさくさに紛れて、何をする気なのだろうか。考えるまでもない。彼女は僕の頭に手を添えた。退路はなし。
キス。接吻。口づけ。咥内に彼女の舌がゆっくりと、入ってくる。比較対象がないのでわからないけど、彼女の唾液は、舌は、温かい。もしかしたら僕が冷たいのかもしれない。まるで僕の体温が少しずつ奪われていくようだ。なんて、くだらないことを考えつつ、ぼおっとされるがまま。
彼女は一旦距離を離し、上目遣いで訴える。
「私だけ頑張ってると思うと、悲しくなったり」
「初めてだから分からなくて」
くすくすと可愛らしく笑い、彼女は僕の頭を撫でた。その手はやはり温かい。僕は心まで熱を帯びていく気がして、無性に恥ずかしくなった。
「私もだよ。だからね、試行錯誤なのです」
言い終えるのと、キスが再開されたのはほぼ同時だった。
彼女が咥内で、もう一つの舌を探す。僕は彼女に答えるように、舌を交わらせる。
彼女は息継ぎのためか、また距離を取った。名残惜しさが咥内に残り、僕を支配する。温度の違う彼女のものを僕は飲み込んだ。
「私たちの関係はなんでしょう」
「家主と居候」
彼女は微笑む。どうやら、おかしくなったらしい。
何故だろう。奇妙な同居生活をそこそこの期間続けてきたが、明確な答えが見つからない。最近でこそ普通に接するようになったが、関係そのものは変わっていなかった。
「無責任なのかな」
「ううん、最近思うんだけど、私たちはこのままでいいのかなって」
「気持ち悪いんじゃなかった?」
「始めれば終わるでしょ。私は終わりたくないの」
そうだね。僕も応える。終わりたくない。だけどこのまま続けたとして、本当に終わりはないのだろうか。
「でも、今のままで続くとも限らないよ」
「そのときはそのときですよ」
彼女は満面の笑みだった。矛盾していると思う。難しく考えたり、不安に思うのが馬鹿馬鹿しくなるほどに。
それに、案外的を射ているのだ。関係を意識すれば、きっと縛られてしまう。たぶんうまくいかない。
「出会いからして行き当たりばったりだったしね」
距離を詰めようとしなかったから、僕たちは今日まで生活できた面もあるはずだ。気遣いや優しさは美徳かもしれない。けれど、意識して行動するのは疲れる。
「それに無理に維持する必要もないよ。たぶんさ、少しずつ変化していくものなのです」
「まあそうかもしれない」
「というわけで、続きしましょう」
「マジですか」
口を開いたまま、硬直。次の瞬間、笑いがこみ上あげてくる。やっぱり矛盾していて、矛盾しているけど、許容できるのも今の関係な気がした。
彼女も一緒に笑って、それから対照的に静かに微笑んだ。
「君、変わったね。いや、変わったんじゃないか。これが君なんだね」
言い終えて起き上がり、するりするりと、彼女は服を脱ぐ。あっという間に下着姿になった。布団を剥ぎ、僕の腹部に馬乗りになる。
「君も脱ぎましょう」
「なぜ?」
悪足掻き。彼女の思惑通りになるのは、何となく癪だった。
スエット越しに、彼女の熱が伝わる。彼女が服を脱ぎ捨てた今、彼女の熱を普段以上に感じ、僕の熱は彼女に奪われていく。もし、この先を続けるとして、僕の熱はなくなってしまうのか。ちょっとした不安に駆られる。
彼女は悪戯に口角をあげた。僕はシャツをめくりあげられ、腹を舐められた。くすぐったい。降参と大人しく彼女を下ろして、脱いでいく。
僕は彼女に笑っていて欲しいと思う。少し前は違うと思っていたのに、心境の変化が起きていた。
だけど、不安もある。僕は人を知らない。独りで過ごしてきた僕にとって、彼女は初めての人だ。だから、その人を悲しませたくはないし、傷つけてしまう気もして怖かった。
「大丈夫だよ、大丈夫」
彼女は隣に寝転がり、抱きしめてくれた。彼女の熱を取り逃がしたくなくて、僕も彼女を包み込む。
「私はね改めていうけど、君が大切なの。だから怖いの。君が消え入りそうで怖い」
「僕は君に熱を奪われているようだよ」
「じゃあ私の熱をあげる」
肌で感じる彼女の熱は、熱かった。僕の熱は奪われていく。変わりに彼女の熱が僕に入り込む。
全てがない交ぜになって、僕は彼女に、彼女は僕に。二人で同じ熱を共有する。
僕の熱は奪われた。
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