×××(ばつばつばつ)の明暗

C・トベルト

×××(ばつばつばつ)の明暗

×××が死んだ。

 ×××は僕の同級生で友達であり競争する相手であった。×××は僕の心の内側を知らなかった筈だが、僕の内心を探ろうとしていた。

 僕も同じように×××の同級生で友であり対戦相手であり内側を覗けなかった者だった。

 ×××が死んだのは明け方の事だ。

 ジョギング中に信号無視した車に跳ねられて、死んだという。

 僅か十数年の生涯。語る程何も悟っておらず、忘れ去られるにはあまりに愛され過ぎていた。×××の机には無機質な花瓶と一輪花が飾られ、その周りにはめそめそと泣きながら友達に励まされる女子生徒や悔しそうに机を睨み付ける男子生徒が大勢いた。その中で僕と言えば、×××が話した事を思い出していた。

「君は明暗、という小説を読んだ事はあるかい?」

記憶の中の×××はまるで自分だけの宝石を見つけたようにその話をしてきたのを覚えている。昼食時にふと言われたその言葉を聞いて、僕は頭を横に振る。

「明暗は夏目漱石が最後に書いた長編小説なんだ。未完ではあるが話の内容が凄く面白いんだよ。僕はあれを何度も読み返してはこう思う。夏目漱石はこれを書けなかった事を酷く悔やんだだろうとね。

 彼が最後に挑んだ長編小説、それの最後の景色を書くことが出来ないのは本当に辛かった筈だよ。僕は初版の本を開く度に彼の無念を思い出して、僕は生きる勇気を貰うんだ。

 『明暗』とは幸か不幸か、や勝負を決める時にも使われる。最後の最後に挑んだ物語にそんな名前を推し出したんだから、彼は本当に凄いよ」

 ×××は昔から話が好きだったが、特に好きなのは、遺作だった。

 遺作を読み、作者の執念や激情を自分勝手に解釈して読み取り、勇気を貰うんだという。

 僕はその気持ちが分からないわけではない。僕の家庭はとても金持ちで、両親は健康で、彼等の職場の人間関係は酷かった。

 仕事で儲かる度に喜び、誰かが失敗する度に機嫌を悪くしていた。僕から見れば両親が仕事以外の事を考えた事は見た事も聞いた事も無かったし、それでしか感情を示した事が無かった。

 自分の気持ちさえ自分で見ることさえ出来ない人形、僕にはそんな風にしか見えず、そして成績優秀な僕はいつかそうなるのだろうというのが嫌だった。

 だから、×××の話は不思議と耳に入り、全部覚えていた。

「手塚治は漫画に全てを捧げていた。彼の最後の作品は未完ではなく、下絵が書かれていたんだ。構想自体はちゃんと出来ていたんだよ。もう少し、もう少しだけ時間があれば素晴らしい仕事が完成したのに。

 僕は彼の人生をかけた悔しさと執念をはした金で見るようになったこの時代が恥ずかしい。あれには万以上の値段をつける価値があるんだ」

 ×××の言葉を思い出しながら、僕は僕の机に向かう。何故遺作がそんなに好きなのかと訊ねると、×××は笑って答えた。

「だって遺作は他の作品とは違うから。他の作品は皆、仕事の為生きる為金の為に書かれているけど、最後の作品にそんな余計な理由は無い。ただ自分の全てを賭けてこいつに挑んでやろうという気持ちになるからさ。僕はね、そんな気持ちで生きる事にこそ有意義を感じるんだ。君もそうだろう?死の間際に何を感じるか知りたいだろう?

 だから、僕の遺作は君の手の中にあるんだろう?その遺作は君だけの為にしたためたんだ。だからそれは他の奴には見せないでくれよ」

 僕は鞄を開く。その中には勉強道具に混じり手紙が入っていた。そこに鉛筆で『遺書』と書かれているのも見えた。

 僕はまだ、それを読む気にはなれない。僕は×××の事を何も分かる事が出来なかった。沢山彼と話し、沢山の記憶を彼と共有したはずなのに、肝心な事は何も見えなかったのだ。だがこれだけは分かる。

 ×××はきっと死の間際、とても嬉しかったのだろう。自分の思い通りに全てが上手く行って、人生最高の至福を感じた筈だ。×××は死ぬ瞬間、確かにこの世のあらゆる全ての発光体よりも輝いているような感覚を感じた筈だ。

 そんな彼の輝きの遺した物を暗い鞄にしまい、少し暗い世界を僕は生き続ける。

 ああ、×××。君はどうしてそんなものに憧れたんだ。

 分からない。暗の世界で生きる僕には、明の世界に行った君の事は、何も分からない・・・。



 

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