金属塊の友

千羽稲穂

私は、最小限の世界が見たい。

 ガタンゴトン、ガタンゴトンと足を線路につけて私は走る。天に浮かぶ薄い雲は横に伸びている。私が走るこの線路のようにどこまでも雲は続いている。続いて続いて終わりは見えない。空気を吸えば体中が沸きたつ。こんな時こそ友と話したくなったり、仕事がしやすくなったりする。悲惨な出来事に出会うよりかは、こういったなにげない日にいつも通りを過ごすのが一番の至福だと、私は思っている。

 それが出来なかった友には、悔しさしかない。





 私には友がいた。

 あの日、友といつもと同じような会話をくりひろげていた。内容はたいてい今日はどこどこの駅に着いて、いついつまでに人を運ぶのだということだった。それを聞き飽きもせず、私達はいつも報告しあった。そうすることで、私達はその線で走っていることを示そうとする。路線は一種のブランドだ。私の路線はその中でも格別の地位にあると思っているし、そう思うのは私達の性分の一つでもあった。

 友は私達の仲間の中で、とりわけこの誇りを持っていた。人を運ぶことに喜びをおぼえ、走ることに人生を捧げることになんら疑問を持っていなかった。

 私達の仲間の中には、いつも同じ時間、同じ距離を走ることに虚無感を抱くモノも多い。しかし、その中でもこの友は変わりモノであった。その距離を同じ時間、人間を乗せて走ることに楽しさや誇りを抱いていたのだ。

「今日、臨時で走るのは祭りが行われるからだってさ」

 在りし日の友の甲高い声。車輪がブレーキでこすれるような、そんな特徴的な音。耳がこそばゆい、私にとっては嫌な記憶。それでも私は、友を忘れないために声を思い出し、友とのあの日の会話を掘り起こす。

「楽しそうだな」

「ああ、臨時で出るらしいんだ」

「あっちの路線のモノと、こっちの路線のモノとでは仲が悪いと聞くが」

「そんなもの、すぐに仲良くなるさ。同じ走る仲間、通ずるものがあるはずだ。お前だってそうだろ。最初は私のことをおしゃべりでお節介野郎だなんていってたじゃないか」

「そうだっただろうか」覚えているが、忘れているふりをした。「だが、お前ならどこの誰とでも仲良くなるだろうな。走っている最中に隣の貨物列車とも話しかけたぐらいだ」

「あいつらはスラングのきいたいかした連中さ」

「地方へ行くと、そういう連中ばっかだ」

「今日いくあっちもそうだ」

「あそこか」

 あそこの路線はかなり古く、私が走っている場所より設備が整っていないのを思い出した。一番に思い出されるのは、途中にあったさびた信号機であった。

「……そういえば、あそこの信号はきちんと作動しているのか」

「何を言ってるんだ。作動してるとも。何も問題はない。もし、もしだ、故障していても、きっと人がなんとかしてくれるさ」

「それもそうか」

 友は意気込んでいた。あいつらと出会うのを楽しみだ、と。向かいの違う線路に走っていた私にも話しかけてきたほどだ。そこに私の茶々なんていらないだろう。

 友はよっぽどの物好きだった。私のような一般車は、スラングのきいた連中が何を話しているか分からないし、疲れるだけなので関わろうとはしない。

 しかし、友は私達仲間にも積極的に関わっていく。ただすれ違うだけのせいだ。関わり、会話をするだけでも嫌がるモノも大勢いる。その中でも友は、私におしゃべりと噂の楽しさを教えてくれた。

 今にして思えば、友はいつも何かしら楽しんでいた。その横顔を見て、私はこいつのようなやつがいるなら、この世界も案外悪くはないかもしれないな、と心の中でほくそ笑むのが常だった。

 今でもしかと刻みこまれている。友は、私の体の一部であり、大切なモノだった、と。

 だが、友はいない。もうここにはいないのだ。当然のことながら、私の体の一部は、友ではない。私の体につめこまれるのはいつも人間だ。

「ああ、出発らしい」

 その最後を今も思い返す。

「早く行け」

「じゃあ、また巡り合ったら話そう、友よ」

 どこの駅だったか。いついつのどこで巡り合い、友になったのか分からないが、そいつの最後の後姿はよく覚えている。妙に寂しげだった。先にある線路が途絶えているように闇がはびこっている。どろどろとしたものが線路を這いずり回り、車輪を掴むが、私達のスピードに闇も虫の知らせも追いつかない。それらの闇をふりはらい、誰も追いつかないスピードで友は去っていった。


 それを知ったのは、数日後だった。やけに仲間たちの声がやかましい、そんな午後。耳を澄ませば蚊の羽音が聞こえるよう。電光掲示板に赤い文字が灯りだす、あの気持ち悪い表示を見た時のような心境だった。

 人間が持つ新聞紙を横目で見た。私はそこに写る友を、何とも言えない心境で見つめた。なんどとなく疑ったが、私の瞳に刻みつけられた友の面影が「こいつだ」と的確に射ていた。

「正面からだって」

 すれ違う快速列車が言いふらしていた。

「正面からぶつかって、赤い赤い海に溺れて、沈んでいって」

 遠くの祭りの、あの日だった。あの日が、私が友を見た最後だった。

 私の連結している体の一部が消え去っていく感覚に襲われた。体をかき回され、どっぷりと闇の中へ放り込まれた。

 私の体はどこかしら悪くなってしまったのだろう。その事実を知った時から、運ぶ人間の足音が研ぎ澄まされた。一音一音、耳の傍でかき鳴らす。ハイヒールのカツカツと床を蹴る音、駆けこんでくるシューズのゴムの擦る音、椅子のクッションに誰かが腰をかける音。全ての重みが体にのしかかり、体を痛めつけてくる。

 そうした音が再び私に悲惨な現実をおしつけてくる。私はやめろと叫んだって、彼らはやめないだろう。聞こえないだろう。私を操作するのも、友を操作するのも、結局は人間であり、私の存在意義も人間なのだから。


──故障をしてもなんとかしてくれるさ。


──それも……


 そうではなかった。


 私達にはみな一様に、人への信頼があった。だが、その点に逡巡してしまった。その迷いは、私の内なる炎は、もうどうしたって消えてはくれなかった。

 遠くで亡くなった友。遠くで亡くなったばっかりに友の死の実感はわかないが、心の奥底でもっと他に友にかけてやる言葉はなかったのか、ずっと探している。


 友よ。

 大きな金属の塊よ。動く動く。線路に沿う。いや線路に沿うしかできない。まっすぐにみすえて走る。ブレーキを人に任せ、目の前を見つめる。そこには果てしない道だ。駅に停車するためブレーキを踏まれる。立ち止まって、再び発進する。

 その時、果てしない道の先に違う金属の塊が正面から走ってきたとしたら、あいつなら、気軽に「よっ」と話しかけていたのだろうか。そうして正面からぶつかってしまったのだろうか。

 私の耳鳴りはそれから鳴り響いている。






 また、私にはこんな友がいた。

 その頃はようやくこの忌々しい耳鳴りと、ほどよい付き合い方が分かってきたころだった。

 人にも、きちんと時間通りに乗車できる日と、乗車できない調子の悪い日があるだろう。

 私のその日は前者の調子のよい日だった。人の足音もさほど気にならない。耳に届かない。友の幻聴もない。快晴だ。私は思い出すのをやめて、近くにいたそいつに喋りかけた。

「最近、よく見かけるね」

 そいつは眠そうな目をしながら鬱陶しそうに「そうだな」と返事をした。これがそいつとの出会いだった。

 それからちょくちょく見かけるたびに話しかけるようにした。そいつは話しかけるたびに鬱陶しそうに、そして眠そうに低い声を唸らせて返事をしていたが、そうした問いかけがどうにも心地よく何年か続いた。

 何年か経つとそいつも乗り気になってくるものだ。いく月か、いく年か経った時向こうもまんざらではない様子で、今日はどこどこに行くと駅名を親し気に教えてくるようになった。すると、私もどこどこに向かう途中だと嬉しくなって会話を弾ませた。

 上塗りをしたかったのかもしれない。浅ましいことだが、新たな友の関係に私が浸っていたのはそうした業もある。いや、もうはっきりと白状しよう。傍らに響く、亡くなった友のかすかな声から私は逃げたかったのだ。遠くでいなくなった。そして、あっけなく私の前から姿を消した友。何も感じていなかったわけではないが、実感がわかなかった。ひょっこりと私の傍を通り、「よっ」と話しかけることもあるかもしれない、と信じたかった。あの新聞の友の最後を忘れて、あの時の友がこいつだと思い込ませようとした。

 だから、友になった。

「かったるいなあ」と友になったそいつはぼやいた。

 私は向かい側のホームで、いくつもの仲間を見送りながら「そうだよな」と同意していた。

「最近、空気が悪いんだ」眠たげな声に一粒の深刻さが宿っていた。

「空気とはなんだ?」

「人の空気さ。お前は分からない? 駅に着く時、ぶわっと手汗がハンドルに滲むんだよ。そこから焦りや気持ち悪さが漂うんだ。どこへ行こうとしても行き止まりでさ。むしろ足がどんどん動かなくなって、沈んでいく。まるで沼だよ。足を取られて動けない。どこへもいけない」

「私にも少しわかるかな」

 一瞬ちらつく昔の友の影を、目の前にいる友に重ねてしまった。虫が闇を引き連れて友の足にまとわりついているようだった。

 そこでふと、耳鳴りが大きく浮き沈みしていることに気づいた。いくつもの音が重なり、虫の軍勢がおしよせる。この虫は待っていた。「今だ、いけ!」と友に指をさす。今までおし殺していた不安が一気に降りかかり、音の波が私の友に襲いかかる。

 前を向く。先には何もない。見晴らしがいい道が続いている。正面に知らないモノの影などなかった。

 友を見るが、もう発進しているところだった。ゆっくりと駅と歩みがずれていく。さきほどまで「かったるい」と言葉にお似合いの顔をしていたが、発進してからは顔をしかめていた。

「時には、ゆっくり走りたいものだ」友は皮肉交じりに言った。その表情は運転手同様に歪んでいた。

「走ることは楽しいのに?」これは私達の仲間全てに言えることだ。

「それもそうだけどな」

 何か落ち着かなかった。友の出発も目前といったところで、友のはらむ空気とやらに私は気持ちをかきみだされる。悪いことが起こる時に似ていた。

 私達は線路の上しか走れない。この線路の上を快適に走るのは幸福だ。友さえ失わなければ、先にある線路が閉ざされていなければ、私は走るだけでいいとすら感じてしまっていた。

「また会おう」

「ああ、お前と話せて楽しかったよ」

 友と交わした会話はそれで途切れている。


 私はここから一旦記憶がとんだ。その日から数日先だ。気づいたときはいつもの時間、いつもの駅に控えていた。

 しかし、何か違う。

 駅の電光掲示板には赤い表示がされていた。私達の最も嫌う景色だ。これがあれば、おびただしい声が聞こえてくる。私の中に人がぎゅうぎゅう詰めこまれる。これを大抵のモノは嫌っていた。が、しかし、ここで重要なのは、そういうことではない。

 私は近くにいた新聞を読みふける人に目をむけた。嫌な気分だった。あの闇が、私の足にまとわりついている。先は真っ暗で私は今からそこに入っていかなければならない。そんな果てしない道を思うと、億劫になる。それと同じでこの情報を知るのがひどく恐ろしかった。

 私はいやいや日付を見て、此処にいる私は友と会った数日後の私だと知ると、次に一面に張り出されている写真に焦点をあてた。そこに映し出されているのは原型をとどめていない友の姿だった。

 友の見る影もない、無残な姿。ひしゃげた友の体が大々的に写しだされ、「通常以上のスピードが出ていた」と文字を見て私は心の中の涙と嗚咽を抑えられなかった。

 曲がり角だ。曲がり角を曲がりきれなかったのだ。スピードを出し、線路から車輪が外れて、友は、いなくなった。

 ぺしゃんこだった。友の最後の顔も見えない。なんとも悲惨な状況。

 私は見るのをやめた。そしてここ数日記憶をなくしていたように、再びこの事実がなくなることを祈った。しかし今度はなくならなかった。

 友の最後の姿を想像してしまう。この線路を想像以上のスピードで駆けぬけて、曲がるべき場所が曲がれず、そのまま目の前の建物に突っ込む。

 一瞬だっただろうか。友が恐怖を感じて、目の前が真っ暗になるまで痛みも、自身の損壊も気づかないままいってしまったのなら、私はそれでいい。だが、もしその全てを感じて運転手に「やめろ!」と叫びつつ、そのまま建物に突っ込むその瞬間に意識があったのなら、友が感じた恐怖や精神的苦痛は言葉にならないほどのものだっただろう。


 そこからの日々はずっと生きた心地がしなかった。友を二度失った悲しさや怖さに気おされ、人間のミスに怯えて、事故が起こらないように、と祈って走っていた。いつあのような悲惨な出来事が起こるか、気が気でなかった。

 ハンドルを握る重さ。私のスピード。周囲の光景が写真を撮るよりも早く過ぎていく。この空間を切り裂くような風をいつもは楽しんでいるのに、鬱陶しいとさえ思ってしまう。ホームに着き、人の足音を感じて、ぎゅうぎゅう詰めになった体をいたわり、それでも走る生活を続けるしかなかった。気持ちに整理がつかないまま。

 私は二度の喪失によって、ふとした瞬間目をつむることが多くなった。耳に残る、二人の友の記憶と、私の想像しうる全ての記憶をかき回し、乱し、全てをないものにしようと試みたのだ。だが、無駄だった。私の体に乗りこむ、人間の足音が邪魔をし、体は闇に囚われたままだった。

 足元には闇があって、目の前にはいつやってくるとも限らないナニカがある。ハンドル一つでスピードを速め、線路から体を浮かし、体が崩壊する。その瞬間、私はどこへいくのだろうか。

 快晴の日は、再確認する。自身の傍にある影に囚われていることを。友を。悔しさを。いつ私もあのような悲惨なことになるか、びくびくと怯えて過ごしていることを。

 長い長い航路だったような気がする。運んで、見送って、線路に沿って進んでいた。






 今日も、熱い線路の上を走る。右に人間の街。左に人間の街。どこも街一色だが、この景色は一つとして同じものはない。スピードをだし、一つ一つの景色は流れるように、滑るようにうつろう。砂利が線路の隙間にあり、赤さびた線路がその上に敷かれている。

 握ったハンドルも疑い、目の前を走る。今日は大丈夫、と判断し心を落ち着かせる。うららかな日差しが私を温めて左側のドアを閉めさせる。目を細めて、天の友に「今日は清清しい日だな」と話しかける。私の背後の影は濃くなっていた。耳鳴りがけたたましくなっていた。体の中の足音が妙に鮮明になっていた。


 遠くで踏切が下ろされているにもかかわらず、車がゆっくりと横断していた。


 目を大きく開ける。降りそそぐあたたかな日差しが一気に冷えた。水滴がふきだすほどに、私は体を凍らせる。だが走るしかない。運転手は踏切を渡っている車に、遠すぎて気づいていない。私は、走る。そうするように体が仕組まれている。線路しか進めないようになっている。頭の電線からもらい受ける電流が鮮烈に体の中を伝っていく。

「……気づけ」

 小さく呟いた。だが運転手は気づかない。線路内に車が入っているのに!!

「気づいてくれ」

 涙声になる。私の影が揺らぐ。それは大きな虫となって私の背後にまとわりつく。

 友のことを想わずにはいられなかった。正面から大破した友。建物に突っ込んだ友。私もあのようになるのだろうか。この運転手の手によって。いや、自身の体の脆弱さによって。いや、この線路の視覚によって。いや、この日差しで遮られている視界によって。自身が誇るスピードによって。私は、たくさんの事象の中で、消えてゆくのか。

「気づけぇ」

 情けない声。私の体は曲がり角にさしかかる。もうすぐ目の前に小さな黒い車体がある。

 大きな虫のような影が遮った。

 はっとなり、目をつむった。一瞬のうちに、初めて線路に足をつけた時から、二人の友を失って、今ここにいたるまでの走った距離が頭に過った。次々と映されていく映像に、唇を噛み、声を押し殺す。


 ああ、終わった。


 と、思ったその時。


 ピピピピピピピピ……


 耳慣れない音が私の体を伝った。


 ピピピピピ……


 運転手が気づき、ブレーキのけたたましい音が全身にとどろく。体が車に当たる前で緊急停車する。そうしてゆっくり体を制止していく。駅に着く時のようなゆっくりとした時間だった。あと数メートルで止まる。そのずっと先に車がある。ゆっくり、ゆっくり、と距離を車へ詰め、止まった。あと数メートル、反応が遅ければ車に当たっていた。目の前の車も命からがら助けられたというのもあって、涙声で意味不明な言語を叫んでいた。

「緊急停車しました」

 私の体内で放送される。

「ただいま、踏切に車が立ち入ったため緊急停車しました。駅係員、警察が確保にあたっております。お急ぎのところ、大変ご迷惑をおかけします。今しばらくお待ちください」

 安堵のため息をつく。

 だが、一方で私の中でいろいろな疑問が浮かんだ。

 もしこの警報機や、緊急停車装置が亡くなった友の時にあればどうなっていただろうか、と。友の体に備えつけられていたら、私の友は救われたんじゃないのか。友は今も私の隣でしゃべり続けていたはずではないか。なぜ、あの時に。

 私の友は正面から衝突した。あれの原因は、人間の手順の省略と人間の整備不足と、焦り。どうして、人間はミスしてしまうのだ。

 なぜ今さら、私を助けた。全てが遅すぎる。私を助けてどうなる。私の声はなぜ、人間には届かないんだ。

 一機械。でかい、怪物。金属塊の私を、人間は利便性が長けているために使い続ける。怖くはないのか。私は自身が怖い。いつこうして遮るものがあるか分からない。私の体にいる人間を、助ける自信がない。自身がまだ未熟であることを知っているからだ。私の未熟さに気づかないわけではないだろう。


「私は、怖い」


 青い空の下。正常に作動した警報機。緊急停車装置。周囲の建物も、私も無事だ。大惨事は免れている。それでも不安はぬぐいきれない。


「お前は私が怖くはないか」

 そっと運転手に語りかける。


 すると運転手は、驚いたのか目を見開いた。私もすぐに悟って、同じ反応をしてしまう。

「誰だ」と運転手。

「聞こえているのか?」驚きまじりの情けない声をさらけ出してしまう。

「だから誰だと言っている」

「私はお前が乗る、この乗り物だ」

「乗り物?」

「大きな猛スピードで走る、金属の塊だ」

 なんだか分からず、私の声も運転手の声も、かみ合わずハウリングしているかのようであった。どちらの声も個室にこもり、しめっている。おどおどと、どうすることもできない。運転手も車をどかす応援を呼んでしまい、手持無沙汰だった。「あ」とか「その」とか、何度も会話を続けようとしたが、この奇妙な対面に怯えてしまいお互い話しかけずらい。その中でも悲しみや苦しみ、後悔が渦を巻いて私の頭の中をいききしていた。

「お前は怖くないか」ふっと息を吐くがごとく漏れだした疑問は、私の今まで抱いてきたものだった。「私が怖くないか。猛スピードで走り、人を運ぶこの仕事は怖くないか」

 そこで運転手は白い手袋をはめた手をぎゅっと握り顎にやった。どうやらこれがこの運転手の考えるしぐさのようだ。

「……怖いさ」ぽつり、と運転手が言葉を吐きだす。「怖くない運転手なんていない。いつだって過去の事故がつきまとう。最初は責任の重圧に押しつぶされそうになったさ」

「なら、なぜ私を使う。私達を使う。意味はないはずだ。過去の事故を起こしたのはいつだって私の体の未熟さと人間のほんの少しのミスの積み重ねだ。私を使わない方が安全ではないか。私は私を使う人間も怖ければ、私自身も怖い。お前もそうなのだろう? 怖いのだろう?」

 すると、はははと運転手は笑った。からっと晴れた日差しのようなとても心地よい笑い声だった。私の曇った心も快晴に変えていく。期待を込めてしまいそうになる。だが人間がこれまで、どれほど友を傷つけたかを知っている私は運転手になんの期待をかけないよう、細心の注意を払った。

 運転手は続ける。

「だが、歩いて目的地へ行くよりかは、はるかに利便性に長けすぎていて、今はこれしか考えられない。車もそうだ。事故の割合はあっちの方が高い。ではなぜ、それでも人間はこれらを使うか。ひとえに、それは便利だからとしか言えない」

「便利だから、人を殺してもいいのか」

「安全と便利は必ずしも釣り合わないものだ」

「なら、使わなければいい。便利であるがゆえに、私の友も死ぬ必要はなかった。人間とはおろかだ。自身の安全よりも、社会の利益を追求したがる」

「愚か、か。本当にそうか? 安全と便利を極限に釣り合わせることはできるのに」

 そこで、必死になっている私と運転手との会話に間ができる。運転手は夢見心地と言った様子でとろんと目を伏せていた。その目はずっとずっと先を見つめている。私が歩む道の先へ。どこまでも続く線路を眺める。

 これが答えだとでも言わんばかりに。

「でも、それには犠牲が必要だ。なあ、お前には分からないかもしれないが、人間はね、今の現状を打開するために過去を使うんだ」

 ほう、と私は目を伏せた。もっと近くにあるものを見る。例えば先ほどの車を。その下にある赤さびた線路を。小さな砂利が敷き詰められた道を。ここを走るのは好きだった。走ると周囲の景色は一瞬にして消える、あの心地よさが私の楽しみだった。

 運転手は私の言葉など聞かずに言った。

「事故は確かに嫌なものだ。あってはならないものだ。あの時、ATS自動列車停止装置が作動していれば。あの時、私達が手順を省略していなければ。あの時、車が見えていれば。今の緊急停車は、そういう『あの時』があり、止められた。いろんな積み重ねで、君が無事に走れているんだ」

 私は運転手に合わせて先を見つめた。車が踏切からようやく出たところだった。もしかしたら大惨事になっていたかもしれない、その原因が去っていく。私の道を邪魔させないように。

「今、君が存在しているのもそうだ。私が生きているのもそうだ。こうして、運転できているのもそうだ。人間は過去を使い、学び、失敗を糧に歩む」

 人間はおろかで、ミスばかりして、自身の命よりも利益を追求する、どうしようもない生き物だ。

「素晴らしい生き物だ」

 最低な生き物だ。

 だが、運転手が言うもの事実だった。私は人間から生まれた。人間のような欲がなければ生まれていない。利益の果てに私は生まれたのだ。そうして今も追突するところを助けられた。今私が生きているのは、亡き友のおかげだった。

 生まれてしまった私の命はもうどうしようもないのなら。

「それならば……」

 私をより良い世界に連れて行ってくれ。

 友にもう安心して走れるのを見せてあげられるぐらい。

「私に見せてくれ」

 すると、運転手は目を丸めていた。周囲を見渡す。しかしさっきの会話が夢であったように、ふぅと息を零して両手で頬で平手打ちした。そして目の前の車が去っていなくなるのをしかと見つめた。私の道に障害物はないか、再び確認した。






 あれから私は、何度か運転手に話しかけてみた。だがあの時のように会話をすることはかなわなかった。違う運転手にも話しかけてみたが、物と人、まるで違う世界のものたちは相容れぬのか、反応はひとつとして返ってこなかった。

 そしていつしか話しかけるのをやめた。記憶も薄れていき、あの運転手が私と会話をしたのが夢だと思ったように、私の中でも幻だと思うようになっていった。だが、思い出す。運転手のいくつかの強い意志が宿っていたあの言葉の数々を。


 ──人間はね、今の現状を打開するために過去を使うんだ。


 今でもその言葉を聞いて愚かだと思う。だが一方で私の恐怖を薄れさせる。あの時の恐れといったものを払拭し、人を受けいれさせる。

 私は、空を見上げて友にその言葉を告げた。すると、よく思わない顔をした友が頭の中に浮かぶ。友たちは決して自身の事故の原因であるものを許しはしないだろう。


 今でも、事故は起こる。

 全て人間の未熟さがひき起こしたものだ。私の体の安全性は極限に引き上げても、人間のミスを最大限に削ったとしても、こうして起こりうる事象は消し去れない。

 しかし、最小限にはできるであろう。


 金属塊の友よ。

 いつの日か、私はその最小限の世界が見たい。


 今日も線路に沿って走る。ガタンゴトンと音をがなりたてて猛スピードであらゆるものを追い越しながら。


 不思議なことにあの警報機が鳴り響いてから、耳鳴りは治まっている。

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