4.線を引く

 目が覚めた。悪夢を見たせいで、全身に汗がまとわりついて気持ちが悪い。先日、彼女と共に新調した携帯で時間を確認。昼を過ぎていた。僕は寝過ごしたらしい。

 講義に間に合わない。冷や汗が出てくる。友達がいない僕にとって、講義を欠席することはそのまま単位を落とすことに直結しかねない。ただでさえ一週間も入院してしまったというのに、寝坊なんかで欠席してる場合じゃないのである。

 と、忙しく支度を始めて気づく。携帯電話を開き、日付を確認。今日は全講義休講だ。

 嘆息。ベッドに腰かける。ベッドではまだ彼女が寝ていた。いい加減布団を用意しないと。流石にベッド二つは置けないし、かと言って二人で寝るには狭い。最近、悪夢の原因は彼女が、隣りで寝ているせいだと思ってみたり。昔から見ていたけど。

 シャワーを浴びた。

 急に暇になると、何をしていいのかわからなくなる。彼女を起こすかとも考えたけど、それはそれで面倒くさい。彼女のテンションの高さには、若干着いていけない僕がいる。

 久しぶりに一人で過ごしたくなって、僕は近所を散歩することにした。一応というか、少なくとも都会と呼べる街に住んでいるので、暇を潰すことは容易い。ただ、普段は大学とアパートとの往復を繰り返すのみなので、実はほとんど街のことを知らない。知っていることは、スーパーとコンビニの所在だけだ。

 散策に繰り出す。大通りに出て、右に折れる。このまま真っ直ぐ進めば駅にたどり着く。駅周りなら何かしらあるはず、という算段だ。

 駅に着くと予想通り、いや、予想を遥かに超えて店が立ち並んでいた。立ち並ぶ、と表現するより、集まっていたと言うべきか。デパートがここまで乱立しているとは。

 手始めに書店に入る。探し物はないけれど、何かしらめぼしいものは見つかるだろう。

 一時間後に退出。物が多すぎて、逆に何を見ていいのかわからなかった。贅沢な悩みかも知れない。

 適当に目に留まった小説を購入したので、カフェを探す。人と物で雑然とした空間にいて、滅入ってしまったのだ。少し休憩がしたい。そう思って、辺りを見渡しただけで、カフェが見つかるのだから、やはり便利な街には違いなかった。

 チェーンのカフェに入り、アイスコーヒーを頼んだ。僕は席に着くなり、先ほど購入した小説を開く。他にやることもない。話し相手もいないし。

 そのうち彼女でも誘って来ようか。考えて、あまりに自然な発想に驚く。どうやら、彼女の存在感は僕の中で大きくなっているらしい。命の恩人でもあるのだから、当然と言えば当然だが。生涯独りだと思っていたので、意外だった。自分のことなのに、どこか他人事である。

 小説を読み進めていると、僕の向かいに人が座った。その誰かは僕のトレイを押しのけて、当然のようにトレイを置いた。

 辺りを確認。たしかに、二人で向かい合うように設計されたテーブルだけど、相席しなければいけないほど店内は混んでいない。それに、相席するのであれば一声ぐらいあってもいいものだ。

 断ろうと思い、小説に栞を挟んで相手の顔を確認すると、同い年か少し下ぐらいの小柄な女性が僕を直視していた。睨んでいたとも言う。

「やっとこっちを見てくれましたね。本当は座った段階で挨拶ぐらいして欲しいものです」

 なんだ、なんでこの女性はこんなに偉そうなんだろうか。もしかしたら、詐欺なのかも知れない。僕には友達なんていないのだから、確実に彼女は初対面だ。壺を売りにきたとしか思えない。もしくは絵画か。

 焦ったら負けだ。動揺を隠せ。僕はできるだけ冷静に、だけど、棘を持って対処する。

「どちら様ですか。相席しなくてはいけないほど、混雑はしていないはずですが」

 驚愕。彼女の表情を表現するなら、まさにその一言だった。

あれ、この反応は知人……なのか? いや、しかし、僕には知人なんて一人もいないはず。演技……ではなさそうなんだけど。

「それ本気で言ってますか? 大学で、付け加えるなら、必修の英語でも一緒ですよ。ほらあのハゲ出っ歯の英語」

 間違いない。どうやら顔を合わせたことはある。全く覚えていないけど、これは間違いない。

「ごめん。まだ覚えてなくて。それより、どうしてここに座るの?」

「覚えてないって……もう半年以上経つんですけどね。話をしたこともあるのに……まあいいです。ここ、駄目ですか?」

 質問返しか。この女性は僕のあまり好きじゃない、もとい苦手なタイプなのかも知れない。

 それに、その質問はずるい。理由を聞いたのに、言うならば遠回しに断っているのに。

「駄目じゃあないけど」

 こう答えるしかないじゃないか。僕は押しに弱いのかも知れない。

「ふふ、ありがとうごさいます」

 故意犯だ。今すぐに帰りたい。独りなことを享受して甘えて、諦めていたけど、この女性と仲良くなるぐらいなら、独りの方がましだ。面倒くさい相手は一人で間に合っている。

 ため息をついたとき、僕の携帯が鳴る。もちろん相手は水瀬だ。今なら彼女とも手を取り合える気がする。

 目の前の女性に、着信に出ることを伝えて通話ボタンを押す。

 内容は何てことなかったけど、取り敢えず暇だから帰ってこいとのことだった。ええ、もちろん帰りますとも。何ならお土産も用意してやる。気になるのは、彼女が最後に言った、今誰かといるのか、という質問だった。いるような、いないような、何とも言えない感じをかもし出すと、彼女は少し不満そうにして、通話を切った。

「あなたが電話なんて、珍しいですね。彼女ですか?」

 僕が携帯をしまうと、目の前の女性は感想を述べた。まるで、僕のことを観察しているような物言いが引っ掛かったけど、事実なので、飲み込む。

「そうだね。恋人ではないかな。ちょっと前に知り合ったんだ」

「ふうん」

 彼女といい、こちらもこちらで面白くなさそうに応える。そんなに僕が誰かといるのは、おかしいことなのだろうか。

「じゃあ悪いけど、僕はもう行くよ」

「もうですか? あのよかったら食事でも一緒に……」

「いや、待たせてるからさ」

 そう言うと、女性は引き下がったが、アドレスの交換を求めてきた。本当なら今すぐにでも逃げ出したかったのだけど、どうしてもと言うので、最近覚えた赤外線交換を使い、店を出ることに成功した。

 帰り際、女性からメールが届いた。名前は佐々木紗季。名前を見てもピンとこなかった。本当に知り合いなのだろうか。内容は、後日食事をしようというものだ。嘆息。メールは返さない。

 無言の拒絶。面倒くさいことは、もうこりごりだ。

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