2.漂う

 穴から助けられて、一週間が経った。

 僕は独りの日常に回帰した。はずだった。部屋の空気は前と違う。部屋の温度も前とは違う。

 水瀬希と名乗った彼女は一週間、泊まり続けている。

 たしかに期間を設定、確認しなかったので約束に反しているわけでもないのだが、よくもまあ実行できるものだ。ただ、問題はないので、彼女が自分で出て行くか、問題が生じるまでは放っておこう。

 それにしても、彼女は図々しい。僕は少し肌寒いぐらいのほうが好きだ。しかし彼女は、寒いのは嫌だと言う。価値観の相違。気づけば、彼女は冷暖房のリモコンを抱えていた。ここは僕の部屋なはずだけど、彼女は我が物顔で踏ん反り返っている。

 読書すらする気が起きないのは、きっと彼女の所為だろう。僕は全てのことに対する熱を、リモコンと一緒に奪われてしまったようだ。

「私のことは空気か何かだと思ってくれればいいから」とは彼女の弁。そうしてこの小うるさい空気は、僕の世界を侵食し続けている。

「ねえ、これ食べていい?」

 僕は空気を読んで、彼女と会話しない。接触しない。彼女は空気。空気でいいと言うのだから、空気は空気として扱わなければ。

「相変わらず無視ですか。そうですか。いいですよぅ」

 ベリベリと小気味いい音を立てて、僕が買ってきたポッキーを空気は勝手に開封する。それを奪い取って、僕は食べ始める。空気が勝手に食べ始めるのは、少し癪だった。

「あっー! ずるいよ。私にも頂戴よぅ」

 空気が手を伸ばす。僕は避ける。見る見る内に赤くなっていく空気を尻目に、僕は何食わぬ顔でポッキーを咥えた。

「むう。おかしい、こんなのおかしい」

 目の前でこんなに悔しそうな顔をされていると、さすがに食べ辛い。

 空気扱いを始めて三日が経つが、そろそろ人として扱っても、いいのではないか。そう思った矢先、空気は声を上げた。

「そっちがその気なら、考えがあります」

 僕は首を傾げつつ、またポッキーを咥える。と、その瞬間、空気は反対側を咥え、僕が呆気に取られている隙にポッキーを一息に食い進めた。

 顔と顔がぶつかる、という距離まで迫って、僕はポッキーを離すことに成功した。彼女は残念そうに、だけど美味しそうにポッキーを食べ終える。

 理解不能。

 僕は空気の頭を静かにだけど迅速に、思いっ切り、無表情で、無言で、無感動に、たった一発に全てを込めて、はたいた。

 乾いた音が部屋に響き、彼女はわけのわからない言葉を喚いて、両手で自分の頭を押さえながら悶えていた。

「うう、痛い。何をするのかな君は。これ以上私が馬鹿になったらどうしてくれる」

 馬鹿なことは自覚していたのか。しかし、だからといって、何も解決はしない。何をどうしたら解決するのかもわからない。空気は空気らしく静かにしていて欲しいけど、きっとできない相談なのだろう。

 空気なんだから、ただ、そこにあるだけで。

 嘆息。何故僕がここまで悩まなくてはいけないのだろうか。そろそろ、空気の入れ替えを行う頃合いなのかもしれない。

 水瀬を横目で確認。何を言っているのかは分からないけど、たぶん僕への恨みつらみだろう。そんな彼女を見ていると、何となく罪悪感が湧いてきた。いくら空気といえど、暴力はいけない。悩ましい。

 悩んだ結果、残りのポッキーを袋ごとあげることにした。彼女の前に無言で袋を差し出すと、躊躇いながらもポッキーに手を延ばし、僕の顔色を伺いつつ、あっという間に全て食べ終えた。ポッキーの魔力には敵わなかったらしい。

 戸惑いながらも、彼女は口を開く。

「ま、まだ怒ってる?」

 無言。空気を読んで僕は黙ったまま。そんな僕を見て、彼女は半べそで言葉を続けた。

「怒ってるんだ」

 落ち込む様子の彼女を見ていると、再び罪悪感に苛まれた。おかしい。僕は何も悪くないはずなのに。

「も、もう出て行った方がいいかな?」

 怯えつつも、彼女は言った。帰る家がないとは、一週間前に聞いた話だ。理由は知らない。僕だって独り暮らしの理由は話したくはない。人には聞かれたくことがあるものだ。

 だけど、無言。とはいかない。さすがにこの質問は卑怯だと思う。

「別に、どっちでもいいよ」

「喋った!」

 彼女は何を勘違いしているのだろうか。一週間前に助けられたときは、普通に話していたではないか。それどころか、三日前は夕飯で揉めたはず。僕の罪悪感は怒りへと転化される。

「じゃあ黙る」

「あー違う違う違う。そういう意味じゃなくなくて。怒ってないの?」

 ボディランゲージを交えつつ、彼女は早口で焦ったように言った。

「怒ってない」

「じゃあ何で無視するのかな」

「君が空気だと思えって言ったんだよ?」

「何で額面通りに受け取るかなぁ」

 もちろん本当の意味はわかっている。ただ、接し方がわからなかったなんて、弱みを見せるようで言いたくなかったのだ。あとトマトの恨みはまだ残っている。

「何となく。で、どうするの?」

 本題に戻す。彼女がいるのかいないのかでは、微妙に生活が変わってくるのだ。主に食事面だけど。突然いなくなられるのは、それはそれで困る。

 彼女は少し考えたふりをしていた。さすがに一週間、寝食を共にしていれば見抜けるようになる。きっと答はとっくに出ているはずだ。

「じゃあ、まだ泊まる」

 予想通りで、聞くまでもない応えだった。買い物はしばらく二人分だ。まあ、別にどっちでもいいのだけれど。

「わかった」

 そう応えると、彼女はにんまりと微笑む。どっちでもよかったけど、少なくとも今は、悪い気はしなかった。

「私たちの関係って何?」

「家主と居候」

 色気も夢もないね。彼女は少し不満そうに呟いて、何かを納得したように、また微笑んだ。

「今日はカレーが食べたいです」

 敬礼しつつ要望を出すその根性だけは、僕も見習おう。きっとこの図々しさは、いつか必要になるのだから。

「ラジャー」

 応えて、出掛けるために準備を始める。僕に合わせて彼女も始める。

 こんな空気も悪くない。

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