断章―Ⅰ

ファン・ゴッホ『糸杉と星の見える道』


 幼い頃から、眠ることが怖かった。眠ってしまったら最後、自分が二度と目覚めないような気がしていた。


 要するに死ぬのが怖かった。だから布団をかぶって携帯ゲーム機で夜毎ポケモンなんかをプレイしながら、自然と意識が飛んでいくのを待っていた。「夢はある?」と誰かに聞かれたならば、実際には口に出さないまでも、心の中では「不老不死」と答えていた。


 考えすぎな子供だったと言えなくもないけれど、その直感自体はなかなかどうして馬鹿にできないところがあるような気もする。と言うのも、死が意識の喪失を意味するならば、眠ることも結局はそれと何ら変わらないからだ。よく言われるように「永遠の」眠りを死だとするにしても、意識を失っている間には時間感覚なんてないのだから、客観的な差異こそ認められても、主観的には何ら違いはない。


 つまり睡眠とは死の疑似体験なのだ――なんて小賢しいことを考えるようになったのは勿論もう少し経ってからのことで、当時は理由の分からない漠然とした恐怖に取りつかれていた。それでも小さな頃はまだよかった。問題は中高生あたりになっても、その恐怖が続いていたことだ。


 友人に話をしてみても、死ぬのが嫌だという点では共通こそすれ、自分ほど顕著な例はほとんど見られなかった。何せ、不眠に悩まされていたくらいだ。日常生活に支障をきたすほどの恐怖を覚えているのは、周りでは自分くらいだった。


 どうして自分は、死ぬことがこんなに怖いのだろう。


 少しばかり冗長な前置きになってしまったけれど、その理由じゃないかと思われるものを一年ほど前に突き止めたというのが今回の本題で、つまり問題は一枚の絵である。自宅の二階へと続く階段が、終わる手前で直角にカーブする踊り場じみたところの壁に、上って行けば否が応でも目に入るよう、それは掲げられている。


 画面中央で空を割っている炎のような糸杉に、その両脇でぐにゃぐにゃと曲がりくねった月と星。足元を行き交う通行人。タイトルと作者は後になって知った。フィンセント・ファン・ゴッホ作『糸杉と星の見える道』。そのまんまである。


 リビングにかの『ひまわり』があったことを考えるに、もしかすると両親はゴッホが好きだったのかも知れないし、単に有名な作品のレプリカを飾って悦に入っていただけかも知れない。多分後者だろう。どちらにしても、問題は糸杉が死を表すモチーフだということであり、それがあまりにも生々しい印象を強調して描かれていたことである。


 童心に、その風景画だか抽象画だか分からない雰囲気の異様さが、怖くて仕方なかったことを覚えている。二階の自室に向かうときは、いつも目を伏せて階段を上っていたほどだ。


 観念ではなく、有機物としての死。


 時の流れの中に、厳然と屹立する死。


 それがいつでも、自分の目の前にあったのだ。


 勿論これも、単に考えすぎなだけかも知れない。杉だけに。けれど、「一枚の絵が自分の人生を決めた」というこの構図が、実は密かに気に入っていたりもする。だって、下手な物語より、よっぽど物語らしい。

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