6.続いていく
水瀬がリズミカルに包丁を振るう音は、質素な部屋に生活感を彩る。トントンと食材を刻むリズムが続いていたが、そのうちグツグツと食材を煮る低い音に変わった。
一人の頃は気にならなかった音だ。他人の出す音は違う。でも、不快にはならない。気づかないうちに、僕は随分と慣れてしまったらしい。
カチッとガスコンロの火が止まった。視線を向ける。彼女は静かに灰汁を取りながら、熱が冷めるのを待っているようだった。しばらくして鍋にルーが入り、スパイシーな香りが漂う。今日はカレーだ。
佐々木紗季との修羅場を演じて以来、水瀬の機嫌は戻った。不自然なほどに以前と変わらない。それでも、ときどき物思いに耽る姿を目にする。取り繕っているのか、なにか知られたくない思いがあるのだろう。
知られたくないのなら、詮索はしないでおく。当面の方針だ。
佐々木は未だに、頻度は減ったけれど、二日に一通のペースでメールを送ってくる。内容は変わらずない。彼女はこのメールに目くじらを立てなくなったので、返信できる内容には一応答えるようにしている。
胸になにかが引っかかっている気がした。結果的に、僕は水瀬を選んだ。消極的にせよ、消去法にせよ、選択したのだ。たぶん、僕はその理由がわからないのだ。それがどうにも気持ちが悪かった。
悶々と思考していると、彼女が二つのお皿を持ってやってきて遮られた。どうやら出来上がったらしい。
香辛料の香りが鼻を通り、食欲をそそり、僕のお腹を鳴らした。
「ふふふ、お待たせ。私の愛が込もった特製カレーを召し上がってください」
彼女曰く愛が込もったカレーは、まだまだ煮たりないけど、野菜の味と形がしっかり残っている分、食べ応えのあるものに仕上がっていた。これはこれで美味い。明日の味も楽しみだ。
素直に感想を伝えると、彼女は「一番の決めてはやっぱり愛です」とピースを決めて微笑んだ。
二人とも食べ終わり、僕は皿を持って台所へ運ぶ。以前は全てを僕が担当していたのだが、彼女の要望で当番制になった。今日は彼女が夕食当番で、僕は皿洗い当番だ。私も何かする、なんて急に言い出したのは最近のことだった。気にはなったけど、やはり理由は聞かなかった。
皿洗いを終えて、僕は座卓を挟んで彼女の向かいに腰を下ろした。
「ねえ、一つ話があるんだけど、いいかな?」
僕が座るのを見計らって彼女は言った。改まっているところを見ると、きっと大切な話なのだろう。
「いいよ」
もちろん断れるわけもないので、そもそも断る気もないので、肯定の返事をする。
「ほら、佐々木さんの言ってたことなんだけど……もし君に恋人ができたら私はどうすればいいのかな」
やっぱり最近の彼女がおかしかったのは、あの日の出来事があったからか。たしかに、彼女からしたら住む場所がなくなるかもしれないのだから、死活問題だろう。
僕がそんなことを考えつつ黙っていると、彼女は恐る恐るといった風に口を開く。
「ほ、ほら私は家事もできるし、お留守番もできるよ。君の話し相手にもなれる。ど、どうかな。これだけじゃ足りませんか?」
うん。これは僕に恋人ができて、なおかつ水瀬を追い出すことを前提にしているな。まあ、恋人が出来たとしたら、そうするしかないのだろうけど。でも、少し考えたら分かることだろうに。
彼女は次第に涙目になっていく。僕はティッシュを一枚手にして彼女の隣に座る。
水瀬の中で何かが切れたのだろう。号泣。急に泣き出し、僕に抱きついてきた。そしてその勢いで、僕は押し倒されていた。
「ちょっと待って。君は出て行きたいの?」
「そんこと、ないですよぅ」
確認すると、水瀬は僕の胸に顔を押し付け、全力で首を横に振った。彼女の涙と鼻水とよだれで、僕のシャツはぐちゃぐちゃだ。きっと泣き止む頃には、もっと酷いことになっていることだろう。
嘆息。
「さっきの質問だけど、恋人と言ってもね。残念ながら、君に取っては喜ばしいことかも知れないけど、僕は君以外に親しい人はいないんだよね」
最初からわかっていたことである。何を今さら、彼女はこんなことを確認したがるのか。本当に理解不能だった。
言葉を聞いた彼女は、いきなり泣き止み、凄い勢いで体を起こして、僕を押さえつける。逃がすつもりはないという、意思表示だろうか。
「ほ、ほんと?」
「ほんと」
もうそれは、蕾が花開くように、彼女は満面の笑みになった。
今まで沢山見た彼女の表情で、何をとち狂ったのか、一番魅力的だと思う僕がいた。紅潮。目を逸らす。彼女は見逃さない。
「照れた。今絶対照れた」
悔しいことに、見事に見破られている。彼女の腕を押しのけ、逃げ出す。彼女はバランスを崩して、顔から床に落ちて行った。
額に手を当て、不満をアピールする彼女。僕は見て見ぬ振りをする。
「乙女の顔に傷がつきました。もうお嫁にいけない。ちゃんと責任とってね」
彼女は無茶な要求を出しながらも、笑顔だった。僕も笑う。
「乙女ってのは無理があるかな」
「そこは、いいよ、っていうところだよ」
言いながらチョップをしてきたので、それを避けて、額にチョップをし返す。彼女は、あう、と情けない声を出す。
これが、僕にとっての日常になっていた。
僕は彼女と出会った。きっと、よかったのだ。彼女と出会ってよかったのだ。
だから、この日常を続けていきたいのだろう。
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