第5話「上代先輩と自称神様と酒」

「若いって素晴らしいよね。こう見えておじさんもね、若い頃は人目も憚らずイチャイチャしたもんだよ。本当だよ」


 唇と唇が触れ合う寸前。

 逆さまのおっさんが現れた。視界の上方向から頭が生えている。


「…………」

「…………」


 数秒前までの桃色をした空気は恐ろしい速度で霧散していった。俺と上代先輩は顔を離し、二人揃って天井を眺めた。


「君たち何か言ったら? 驚くとか、驚くとかあるじゃん?」


 小汚い格好のおっさんだった。痩せ型という表現では足りないほど、骨が浮き出ていて貧相な身体つき。腕は簡単に握り潰せそうなくらいに細い。だが、不思議と死にそうだとは思わなかった。恐ろしいほどに細いだけで、おっさんからは生命力と活力と精力が迸っていた。

 そして。

 おっさんは天井に立っていた。

 重力は正しく作用しているようで、長いひげと髪の毛がだらんと学食の床に垂れている。普通に汚い。

 何が楽しいのか、へっ、へっ、へっ、と怪しげに笑っている。


「不審者ですよね?」

「何を言うんだトウくん、おじさんはね、神様なんだよ。本当さ」


 紛うことなき不審者だった。


「先輩、これが件の髭面のおっさんですか?」

「ご名答。さっき話した髭面のおっさん」

「神様自称してますよ?」

「神様ならタイミング考えてほしいよね」


 気にする部分はそこなのか、とは思うが、機嫌が悪そうなので黙っておく。


「いやいやいや、日本酒女子よ、最高のタイミングだったと思っているよおじさんは。だってほら、ここ、昼間の学食だからね。そういうことは家のベッドか隠しカメラのついていないホテルでね。なんちゃって」


 ぺらぺらと、だらだらと、喋り続ける。鬱陶しい。


「あ、今おじさんのことうっぜえなと思ったでしょ。でも仕方ないよね。だっておじさんはそういう生き物なんだ。まあ、おじさんは神様なんだけどね。へっ、へっ、へっ」


 これは酔っぱらっていても関わり合いになりたくない類の人種だ。おっさんから逃れるために、席を立つ。


「先輩。行きましょう」

「まあ、まあ、そう焦るな若者。座りなよ。おじさんの話に付き合ってくれよ」

「誰がそんなこと、」


 俺は椅子に腰掛けた。

 


「逃げようとしても無駄だし、人を呼んでも無駄だよ。だっておじさんの姿は二人にしか見えないように定義しているからね。神様だから、なんでもできるのさ」


 自称神様は汚い笑みを浮かべている。憎たらしい振る舞い、根拠のない発言。だが嘘は吐いていないと脳が勝手に理解していた。

 上代先輩は面倒そうに頬杖をついて、


「何しにきたの?」

「なんだよう、邪険にするなよ日本酒女子。おじさんと君との仲じゃないか。あの日は素敵な夜を過ごせただろう?」

「何が素敵な夜だっての。日本酒にしてやるとか言われてキラキラして気づいたら朝だったわ」

「素敵な夜じゃないかあ」


 言葉も態度も、すべてがのらりくらりとしている。

 苛ついた様子を隠しもしない先輩と、ひどく楽しげな神様が対称的だ。


「まあいいや。何をしにきたか、だっけ。そう、単純に、見ていられないから出てきちゃったってことでもあるんだけど、それだけじゃないよね。実はおじさん、そこの女子大生を日本酒にしたんだけど、なんか説明すっ飛ばした気がしたからさ。説明してあげようと思って。説明。必要でしょ?」


 くるり、と天井に立っていた神様が重力を無視した動きで反転し、床に着地。ようやくまともな方向に落ち着いた。


「きっと、素面のうちに聞いておいた方がいい話だからね」

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