第9話 大潮の日
その日は珍しく、彼が私の家に正面からやってきた。やってきたと言ってもそれは早朝も早朝で、女中だってもうちょっと遅くに仕事を始めるというくらいの早朝だった。
詰まるところ、起きているのが私しかいないから、彼は堂々とやってきたのだった。
けれど、
「たーそがーれちゃあーん、あーそびましょおー」
「いーいですよー」
反射でそう答えてしまうくらいには、私も彼と同類だ。
広い庭をスキップするように渡って、大きな門からひょいっと顔を出す。私服かと思いきや、軍服姿で彼はそこに立っていた。まあ今日は平日なのだから当たり前なのだけど。
白み始めた空の向こう、満月を背負って彼はシニカルに笑った。
「こんな朝早くから起きてるとは、勤勉だなあ黄昏ちゃんは」
「こんな朝早くから制服着てるなんて、真面目だねえ黎明くんは」
示し合わせたかのように笑いあう私と彼は門ひとつを挟んで対峙している。その数十センチの距離が遠いことを私達はよく知っていた。
無言で先を促したのが伝わったらしい。黎明くんは心得たとばかりに唇の端を上げて、すっと自然な動きで手を差し出した。静寂が一瞬だけ辺りを満たした。
猛獣のごとき瞳が光る。食われる一秒前のような雰囲気にぞくりとする。
「サボろうぜ、お姫様」
「……喜んで、王子様」
全くもって真面目じゃない一言に、私は満面の笑みで答えて一歩踏み出した。門は所詮門だった。
ざり、という音がする。
近道というのは大概足場が悪いものだけど、そこも例に漏れず下駄では結構つらい道だった。私は普通の靴があって良かったなと胸をなでおろす。
路地裏といっていい、玉砂利が敷き詰められた場所を歩く。もちろん学校とは正反対だ。
サボったことが初めてなんて言わない。けれど、私の足の下の感覚は初めてのものだった。綺麗に石畳が敷き詰められた遊歩道からひとつ外れただけでこんな路地裏があるものだから、寄り道やらサボりやらを私はやめられないのかもしれない。
気がつけば足音が一人分になっていた。私はふと後ろを振り向く。風がさわりと草花を揺らす以外はなんの音もしていない場所にあるものを見て思わず微笑んでしまう。
彼はほんの少しだけ笑みを浮かべた顔でその場にしゃがみこんでいた。
にゃあああああああごおう。
毛並みがぼさぼさの黒猫が
まだ年若い猫はすっかり懐いていて、ざらざらの舌で彼の指を舐めるばかりだ。
私もそばによってしゃがみこむ。私だって猫は好きだ。気になって手を伸ばせば、黒猫は細く目を開いてはくりと指をくわえてきた。甘噛みだ。
「あ、ずりいな、黄昏ちゃん」
「ふふん、黎明くんより私がいいんだって」
少し拗ねた声だったけれど、本気じゃないのは目でわかった。彼の視線は優しいのだ。私は誰よりそれを知っている。
不意に猫が立ち上がって、家の壁の隙間の中に入ってしまう。二人で顔を見合わせたとき、猫が口に何かをくわえて戻ってきた。
みゃあああう。
にゃああああごう。
みゃあああご。
次々に現れた子猫たちは、とてとてと私の足や彼の手に擦り寄る。私たちはほぼ同時に固まった。
しばらくして、ふはっと彼が吹き出した。私は声も出せずに笑っていた。
太陽が、高かった。
しばらくして、そろそろ行くかと立ち上がり、彼は最後に一つ親猫の頭を撫でた。
「元気でな」
にゃああああああああごう。
長い鳴き声をもらして、彼らはその場に丸くなる。どうやらお昼寝らしい。
彼は私に一瞥をくれると、名残を惜しむでもなく歩いていく。その後ろ姿をぼうっと眺めて、私は彼の隣に立った。
歩きながら、私は彼の顔をのぞきこんだ。ぎょっと身を引いたのを追いかけはしなかったけれど、目線は決して外さなかった。
「今日は何があったの?」
「……あ?」
不可解そうな顔をした彼ににこっと笑う。ごまかしてもダメだ。
「知ってるんだからね。黎明くんがサボろうっていうときは、大概何かあったときだよ」
「……そうか?」
何かをごまかすように視線をそらし、虚空を見つめる黎明くんはそのまま消えてしまいそうだった。私はその顔をじっと見つめて、逃すまいとする。
こういうときに折れるのは大概彼のほうだ。
「……なあ、黄昏ちゃん」
「なあに、黎明くん」
「俺の言葉って
きょとん、と目が丸くなる。
首をかしげたけれど、どうにも言い間違いではなさそうだった。
「訛りって……」
「田舎のとか地方の訛りとかじゃなくて、あー……」
がしがしと頭をかく。
彼がバツの悪そうな顔をするのは珍しい。その理由を、私はきっと知っている。脳裏に白い墓標が映って、あの子守唄が耳の中を駆け巡った。
ああ、また何かに、この人は囚われている。
「……別に、訛っててもいいと思うけどなあ」
誰に何を言われたか知らないけれど、黎明くんはたまにひどく弱くなる。それがなんのためなのか私は知っていた。誰のせいなのかも知っていた。本当はその人のせいじゃないことも知っていた。
彼の髪の色が薄いのは、虹彩が黒くないのは、背が高いのは、彼のせいではないことも。
きちんと、知っていた。
「だって私、あの子守唄好きだし」
ちょっと照れくさくなってそっぽを向くと、しばらくして無言で歩み寄ってくる気配を感じた。ちらりと首だけ振り向く。予想したより結構近くに彼は立っていた。
静かに私の髪に手を伸ばす。私よりよほど白い指がすべらかに髪の間を通り抜けた。
「……俺は」
気丈な心がぽっきりと折れたように、か細い声で黎明くんは告げる。
「俺は、お前みたいに、なりたかった」
その言葉には色んな意味がこめられていて、思わず彼の手を握ってしまう。本当は、抱きしめたかった。
「私も、あなたみたいに、なりたかったよ」
どうして私たちは遠いのだろう。どうしてこんなに違うのだろう。どうして、どうして、どうして。
どうして彼は異国訛りで、私は共通語で。
どうして私たちが互いに違うことを、私たちに関係ない人が気にするのだろう。
違っていたっていいのに、私たちはそれでいいのに。
でもとかけれどとかを言うのは、いつも私たちじゃない他の誰かだ。
それが酷く耐え難いことだった。
「訛ってても……すごく、かすかな訛りだと思う。でも私は訛っててほしい。黎明くんにはずっと訛っててほしい。直さないで、変えないで……忘れないで」
「……黄昏ちゃんこそ、変わんなよ。これ、やっぱなしとかやめろよ。俺から離れたら、きっと俺はなにするか分かんねえからな」
「今更だね」
彼が指し示したのは左手の薬指に嵌った指輪で、私は思わず笑ってしまった。そんな当たり前のこと、記憶がなくなったって変えたりしない。
絡まった指先が熱かった。指と指が交差して、離れることなど考えてもいなかった。
ざり、と石が音を立てる。
そののち一瞬、すべての音が消えた。
「ねえ、どこ行くの? 黎明くん」
「どこ行こうな」
「決めてなかったの?」
「黄昏ちゃんこそねえの? 行きたいとこ」
「……うーん、海行きたいなあ。今日は大潮でしょ? 満潮から干潮までずっと眺めてたい」
「乗った」
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