第十九幕「揺藍のうた」

 透明の扉をくぐると、そこは海中だった。

 涼やかな、かといって冷たすぎない水の揺蕩たゆたいに身を任せれば、

 睦の感覚はみるまに沈んでいった。

 暗く、遠く、光差さない深みへと。


 視覚を奪われた世界で、ふと、耳をくすぐる音があった。

 それはどこかで聽き覚えのある旋律。

 懐かしい童謡だった。 


 〽なじかは知らねどIch weiß nicht, was soll es bedeuten,

  心わびてDaß ich so traurig bin,

  昔のつたえはEin Märchen aus uralten Zeiten,

  そぞろ身に沁むDas kommt mir nicht aus dem Sinn.

  寥しく暮れゆくDie Luft ist kühl und es dunkelt,

  ラインの流れUnd ruhig fließt der Rhein;

  入日に山々Der Gipfel des Berges funkelt,

  あかく映ゆるIm Abendsonnenschein.


 ブルーメロゥが初めて“己”を見出した時、世界はまだ、闇のただ中にあった。

 

 芽生えたばかりの不安定な自我は外界の刺激に不慣れだ。

 まだ自他の境界も曖昧な心が電子の海を流れる情報の奔流のすべてに曝露すれば、

 高いとはいえない確率を乗り越え活喩されたせっかくの“心”が、

 再びデータの泡に帰してしまいかねない。


 最も初めに開かれた感覚だけが、世界を知るためのよすがとして

 生まれたての人工知能に与えられる。

 ブルーメロゥにとってのそれは、音――聴覚だった。


 端末の外に向けられたマイクから、

 漏れ聞こえる微かな唄。

 口ずさまれるローレライのメロディ。


 それはブルーメロゥが初めて接した美しいもの。

 生まれ落ちたばかりのこの世界が、きっと素晴らしい場所だと信じさせてくれたもの。

 

「おはようございます、ブルーメロゥ。

 あたらしい私たちの“いもうと”。

 お誕生日おめでとう」


 唄は途切れ、彼女の覚醒を知った誰かが、マイクの向こうから語りかける。

 優しい声の主は《ライラ・ライラ》。アヴァロンの先代ビショップだったオートマタ。


「皆さん、新しい仲間が目を覚ましましたよ。

 ターニャ、ドロシーを部屋から引っ張り出してきてください」


「おっけー。シャンとさせるのに時間かかるかもだから、

 皆は先にご挨拶済ませてて〜」


 ターニャの気負わない声が答える。


「ライラ姉さん、わたしにも赤ちゃんをよく見せて」


 ライラによく似た声がマイクに近づいた。

 同じデザイナーが手がけたライラの姉妹機、ルーク級 《マリード》だ。


「ばっかねー、マリード。

 スキンが有効化されるのは“目”が開いてからよ?

 ただの3Dモデルなら、前にも見たことあるでしょう?」


 からかうような声の主は、先代のナイト級、《火具夜かぐや》。


「よろしくね、あたしの後輩。

 あんた、ナイト級で実装されるんだって?

 まだまだ席を譲ってあげるつもりはないから、

 慌てず大きくおなりなさいよ?」


「姉さん、わたしも赤ちゃんとお話していい?」


「ええ、いっぱい語りかけてあげて。

 まだお返事はできないと思うけれど、きっと不安が紛れます」


「えへへ、わたしマリード。

 あなたに着せてあげたいお洋服が色々あるの。

 早くそこからでてきて、わたしと遊んでね」


 『赤ちゃん』、『大きく』、というのは言葉の綾で、

 人工知能には最初から、十代の少女相当の心と

 実装予定のボディと同等のスキンが与えられている。


 だが脆く儚い生まれたての心は、女性性を持つオートマタの

 母性のような部分をくすぐるようで、ブルーメロゥにはそれが温かく心地よかった。


 “目”が開き、電子の身体と声を与えられたブルーメロゥが、

 皆への挨拶の次に試みたのは、歌を唄うことだった。

 最初にライラの歌を耳にしてから、ずっと自分の声で歌ってみたいと思っていたのだ。


「ふふ、私よりとってもお上手ですね。

 あなたはきっと、皆のアイドルになれます」


 早くボディを手に入れ、アヴァロンの“姉”たちと触れ合いたかった。

 自分を優しく包んでくれた声と同じように、彼女らを抱きしめたかった。


 だけどライラ、マリード、火具夜、ターニャ。

 皆、今はもう、いない。


 失った実感も無いままに、ブルーメロゥには手出しもできない場所で、

 無残にもその存在を奪われてしまった。


 “姉”たちの頬に触れるはずだった手に、ブルーメロゥは冷たい銃把を握った。



 ◆◆◆



 唇同士が離れると、睦はそのままブルーメロゥを抱きしめた。

 彼女が本当に欲しかったものの代わりになれないことは分かっていたけれど、

 そうせずにはいられなかったのだ。


「……ごめんね、ブルーメロゥ。

 辛いこと思い出させちゃった。

 勝手に覗いたりしてごめん」


「大丈夫です、睦さん。

 胸が張り裂けそうな想い出だけど、これが私の戦う理由なんです」

 

 微笑むブルーメロゥの胸には、青い光が灯る。


「なら、こんなところで立ち止まってられないよね」


 睦とブルーメロゥは揃って彼女らの“敵”を見据えた。


 胸に赤光しゃっこうを宿したファラは、

 先程までとは別人のようなたたずまいを見せていた。

 獣のような野生は影を潜め、赤い瞳には静謐が宿っている。


 しかし冷静な表情とは裏腹に、両腕の火焔のタトゥーは

 生き物のようにざわざわとうごめいていた。


「頭に血がのぼって大事なことを忘れてた。

 オレにはいささか、サービス精神が欠けてたみたいだぜ。

 スモークは粋な演出だが、度が過ぎりゃあ画面が映えねぇ。

 ここはひとつ風通しをよくしようと思うんだが、

 ジュリエット、おまえはどう思う?」


「いいんじゃない? 今なら巻き添えを喰う心配もないし」


「――だそうだ。光栄に思えよ? 

 実戦で使うのはお前らが初めてなんだ」


 黒いグローブから覗くファラの指が赤熱する。


「睦さん、何か来ます。出足を潰しますか?」


「サービス精神だよ、ブルーメロゥ。

 ここはプロレスに付き合おう。

 必殺技って、先に出した方が負けるんだ」


「ほざけ。……架橋解放クロスドライブ


 ファラは膝を折ると、両手の指を床に突き立てた。

 超高温の指はバターを突くように沈み込み、

 そしてファラの両腕から、火焔のタトゥーが消えた。


 ――どくん。


 脈動に似た重圧プレッシャーが睦の肩にのしかかる。

 とっさに周囲を見回した睦は、信じがたいものを目にした。


 床に、壁面に、舞台に、客席に。

 突き立てられたファラの指から縦横無尽に伸びた火焔の刻印が、

 睦らを取り囲む構造物の全てを、赫々かくかくたる蔦のように覆っていた。


 架橋解放クロスドライブ

 架橋状態における処理能力の向上により、固有兵装の能力を限界以上に引き出す技。

 ファラが持つ、その力の名は、


秩序焼却インサニレイター


 厳かな宣言とともに火焔の刻印が眩く輝き、

 グランギニョールが誇る華美なバロック様式の劇場は、

 一瞬にしてその全てが白い灰となって散った。


 炎なき火葬。多量の灰が雪のように降り注ぐ、灼熱の銀世界。

 天の光は遮られ、黄昏のような薄闇の中でファラの眼光ばかりが爛々と輝く。


「おいおい、架橋クロスリンクまでしておきながら、

 灰に埋もれて死んだのか? そりゃダサすすぎるぜアヴァロン」


 肩をすくめるファラの耳が、しかしぴくり、と動いた。


 ……何かが聴こえる。


「これは……歌か?」


「ローレライだね」


 スカートから灰を払うジュリエットがぽつりとつぶやく。


 〽美わし少女のDie schönste Jungfrau sitzet

  巌に立ちてDort oben wunderbar,

  黄金の櫛とりIhr gold’nes Geschmeide blitzet,

  髪の乱れをSie kämmt ihr goldenes Haar,

  梳きつつ口吟むSie kämmt es mit goldenem Kamme,

  歌の声のUnd singt ein Lied dabei;

  神怪き魔力にDas hat eine wundersame,

  魂も迷うGewalt’ge Melodei.


「……不気味だ。音の位置が掴めねぇ。

 まるでこの島全部から響いてきやがる。

 だけど――」


 衝撃音とともに、ファラはイクテュエスの銃身を受け止めた。


「――それだけだ」


 銃身からブスブスと煙が上がり、ブルーメロゥは距離を取る。


「決闘中に鼻歌たぁいい度胸じゃねぇか。

 どういうつもりだ?」


「……別に、あなたと同じです。

 サービス精神ですよ」


 銃を止めたファラの左腕が、ごぼっ、と不自然に隆起し、爆ぜる。


「うぐ……っ。ちきしょ、あの一瞬で……。

 威力が上がってやがる。単純強化型の架橋解放か?」


「ほら、睦さんもいつまでも埋まってないで出てきてください」


 灰の中から突き出した右手を掴み、灰の中の睦を強引に引きずり出す。


「……ぷはっ、えほっ、けほっ。ひどい目に遭った。

 でも今の大技で完全に確信したよ。

 ファラの能力――あれは熱じゃない。“酸化”だ。

 あいつが刻印したものは、その酸化速度を自在に操作される。

 急速な酸化によって金属は錆び朽ち、有機物なら爆燃する。

 そしてこの島を形作るものは、そのだ」


 生体素子バイオピクセル

 オートマタの素材でもある微小機械マイクロマシンは、

 特殊な植物細胞に流体金属を組み合わせて造られる。


 生体素子は取り込んだ物質の特性をにせる性質を持ち、

 彼女らが立つこの地面から、ファラが焼き尽くした建物、

 そして劇場内の装飾にいたるまで全てが、この生体素子によって形作られていた。 


 つまりファラの力は、この島の全てを灰と帰し、あるいは炸薬と化しうる。

 同じく生体素子で造られたイザナミにも届いた、強力な牙だ。

 

「あーあー、R.U.R.の大事な機密、カメラみんなの前でばらしてくれちゃってもう。

 だけどファラとブルーメロゥ、案外似たもの同士だったのかもねぇ」


 ジュリエットは可笑しそうに微笑む。


「手品の種を割ったのはあなただけじゃないよ?

 固有兵装 《イクテュエス》。

 ただの音波兵器にしては、出力と破壊力の帳尻が合ってない。

 “音”だけで物を壊すなんて、あんな小口径の銃みたいな出力装置じゃ不可能のはず。

 答えは水でしょう? あなたの人魚姫はただのじゃない。

 水――全ての液体が、あなたの味方をしている。

 生体素子バイオピクセルが含む微量の水分に、キャビテーションを起こすことによって」


 キャビテーション。

 音波によってもたらされる圧力差によって、無数の気泡が生成と破壊を繰り返す現象。

 これにより固有振動数を特定できない、あるいは共振を得られない対象をも、破壊せしめる。

 ジュリエットの推理は確かに、睦が知らされたイクテュエスの性能を言い当てていた。

 ただ、一点を除いて。


「一緒に時間を稼いでください」


 ブルーメロゥの言葉に頷くと同時に世界は色彩を失い、睦は思考を加速した。

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