8.背中合わせ
世界が回る。くるくる回る。起伏のない僕の感情は、意味もなく高揚している。顔が熱い。身体が重い。意識はどうにか保てている。だけど、座っていることすら、今の僕にとっては難しかった。それでも嫌な気分はしないので、不思議に思う。
向かい側に座り、ニコニコ微笑む水瀬。きっと僕の醜態を眼に焼き付けているのだ。後々まで、笑いの種になることだろう。思い出し笑いをされるかもしれない。どうでもいいか。
酔っ払った。座卓に伏せる。
僕は酒も煙草もやらない。必要がないなら、極力避けたいとすら思っている。だから、必要だったのだと自己弁論。座卓が冷えていて心地いい。思考が逆回転。
あれ。僕は、何を考えていたのだろう。疑問。伏せた僕の頭を、彼女は指でつついてくる。抗議のために顔をあげる。何故だろう。水瀬が可愛く見えた。
元々容姿は優れている。それ以上に、可愛らしく見える。
「君は、酔っ払うと考え込むタイプなのかな。まあ、笑い上戸とか、泣き上戸よりはましだけど」
彼女は、納得するように言って、僕のとなりまで四つん這いでやってきた。
僕は彼女に向き直るため、身体を起こす。三半規管が悲鳴を上げる。身体が揺れた。僕の世界も揺れた。それを堪えて、彼女の眼を見据える。
押し倒す。と言えればすこしは格好もついた。実際は、倒れて下敷きにしただけだ。部屋に鈍い音が響いた。もう夜中だ。苦情がくるかもしれない。諦める。痛みはない。麻痺している。カーペットのお陰か。どうでもいい。彼女に身体を預ける。
「ごめん、ちょっと待って。まだ起き上がれない」
「わざと?」
「いや、事故」
吐き気はなかったけれど、とても動けそうにない。世界が斜めに傾いている感覚。でも、水平よりはマシかもしれない。
「そこは嘘でも抱きしめるためって言って欲しかったです」
つまらなそうに言う彼女を抱きしめた。いい香りがする。何か、込み上げてくる。
待て。待て待て待て待て待て待て。まだ、僕は思考を捨ててない。おかしい。おかしい。おかしい。
「あれ? おかしいな。……私君に抱きしめられてるよ。優しくされてるよ」
上手く、発声できない。喉が乾燥している。アルコールが僕の水分を奪っていったのかも知れない。ピリピリと痛む。だけど、ここで沈黙はしたくない。
「……笑ってるの?」
事実を質問。意味のない質問。彼女は小さく笑っていた。急に恥ずかしくなってくる。顔が見えなくてよかった。
「ううん、違うの。照れくさくて」
彼女は続きを口にしない。僕は少し強く抱きしめる。彼女も僕の首に腕を回してくる。沈黙。抱きしめ合う。彼女はもう笑っていなかった。
「ごめんね。黙るなんて、私らしくないよね。大丈夫、またいつもの私に戻るから」
「別に……いいよ。無理する必要はないんじゃないのかな」
時間が経ったので、僕の思考回路は少し復活している。だけど、僕が彼女を気遣う言葉を発しているのだから、やっぱりまだ完璧ではないらしい。彼女がおかしくなったのだ。僕だっておかしくなる。
「君も、らしくないね。普段ならここは肯定するところだよ」
「そうだね。僕もそう思う。だから、いいんじゃないかな、君も僕もらしくなくて」
この言葉こそ、僕らしくない。自覚する。そして、自問する。何故、僕は彼女を気遣うのだろうか。
「私と君の関係は?」
「家主と居候」
同じ質問。同じ答え。事実は事実として伝えることは、ときに残酷なのかも知れない。
「そうだよね。……もう起き上がれますか?」
言われた通り、僕は彼女を離して座り直す。
彼女も身体を起こし、僕のとなりに座った。
「嫌だった?」
「ううん、そうじゃない。君こそ無理してない?」
「してないよ」
「ねえ、君は私のこと、どう思っているのかな」
また、質問。一番難しい質問。彼女がここに泊まりだしてからそれなりの時間が経つ。僕と彼女はゆっくり、距離を縮めていったけれど、関係は家主と居候。進展はしていない。進展ってなんだろう。
僕は人というものを、彼女しか知らない。僕の世界には、彼女しかいない。この気持ちは好意なのか、自分でも理解できていない。偶然、傍にいる異性が水瀬だけだから、そう思おうとしているだけな気もする。
僕は好意を知らない。
彼女には友達がいるらしい。少ないけれど、いるらしい。ならば、彼女にとって僕は何なのだろう。
思考が空回る。解答を探して、結局見つからなかった。
「わからない。ただ、大切には思ってる」
「うん、私もそう思ってる」
だから、と彼女は続けた。
続きを聞くのが怖い。でも、もう後戻りはできそうになかった。僕は諦めて、うんと続きを促した。
「私たちの関係を考えちゃうの。でも、どうしたいのかわからなくて」
「どうにかする必要、あるのかな」
「ないけどさぁ」
彼女は不服そうに呟いていた。そして、うーんと唸った。
「関係をうまく形容できないのは据わりが悪いのです」
わからないでもない。佐々木との問答でもそうだったが、関係を質問される場面は少なからずあるらしい。明確に答えられないと言うのは歯痒さがあった。
「恋人になって、うまくいかなぁ」
言うと、彼女は驚きを隠さない。そして紅潮し、僕にまで緊張が届くほど、動揺していた。
「それ訊きますかぁ」
一瞬の間をおいてから、困ったように水瀬は笑う。僕も笑った。そして沈黙。僕は彼女の眼を見る。彼女は紅くなる。
「じゃあ同時に言おうよ」
「いいよ」
まるで、小学生のような提案に僕も乗る。今の僕はおかしいのだから、それぐらいしてもいいだろう。
彼女が再び息を大きく吸う。追うように僕も息を大きく吸う。
「保留」
声は重なり、答えも重なった。なにも解決していないのに、ある意味で解決したような気がした。たぶん、僕と彼女にとってはこの距離感がちょうどいいのだろう。
あまりの間抜けさに僕は笑う。つられて彼女も笑った。
声は重なった。
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