第二十三幕「罰」


 ひょう、ひょう、と、吹きすさぶ北風のような音を立て、矛の穂先が空を斬る。

 完璧な造形を誇る肢体のゆっくりとした所作が、切っ先に伝播する時には必殺の速度を帯びる。

 セイクリッドサイン拠点船 《万神殿パンテオン》。

 列柱の並ぶその甲板で、イザナミはぴたりと閉じた瞼の裏側に、敵を描きながら舞っていた。

 この世のどこにもいるはずのない、彼女に匹敵するだけの敵を。

 毎夜の習慣。しかしその敵が今夜はなぜか、とある少女の面影を帯びている。

 今はまだ初々しい敗者にしかすぎない挑戦者ルーキーの面影を。


「愉快だわ」


 真後ろに向けて突いた矛は、背後に立った人影の喉元でぴたりと止まる。

 わずかに触れる切っ先にも、人影はまったくたじろがなかった。


たかぶっているのかしら。あなたも」


 イザナミの問いかけに、訪問者は低く頷いた。


「……あぁ」


「いいでしょう。

 あなたならいつでも構ってあげるわ、ファーレンハイト。

 今日の私はご機嫌なの。かかっておいでなさい、たまにはご褒美をあげる」


 挑発的な薄笑みを前にしかし、ファラは構えなかった。

 両碗のタトゥーが熱を帯びることもなく、指先はそのまま地に触れる。

 ファラはその場にひざまずいていた。


「違う、イザナミ。オレが欲しいのは――」


 見上げる瞳に映るのは、切なげな恋慕の色。


「罰だ。あんた以外との戦いで昂ぶったオレを、

 あんたの言いつけに逆らい、手を煩わせたオレを、

 どうかその手で罰してくれ」


「……いいのかしら。決闘以外の目的で《万神殿パンテオン》を訪ねるなんて、

 背信行為と思われるのが恐ろしくはないの?」


「オレが恐れる背信はひとつだけ。

 二年前あんたに敗れた時から、オレの飼い主はあんただけだ、イザナミ。

 もう一度牙を向けようなんて、夢にも思わない」


「そう……健気な子。この私に全てを委ねると言うのね。

 だけどこんなことをされても、あなたは従順でいられるのかしら」


 矛の穂先が、地についたファラの手の甲をゆっくりと刺し貫く。

 刃が傷口を押し広げ、左手を床に縫い止める間も、

 ファラは歯を食いしばってイザナミから目を反らさずにいた。


「…………ッ!!」 


「声も上げないのね。偉いわ、だけど少し退屈。

 ……お仕置きが必要だと言ったわね。

 どうしてあなたは罰せられるのかしら」


「そ、それはあんた以外との戦いに夢中になり、

 止めようとしたあんたに意見を――」


「違うわ、ファラ。まったく違う。

 あなたは二つの理由から罰を受けるの。

 ……聞きたい?」


「教えてくれ……どうか、頼む……っ」


 懇願するファラの耳元にイザナミは唇を寄せる。

 その歓喜と冷たい吐息に、ファラは背筋を震わせた。


「今日の戦い、あれはなに? 煙の中に灰の中、そして最後は水の中。

 まったくグランギニョールに相応しくない。美しくない。

 暑苦しくて、泥臭い……おまけに埃っぽくて、湿っぽい戦い。

 息の根を止める悦びに狂い、死の恐怖に歪む素敵な表情が、

 あれじゃあ観客オーディエンスに伝わらないじゃない。

 それが分からないならあなたは、グランギニョールの人形である意味がない」


「ぐ……う……その通りだイザナミ……。

 あそこまでしなきゃ勝てなかった。

 あんたのように美しく舞いながら勝てるだけの強さがオレに無かったんだ」


「そう。だからなのね。あなたがあの“青い”オートマタにトドメを刺さなかったのは。

 次を求めたくなるのは決闘が作品として閉じていないから。

 再戦を望むのは、その戦いが完璧ではなかった証拠だわ。

 だからあなたはもう、私に挑まないのかしら? ねぇ、ファーレンハイト」


 イザナミはファラの自由な右手を取り、自らの無防備な喉にあてがう。


「さあ、痛いでしょう? 支配されて自尊心が傷つくでしょう?

 今ならこの腕の固有兵装を起動するだけ。かつて一度私の矛を折ったあなたの牙を。

 それだけで私の首はごろりと地に落ち、今度は私があなたを見上げる。

 。ふふ、ほら、とっても簡単なことだわ」


 クスクスと笑いながら促され、ファラの喉が鳴る。

 指先が震え、イザナミの喉を掴もうともがくが、

 結局ファラは固有兵装を起動することすらできなかった。


「そう……そうなの。ならこれはもう、いらないわね」


 引き抜かれた矛は瞬きの間にまわり、左手に穿たれた穴に再び帰る。


 ごとり。


 鈍い音とともに、ファラの右腕が落ちた。


「っぐ、ぁあ、ぅあぁあああああっ!!」


 苦悶の声を上げるファラの顎を、イザナミの指が持ち上げる。

 怯えるファラの頬を、イザナミの白い指が這った。


「ああ、可愛い。やぁっと涙を浮かべてくれた。

 反応が無いんじゃ、いくら罰したところでつまらないもの。

 だけど違うの。私が今濡らしたい瞳は、


「あ……」


 ぐじゅり。

 湿った音とともに、イザナミの親指がファラの左の眼球に貫入する。

 流れる血液の代わりに自己修復の蒸気を上げながら、

 イザナミの指はゆっくりと根本までファラの頭蓋に押し込まれた。


 人間ならば脳を侵されている深さ。

 仰け反ったファラの背がびくっ、と痙攣する。

 

「今ここに居て欲しい人は、あなたじゃない。

 それがあなたが罰せられる、もう一つの理由」


 万神殿パンテオンにファラの絶叫が木霊する。

 だが、誰も様子を見に来ようとはしなかった。

 この時間この場所がイザナミの領域であることは、船内の誰もが知っている。

 断末魔を上げるとすればそれは、イザナミの敵に他ならないのだから。


「痛いでしょう、苦しいでしょう。

 こんな酷いことをされて辛いでしょう。

 与えてあげないわ、他に何も。

 幸せなことや気持ちいいことは、これから先何一つ与えてあげない。

 どうかしら、それでも私を嫌いになれない?」


「あんたを殺すために造られた。

 あんたを殺すために強くなった。

 オレの全ては最初からあんたのためにあったんだ。

 なぁ、イザナミ、あんたの視界にいられないなら、

 オレに存在する価値はない。

 観客なんて本当はどうでもいい。あんたにさえ見ていてもらえるなら。

 今ここに居ない誰かの代わりでも構わないから、

 オレをもっと、あいしてくれ……」

 

「あぁ、醜い」


 イザナミは冷たく言い放つ。


「だけどその醜さが、あなたをとっても唯一無二オリジナルにしてくれる。

 もっとかき混ぜてあげる。もっと醜くなれるように。

 さぁファーレンハイト、言ってごらんなさい? 次はどこを壊して欲しいのか」


 ファラは自ら顎を上げ、胸を反らす。

 薄布の下の形の良い乳房を誇示するように。


「触れてくれ、オレの心臓コアに。一番大事なところに。

 あんたの身勝手でオレをめちゃくちゃにして、殺したい時に殺してくれ」


 イザナミの唇の端がニィ、と釣り上がり、鋭利な爪が布を割く。

 恍惚と恐怖、絶望と愉悦が入り混じったファラの喘ぎは、それから一時間に渡って続いた。

 体中を切り刻まれ、ぐちゃぐちゃに中身を入れ替えられ、

 ブルーメロゥと戦い終えた後よりも更に損壊し消耗したファラは、

 しかし弄ばれた心臓コアを破壊されることなく、

 万神殿パンテオンの外へと放逐された。


 劇場を取り囲む木立の幹を頼りに、ファラは《ボーグ・キューブ》への帰途を急いだ。

 心は急いているつもりで、弱った脚は遅々として進まなかった。

 イザナミにえぐられた眼球も、修復限界で視力が戻らない。

 狭まった視界を補うように、ファラはしきりに周囲を見回した。

 誰に見咎められても、ただでは済まないだろう。

 敵ならば無論、味方に見られてもその場で背反のそしりを受けるだろう。

 そうなっても構わない。本望だ。

 自分はこんなにもあいされたのだから。


 だが、最も決定的な救いをイザナミはファラに与えてくれはしなかった。

 赦しも、死も。


 主に死を許されていないなら、ファラはなんとしても帰り着かなければならない。

 

「しかしプロメシュームの奴をどうごまかしたもんか。

 転んだ……じゃ、済まされねぇよな、この傷は」


 ファラが自嘲気味につぶやいた時、

 彼女の目の前に不吉な影が立ちふさがった。

 よどんだ眼差しが、ファラをじっと見据える。


「ああ、そうかい……。

 オレはここで終わりか。

 ……ああ、最後にもう一度、りたかったな」


 その時心に描いたのは、ブルーメロゥか、それともイザナミか。

 力ない笑みとともに、ファラの意識は途絶えた。


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