穴から抜け出して

白井玄

渦の底

1.落ちて

 穴の底から、陽の傾いた空を見上げる。

 墓穴を掘ってそこに落っこちたような気分。つまりは最悪だ。

 誰もいない公園。人が寄り付かない公園。落ち葉が散乱し、誰も使わない遊具は錆びていた。人が使わないから寂れているのか、寂れているから人が使わないのかは定かではないが、とにかくこの公園には人がいない。手入れすらされていない遊具は、もう公園としての役割を終えているのかもしれなかった。

 普段なら何の気もなしに通り過ぎるだけの公園で、僕は年甲斐もなく穴を掘った。気まぐれで、暇つぶしの行為に意味はなく、理由もない。

 寂れた公園で、ひとり穴を掘ったのである。

 つまり、どうしようもなく僕は独りだった。

 まあ、誰かと一緒に穴を掘るシチュエーションなんて、この年齢になると想像もつかないけれど。問題なのは、この辺りが閑散としている住宅地ということだ。

 こういうとき、他人はどうするのだろう。

 友達にでも連絡するのか。しかし、残念ながら僕に友達はいない。小中高を独りで過ごし、結局大学でも独りだ。僕の携帯電話は、携帯をする必要のない置き物。独り暮らしを始めて流石に電話を引かないわけにもいかず、やむなく契約したものでしかない。

 だから、携帯電話を携帯していない僕は、助けを求めることすらかなわない。まさか、こんなところで携帯電話の必要性を実感することになるとは。警察にでも連絡できたのに。

 三メートルの深さにまで達しているこの穴の中で、僕は途方に暮れる。掘り進めるのはいいとして、どうやって外に出るつもりだったのだろうか。一時間前の僕に小一時間説教をしてやりたい。

 どうにか脱出しようとして、飛び跳ねる。残念ながら届かない。運動不足を呪うばかりである。

「誰かいませんか」

 穴の中から叫べば、穴の中に反響する。それだけだった。

 三十分が経過したあたりで、焦りは消え、冷静になった。さらに一時間の経過で、僕は眠くなった。穴の中で眠りに落ちる。

 夢を見た。何もない、ただひたすらの闇。意識がゆっくりと沈み込み、夢の中ですら落ちていく。時間が融けて、空間が融けて、最後に感覚が融ける。そうして僕という個は、ゆっくりと闇の中に融けていった。いつも通りの悪夢である。

 この夢を見ると、心が滅入る。訊ねる。僕はここにいますか、と。勿論、答えはない。僕は最初から独りだった。

 目を覚ましたのは陽も落ちて、周囲が闇に覆われたときだった。これでは夢の中と変わらない。

 諦めて天を仰ぐ。いた。何かがいた。

 暗くてよくわからないけど、確かにそれは僕を見ていた。

「ここで何をしているの?」

 可愛らしい声。久しぶりに聞いた人の声。十代後半か、二十代前半の女性だ。

「出られなくて」

 静かに答える。僕の声は彼女に届いたのだろうか。

「ふうん」

 かなり遅れて返ってくる。一応、届いてはいたらしい。反応を見る限り、意味はきっと伝わってはいないだろうけど。

「ちょっと待ってね」

 携帯のライトで照らされる。スポットライトに照らされている気分だ。見せ物としてだけど。眼をしかめる。

 彼女は地面に手を着いて穴の中を覗き込んでいた。その容姿は、逆光で見えない。髪は短め。わかるのはここまで。本当に可愛いかのは判断しかねる。いかんせん眩しいのだ。

「助けてあげようか?」

 提案。自力での脱出が不可能になった人に向かって、その提案は意味があるのだろうか。ありがたい話ではあるので、文句はない。

「お願いします」

「どうしようかっなあ」

 楽しげな声で即答。提案しておいて、否定された。わかっていたけれど。嘘。でも考えてはいた。

「驚かないんだね」

 驚いてはいる。彼女は笑った。僕の姿になのか、僕の反応になのかはわからない。

「まあ、予想していたんで」

 虚勢ではない。期待はしていた。しかし油断はしていない。人とは残酷なものであることを、僕は知っている。

「へえ。面白いね君。お願い、聞いてくれたら助けてあげるけど」

 どうする、と彼女は締めくくった。ギブアンドテイク。答は、決まっていた。

「いいですよ」

「内容は聞かないんだ?」

「ええ。何でもいいです」

「じゃ、決まりね」

 言うと同時に、ロープが垂らされる。予め用意してあったようだ。ずるい。

 ロープを伝い、僕は数時間ぶりに地上へ降り立った。

 彼女は後ろ手で、和やかに微笑む。想像していたよりも、ずっと可愛い。僕はたじろぐ。冷静を装い、礼を言う。

「ありがとう」

「いいよ。でね、お願いなんだけど」

 ここからが本題だ。彼女は続ける。

「家がないの。泊めて」

 疑問符が頭に浮かぶ。何を言っているのか、いまいち理解できない。目的は何だろう。考えても出てこない。出てきても、僕には意味のないものだった。

「いいよ」

「いいの?」

「約束だからね」

 落ちるなら、とことん落ちてみよう。僕には何もない。怖いものなし。

「ありがとう。じゃっ行こう」

 僕の手を取って、彼女は歩み出す。僕もつられて歩み出す。

 人生は墜落寸前。今さら何も変わらない。

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