第三十幕「深淵」
赤熱した刀が空を一閃すると、睦を取り囲んでいた夜闇の触腕はすべて灰となって崩れ去った。
睦の身体に傷ひとつつけることなく。
一刀のもとに主を救いおおせたスズリだったが、その表情には深い苦渋が満ちる。
なぜなら彼女の主は、
「どうして……なんでスズリがその力を。
だって、だってそれは……」
かすれたつぶやきとともに、睦の困惑が、恐れが、怒りが、悲しみが、
スズリの中へと流れ込んでくる。
そしてスズリがその激情から目をそむけた時、ふたりの“繋がり”は強引に断ち切られた。
「く、うぁ、あぁ……っ」
双方の拒絶による架橋状態の強制切断。
眼底から頭蓋へ貫くような痛みが駆け抜け、睦は顔を覆う。
そして睦が再び顔を上げたとき、そこに浮かんでいた表情はスズリが最も恐れていたものだった。
理解できないものを見た時の恐怖。
これまでスズリがアヴァロンの影として斬ってきた何人もの人間やオートマタが浮かべていた顔。
睦はスズリに恐怖していた。
「むつみ、ど、の……?」
「…………い、いや……っ」
睦は思わず後ずさった。
スズリはこれまで、自らの能力を『刀剣の形態操作』であると説明してきた。
敵を斬ることが彼女の能力の全てであると。
だが、もしもそれが偽りであるのなら、睦がスズリを信じるに足る前提は崩れる。
今しがたスズリが見せたものは、ファラの能力の
持続時間はごく短いものだったが、単に模倣するだけに留まらず自らの剣技に上乗せさえしてみせた。
それぞれのオートマタに最適化された生体素子の“固有の”性質を利用した兵装、ゆえに《固有兵装》。
その力は見様見真似で模倣できるほど単純なものではない。
生体素子の性質変化は演算負荷が極めて高く、一個体に一種の能力が大原則だ。
だが、問題の本質はそこではない。
もし何らかの方法でスズリが固有兵装の壁をクリアし他者の能力を使えるとしよう。
動き回る無数の触腕を同時に退け、睦を傷つけずに救おうとするなら、スズリの一刀流による“切断”は相性が悪い。
しかし真似るのはロゼの“斥力”でも、ドロシーの“空圧”でもよかったはずだ。
ファラの“酸化”を使えば不信を呼びかねないことはスズリにも分かっていた。
だがスズリはあえて“酸化”を選んだ。選ばざるをえなかったのだ。
そのことが何を意味するか。
アヴァロンの訓練機として長らく剣を交わし、間近に身を置いていた仲間よりも、
固有兵装はオートマタの力の最奥。表面的な接触でおいそれと盗めるものではない。
そしてスズリが、睦の想像通りの方法でファラの力を手に入れたのだとしたら、
彼女は他にも持っていることになる。
……そう、極めて高い欺瞞性能を誇るビショップ級オートマタ、カスパールの力を。
さらにあるいはスズリが、アヴァロンの影として
その中にはオートマタの頭蓋と胸郭を破砕しうる能力もきっとあるのだろう。
『
『傀儡落し』という言葉は自ずと、上方横薙ぎの剣筋と結びつく。
相手はとっさに首を守る。自分はやすやすと脚を斬り崩す。
本来柔軟であるはずの防御が、技の名を知ってしまったばかりに不自由になる瞬間であります。』
睦はまんまと術中にはめられていたのだ。
スズリが自ら能力を口にしたことで、彼女の力が向かう方向を無意識に決めつけ、足元を斬り崩された。
《架橋》で繋がれば、相手が今思い浮かべていることがわかる。現在進行系の感情が分かる。
スズリが嘘をついていることは知っていた。スズリはいつでも隠し事をしていた。
いつだって後ろめたさと睦に見放されることへの恐れを抱いていた。
だけどそれは、アヴァロンの影であったスズリの過去がそうさせるのだと思っていた。
追及すればたどり着けたかもしれないその本質から、睦は目を背け続けていたのだ。
『信じたい』などという浅はかな感情論の先にあったものが、これだ。
睦の瞳に浮かぶ色が困惑と恐怖から冷たい疑いに変わりつつあるのを見て、
スズリの手から剣が滑り落ちる。
「お、お願いであります。後生だ……。
睦殿、どうか――」
「来ないで」
睦はスズリに、自らの剣を向けた。
スズリが浮かべる深い絶望の表情に、
睦は胸の奥を鷲掴みにされるような痛みを覚える。
……いけない。このままではまた、
睦はスズリから逃げ出すように、その場から走り去った。
「睦殿、どうか、弁明を――うわっ」
睦に追いすがろうとしたスズリの足を、
這い寄る触腕が絡めとり引きずり倒す。
触腕はスズリの身体をギリギリと締め上げながら次第に首元へと這い登った。
「無様ね。いい眺めだったわ。
お礼に弁明ならよるちゃんが聞いてあげる」
蛇の舌先のように揺れる触腕の先端が、スズリの耳に突き入れられた。
「さぁ……あなたの全てを曝け出しなさい、《くるみ割り人形》!!」
頭部のメインメモリにアクセスしようとした夜闇の背筋に、不意に悪寒が伝う。
人間を模したオートマタにも備わる、脊髄反射的な危機回避のシグナル。
夜闇はその警告を無視し、スズリの記憶を覗き込もうとした。しかし――
「な……っ!? どうしてっ!?」
スズリをハックしようとした触腕が、逆にスズリの生体素子によって侵され始めていた。
すぐさま切断を試みる夜闇だったが、
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞく。
影と闇は交わり、混ざりあった。
◆◆◆
無限に思える墜落感の先で、スズリ/夜闇は色あせた世界の中にいた。
……これは、メモリに残された記憶? 誰の、どちらの?
R.U.R.拠点船 《ボーグ・キューブ》のデッキに、二人のオートマタが立っている。
一人はファラ、そしてファラがその眩しい笑顔を向ける相手は……。
嫌だ、
そんな不気味な子に優しくするくらいなら、もっとわたしを見て。
そう叫びたくても、『彼女』にはファラに語りかける勇気すらなかった。
だから代わりに
ファラから離れてほしくて。これ以上近くにいてほしくなくて。
「――ねぇ、夜闇?」
スズリでも夜闇でもない声に呼ばれ、振り返ったのは、
現在の夜闇とは似ても似つかぬ姿をしたオートマタだった。
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