第10話 金星食の文化祭
浮かれているな、の一言に尽きた。
高校の文化祭というのは得てして派手なものだと相場が決まっていて、それはどうやらお嬢様学校だろうとなんだろうと変わらないらしい。
自分の学校に文化祭などないから、基準は分からないが。
さくりと踏みしめた芝生は鳥肌が立つほどに柔らかかった。学校に硬い地面ではない場所があるというのは彼にとって違和感でしかなかった。
先程から感じる桃色の視線をすべて無視して、彼は闇で染まった地面を歩く。上から小さく歓声のようなものが聞こえてふっと顔を上げると、屋上で天体望遠鏡を覗いている男女の集団が見えた。
「……ああ、今日か」
ぽつんと呟いた言葉を夜に溶かして、彼は歩く。
今日はあの鋭いんだかそうじゃないんだか分からない彼女の学校の文化祭だ。去年までなら不純異性交遊とかいうくだらない理由で行けなかったのだが、今年はどうやら違うらしい。
『紳士淑女の皆さん、さあ、存分にハメを外そうじゃないか』
日がすっかり落ちてから友人に半ば引きずられて連れてこられた先、鋼鉄の門が後ろでがしゃりと閉まる音を聞いた。それを女にしては低めの声が貫いたのも。
この騒ぎは、中夜祭というらしい。
しかも今年は大人は禁制で、教師もだと言うから驚きだ。
生徒会長が奇特な人物らしいというのは彼もあの少女から聞いていたが、まさか夜の学校に生徒を、しかも坂向こうの士官学校の奴らも含めて閉じ込めてしまうなんて、相当な変わり者だ。そういう奴に限って親やら教師やらを丸め込めてしまうのだから、全く世の中というのはよくできている。
まあ、そんなことはどうでもいい。
彼は校庭で花火を撒き散らす学生たちに見向きもせず、まっすぐとある場所へと向かった。
すべてが黒く染められた校舎内、その教室のうちのひとつ、奥でぼんやりと淡い光が浮かんでいる場所へ向かう。
窓に手をかけてがらりと引き開けた。かんっと長靴をさんに乗せ、そのまま中へ飛び込む。土足だがいいだろう。なにせ『ハメを外せ』と言われているのだから。
かつんっと長靴が響く。奥で影がうごめいた。
「……黎明くん?」
「よお、黄昏ちゃん」
彼女はびっくりした顔でカウンターの向こうから自分を見ていた。そのそばには申し訳程度につけられた淡い電灯が置いてある。
「これじゃ本も読めねえだろ」
そこは図書室だった。日焼けを避けるためなのか北側に作られた教室は肌寒い。
彼女が不思議そうに首を傾げる。
「……なんで、ここに?」
「分かりきったこと言うなよ。文化祭楽しみにきたに決まってんだろ?」
黄昏ちゃんこそ何してたんだよ、と問いかける。
「花を売ってたんだよ」
「花?」
そう、と呟いて、彼女は隣のカウンターに置いてある鉢植えを指さした。
「ちょっと出し物見に行きたいから、手伝ってって頼まれちゃって」
「頼んできたやつは?」
「来ないねえ」
「よし、しばくか」
ぎょっと目を見開いた彼女に、はっと彼は乾いた笑みを浮かべた。
「俺と黄昏ちゃんの逢瀬が面倒なことになったじゃねえか。校舎内駆けずり回ってやろうかと思ったんだぞ」
「それはごめんねって感じだけど、女の子に暴力は駄目だよ」
優しく諭す姿がなんだか気に入らなかった。騙されたのは自分だろうに、彼女は気にもしていないようだ。
ふうん、と呟く。面白くない。
「黄昏ちゃん」
カウンターに片手をついて、知ってるか? と問いかける。彼女がきょとんとした瞳で見上げてきた。
「俺も花を買いに来たんだけどよ」
「え、そうなの?」
「ああ。とりあえず前払いで、これな」
ぽんっと軽く渡した札の金額に、彼女はぎょっと目を見開いた。まあそれはそうだろう。給料三ヶ月分だ。
「黎明くん、これ……」
「あ? 何驚いてんだよ、前払いっつったろ」
「前払いって、これじゃあ、お釣りだって出せないよ」
「いらねえよ。足りねえからな」
「……
鈍いやつだ。
いや、この場合は分からなくても仕方がないかと笑う。
彼はとんっといつぞやのように彼女の鎖骨の間を指で突いた。ぐっと顔を近づける。
「俺は黄昏ちゃんを買うっつってんだけど?」
彼女がぴしりと固まった。かと思えばみるみる顔が赤くなる。婚約指輪は平気で首にかけているのにこの態度、全く女というのは分からない。
彼に分かるのは、彼女の反応は相変わらず面白いということだけだった。
「なんだよ、俺が買い手じゃ不満か? 言い値で買うぜ」
「え、あの、え?」
「……異論はねえみたいだな」
「え……ひゃあ!」
色気のない悲鳴だが、まあ別にいい。
カウンターという障害をものともせずに彼女の体が持ち上がる。予想通り、まだ冬には早いというのに彼女は梅柄の女袴を着ていた。腰に刺さっているのはあのとき自分があげた蝋梅で、知らずぞくりと背が震える。
抱えた彼女の耳に囁いた。
「腰に花なんかさして、黄昏ちゃん、俺に買われるためにここにいたんじゃねえの?」
にやりと笑うと、彼女はぱくぱくと口を開けたり閉めたりした。面白すぎる。
「黎明くんの、破廉恥!」
「黄昏ちゃんこそ、無意識に男惹きつける癖なんとかしたほうがいいぜ」
「だからそれどういう意味!?」
「そのままの意味だっつーの」
くつくつと笑う。彼女はすっかり調子を取り戻したようで、窓から外へ出ようとした彼を慌てて制止した。
「待って黎明くん。そのまま出るの?」
「ああ。頭低くしとけよ。ぶつかるぞ」
「ちょ……」
しかし彼にその言葉を聞いてやるつもりはさらさらなかった。そのまま外へと飛び出す。悲鳴が上がる。それすら楽しくて、どうやら自分もこの空気に毒されているらしいと彼は笑った。
満月がぽっかり浮いている。
「……黎明くん、いきなりはほんと、やめてほしい」
「黄昏ちゃんがそんなになるなんてなあ」
大方お嬢様学校にいるときの自分を保ちたいのだろうが、そんなことは許さない。彼は困った顔で黙り込む彼女に上空を示した。
「見ろよ、黄昏ちゃん。今日は金星食らしいぜ」
「……みんなが騒いでるのはそれのせいかあ」
つられて空を見上げた彼女の瞳にも、いつもより大きな黄色い月が映っているのだろう。そう、今日は金星食の日だ。生徒たちはこぞって屋上の天体望遠鏡を取り合っている。壊れなければいいが。
あ、と声がすぐそばで上がった。
欠けが少しもない月の端に、ぽつんと小さく黒点のような丸が見えた。
「見え……」
彼女が目を輝かせたその瞬間、いとも簡単に、星がなにかに飲み込まれた。ばくりと大きな
歓声があがる。屋上で見ている生徒たちだ。それとは対称的に、彼の腕の中で彼女は残念そうにあーあ、と呟いた。
「食べられちゃった。金星」
「まあ、金星食だからな」
「青龍だっけ? 律儀に毎回食べなくてもいいのにね」
「一度くらいは見てみたいもんだろ、金星の捕食シーンなら」
「だってさあ」
おかげでまた、水金地火木土天海が水地火木土天海になっちゃった、と、彼女は残念そうに呟いた。まあ確かに、試験の答えがまた変わるのが面倒くさいことには、彼も全面的に同意した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます