横光利一「機械」


 一見してジョイスの手法を思わせるこの短編は意識の流れを淡々と描写するという点において題名通りまさに「機械」的であるが、それだから『機械』であるのだという風に捉えるわけにはいかず寧ろ作中におけるモチーフとしての「機械」が問題であるのだろうと思われる。


 はじめ「いかなる小さなことにも機械のような法則が係数となって実体を計っていることに気付きだした」という形で言及されるこの「機械」は勿論実体ではなく主人公が思い浮かべる抽象的な概念であり、それ以降も幾度か文章中に現れてくるものの抽象的であるが故にしっかりと捉えておくことは難しく読了後ですら理解に予断を許さない。


 二度目に「一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを押し進めてくれているのである」などと出てくるあたり「機械」とは何やら「計るもの」であるらしいが、一体何を計るのか曖昧な上に今度は擬人化されて「押し進める」という性質さえ付与されている。


 要領を得ないので換言しよう――つまり「機械」は「私たち」含む実体を規定してそうしたままに「押し進めるもの」であるらしい。


 だから何だと言いたいところではあるが、ここでそもそもはじめの言及を読み返すと単なる直喩として(「機械のような~」)用いられていることに気付く。何の比喩かと言えば単純に直後の「法則」であるだろう。


 なるほど化学反応において法則は実体を規定して反応を押し進めるがそれが「機械」として「私たち」にまで適用されているのはどうしたことだろう? 人間関係においても機械のように正確な法則が存在してその通りに反応していくというのがこの作品のテーマだろうか?


 注目すべきはおそらく「四人称」と呼ばれるこの作品の視点であろう。


 すなわち、この物語において主人公が自身の意識の流れを客観的な視点において殆ど感情を挟まず独白しているという形式である。このことから知的な人物であると受け取れる彼が最後に「私はもう私が分らなくなって来た」と語っていることが要点なのではないか。


 この直後に「私はただ近づいて来る機械の鋭い先端がじりじりと私を狙っている」と言及されるのが「機械」に関する最後の記述であるところを見るに主人公が自身に対する信用を失う理由がここにあるのだと推察されるが、仮に前述の通り「機械」を「法則」だとするならば彼をしてそこまで独白せしめるほどの「法則」とは一体何であろう?


 実存主義で知られるフランスの思想家サルトルはこの作品を「“廻転装置(トゥルニケ)”として、まったくよくできていて、見事なものでした」と評したようである。つまり目の前に現れた重大な結果を前に自らの自己統一性を失った主人公がその中において実存の危機を抱く作品として解釈していると考えられる。


 しかし私がここに読み取ったのは寧ろ実存を規定する側、すなわち構造主義的な匂いである――「機械」が「私たち」を規定する「法則」であるのならばそこにどうして実存主義的な主体性の優越を認められよう?


 サルトルの言を借りればここにあるのは「機械」という「法則」に主体性を剥ぎ取られた故の実存的不安である。それを踏まえれば舞台がネームプレート工場であることも象徴的であろう。名前とは存在を規定し方向付けるものであるからだ。だとすれば上記の「機械」に関する語りは今まさに主体性を失わんとしている主人公の悲痛な叫びではなかったか? 結局のところ「機械」の具体的な容貌はどのようなものであるのだろうか?


 ……私にはもう「機械」が何か分らなくなって来た。私はただ無機的な「機械」が目の前で作用しているのを感じるだけでこれ以上はあまり論じたいとは思われない。誰かもう私に代わって「機械」を論じて欲しい。「機械」が何かなんてそんなことを私に聞いたって私の知っていようはずがないのだから。


 まぁ、ぶっちゃけ分からないままでいたいのである。

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