続編「30歳を目前にして」

 秋という季節は慈悲深い。夏が終わることを十分に諦められるだけの猶予を与えてくれる。人間は短い間に都合よく価値観を変えてしまうから、あんなに惜しがっていた夏の暑さも、少しずつ失われてゆくことに耐えてしまう。いつか本物の冬がやってきても、何食わぬ顔で防寒着を着始める。誰も夏に帰ろうとはしない。

 ベランダで夜風に当たりながら星の観察ができる夏が良い。あの静かな時間が好きだ。冬はせっかく空が澄んでいるのに、寒くて外に出られないから大いに不満だ。

 

 いつものように家に帰ると7時前であった。部屋には熱気がこもっていてなぜだか安堵する。少し早めに帰れたな、と服を着替えながらテレビをつけると、LGBT団体のデモ行進運動のニュースが流れていた。

 部屋着のズボンを穿きながら、レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーでLGBTかと考える。スーツよりずっと緩く柔らかい布地が肌を包みこんでいった。ゲイ……その言葉から連想される人々や世界は、自分とはかけ離れたものに感じられる。僕も間違いなくその分類に含まれるのかと思うと不思議でしかない。自分では、ゲイとはまた少し違ったものだと感じているけれど、それを表す名称はない。とりあえず普段はゲイということで自分自身と折り合いをつけている。

 僕はデモ行進に参加することはないだろう。社会や性に対して確固たる主張があるわけではないからだ。夕食を作る気でいたのに、心に引っかかるものがあって、ソファーに座り込んでしまった。

 当事者がこんなに無関心でいるのはよくない。よくないことだけれど、正直ゲイの代表の一人として生きているという意識はない。人間は恐ろしい。社会はもっと恐ろしい。彼らに向かって「変われ」と叫ぶことは自分にはできない。唯一つ求めるとしたら、僕と慎也のことは放っておいてほしい。それだけだ。

 自分は男性一般が好きなのではなく、慎也が好きなのだ。他の男や女をどう思っているのかよくわからない。もしかしたら自分はバイセクシャルの方かもしれない。現在男にも女にも違和感を覚えないのは男女とも同じように恋愛対象であるためかもしれない。

 テレビはとっくに別の番組に変わっている。騒がしく芸能人たちが発言をし、笑いあっている。カラフルな字幕が次々と飛び出す。だが僕の思考は止まらない。

 親と兄にはいずれ慎也との関係を説明することになるだろう。今はルームメイトということになっているけれど、あと数年のうちには本当の事を言わなければならない。それが一番の懸案事項だ。親戚から疎遠にされたりするのだろうか。今もあまり交流はないけれど、もっとあからさまに避けられるのか? 心の底から憂鬱だ。

 そもそも慎也とずっと一緒にいられるだろうか。今はいいが、今後いつどうなるかわからない。男同士だから、結婚や出産などの関係の変化はない。同棲している今の状態が最終段階なのだ。つまりこれ以上交際に発展の余地はない。本当にこのまま、深刻な喧嘩もなく、修羅場もなく、二人でずっと愛し合っていけるのか。慎也はずっと変わらず自分だけを選んでくれるのか?

 突然、意識に侵入するかのように鍵が開けられる音が響いた。僕は深い思考も何もかも忘れて嬉しく玄関へと駆ける。

「須川おかえり」

「お役人さん、家の中です」

「……慎也おかえり」

「和希、ただいま」

 僕は慎也との関係を隠すことにかなりのエネルギーを割いている。知り合いの誰にも言う気になれない。コップに入れた水をこぼさないように常にふらふらと歩いている。隠すという態度自体がLGBTへの差別なのかもしれないと思った。しかし自分たちの平穏な生活には代えられない。プライドよりも人生の方が大切だ。

「なあ、晩飯出来てる?」

着替え終えて気が抜けたらしい慎也の声が、またしても僕の意識を現実へ浮上させる。

「出来てない」

「何だよ腹減ってるのに」

「たまにはお前の飯食わせろ」

 顔を隠すようにしてエプロンの後ろ紐を結ぶ慎也を、愛おしいと思った。彼と一緒にいるとどうしても深刻な気分になれなくなる。

 慎也はサーモンソテーのタルタルソース和えを手早く作り、皿に盛り付けて運んでくる。

「どうした? 何かあった?」

「考えごとしてた」

「失恋でもした?」

「お前がしろ」

「嫌だ。絶対しない」

 思考の焦点が変わった僕は、食器を運ぶのを手伝った。


「先輩に説教でもされたか?」

白米を飲み込む途中で優しい声を出された。

「いや違う。何というか、僕もゲイの一員なのかと思って」

「そんなに俺のこと好き?」

「バカ」

こちらを見ていないのを確認してから慎也の頭に視線を移す。

「人から色々言われたりすんのかなって。親にも言わなきゃなんねえし、……将来が不安になった。お前ともずっといられないのかもしれないなんて、そんなことあってたまるかと思うけど、考えてたんだ」

「じゃあ聞くけどさ」

くすぐったい確認事項が並ぶのかと思ったら違った。

「今欲しいもの何?」

「欲しいもの?」

「3つ言え。3つね」

「詩集と、新しいゲームと……あと物じゃないけど外食したい」

「わかった。週末詩集とゲーム買って外食しよう。あと旅行しよう。今年中に……そうだ。星がよく見えるところに行こう。計画立ててさ」

「なあ、それ何」

「何って、漠然とした将来の不安が出てくるってことは、精神的にエネルギー切れてんだよ。補充しなきゃ。だろ?」

麦茶を飲みほして、慎也は続ける。

「今起こってない問題について考えてもいいことないし、第一答えは出ないよ」


 彼の言うことに一度は納得したけれど、風呂に入っていると新たな疑念がわいてきた。先ほどの対処法も、結局対症療法に過ぎないのではないか。結局人間は、大きな悩みを紛わらせつづけることでしか生きられないのだろうか。人生というのはそんなにつまらないものだったのか。考えているとまた行動を忘れてしまって、気が付くと握ったシャワーの柄が温かくなっていた。

 風呂を上がってから、このことも慎也に話してみた。すると

「そうかもしれないけど、……そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

とふざけた。部屋はエアコンがよく効いて心地よかった。

「村の賢者か」

「まあいいよ。和希は今の悩んでいる状態が普通だと思っているかもしれないけど、俺はそうは思わない。もっと楽しい気分の和希を基準にしな。悩んでいる状態じゃなくて」

「そんなに都合よくいくか」

「お前も悩める青年だね」

そう言って慎也はますます気の抜けた表情になり、伸びをした。

「対処法がすぐにでてくるってことは、お前も悩んでいるんだろ?」

「あはは。その通りだ。悩みも共有しているんだ俺たちは」

「別にうまくない」

「わかってるって」

慎也はあくびをしながら浴室へ向かった。


 目先の楽しみはできたけれども悩みは解決しそうにない。まだ1年弱は20代だ。貴重な若い時間を憂鬱に過ごすのは惜しい。そうやって自分に言い聞かせても納得できない。時代も制度も変わって来るかもしれないけれど、人々は季節が変わることのように受け入れてくれない。

 慎也だって相当悩んでいるんだ。対症療法で見ないようにする以外にそこから逃げる手段はなかったのだろう。 

 

 ふと、奥のカーテンを視線がとらえた。

今ならまだ寒くないからとベランダに出てみた。心もとない音を立てて床板が震え、全体が細かく振動する。涼しい風が吹きつけて熱い身体を冷やしてゆく。頭の真上に星が沈黙している。ひたすらに静かで遠い世界に、彼らは置かれていた。とても人事では喩えられない美しさだった。今世界には彼らしかいないんだ。

こうしてみると、秋も悪くない。

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「星と花」に寄せて 文野麗 @lei_fumi_zb8

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