第8話 自然に殺されるのは
この季節は嫌いじゃないけれど、天気が変わりやすいのはどうにかならないのかなと私はため息をついた。慈悲などなさそうな、何かを貫かんとでもしているかのような音に耳をすませる。もうどれくらいになるだろう。
私はもうひとつため息をついた。
窓の外はすっかり雨だった。
家を出てきたときはまっさらな青空だったのに、帰り道になってこれとはどうしたのだろう。まるで癇癪を起こしたような悲鳴が響き渡っている。
「なにやってんだよ黄昏ちゃん。風邪引くぞ」
ふと、後ろから手ぬぐいが投げてよこされた。シミひとつないそれを咄嗟に受け取って、私は彼のほうを見る。
「黎明くんのほうがひどいよ」
黎明くんは私のように全身がしっとり濡れているなんてものではなくて、髪の毛の先から、あごの先から、指先から、服の袖から、あらゆるところからぱたぱたと水を散らしていた。
面倒くさそうに軍帽を脱ぎ捨て、どかりと座り込んだ彼は前髪をかきあげる。
「俺は別にいいんだよ、黄昏ちゃんだって濡れてんだろ」
「良くないよ。黎明くんに比べたらこんなの濡れてるうちに入らないよ」
「いいから拭いとけ」
投げやりなのも彼の優しさなのだと分かっていたから、私はちょっと黙り込んだ。けれどそのとき、外でぐるう、と音がした。
もう、と頬を膨らませ、私は急いで荷物を解いた。
「黎明くんのほうが風邪ひいちゃうよ」
私だって布の一枚くらい持っている。
拒否されないよう、素早く近づいた私は無理やり黎明くんの頭を布で覆ってわしわしと拭いた。
お父様がお土産に買ってきてくれたそれは『タオル』というらしい。手ぬぐいよりも勢いよく水を吸うそれに驚いたように彼は私の手を掴んだ。
「なんだこれ」
「『タオル』だよ。ああちょっと、動かないで」
「いや待てよ、なんで俺を拭いてんだ」
「風邪ひいちゃうって言ったでしょ! 動かないで!」
ぴしゃりと言うと途端に黙り込む。タイミングを逃したのかもしれない。黎明くんはずっと私の手首を掴んだままだった。
「こんな感じ?」
あらかた吹き終えて満足した私の耳に、彼の嘆息が届く。
「黄昏ちゃん」
「え? ……わっ!」
ぐい、と腕を引かれて、私は黎明くんの隣にすとんと座る形になった。彼は私の髪を丁寧に梳くようにして手ぬぐいで拭き取っていく。
「俺のためにこんな高級品使いやがって……俺は黄昏ちゃんの金銭感覚が心配だぜ。つーかこれ、大事にしろよ、髪は女の命なんだろ」
「……別に、ばっさり切ってもいいんだけどなあ」
「そりゃ困るな。俺は長いほうが好きなんだよ」
「そう? じゃあ切らない」
すっぱりと諦めて笑った私に呆れた視線を向けながら、黎明くんは私の髪を拭き取っていく。私はゆらゆらと揺れる頭をされるがままにしていた。
「……そう言えば黄昏ちゃん」
「ん?」
「なんでここに来たんだよ。雨宿りなら他にも色々場所あっただろ」
私は少し黙った。確かに、私の学校から近いとはいえこの廃墟よりも条件のいい場所はあっただろう。私より先にここにいた彼は、とりあえず目についた建物に入っただけなのだろうけれど。
でも、と私は外に通じる扉を見た。壊れて開け放たれた四角い枠からは、ざあ、と雨が流れ込んできている。
「……ねえ、入ってきていいよ」
「あ? なんだよ、誰か……」
私の髪を拭きながら身を乗り出して扉を見た黎明くんは、次の瞬間目を見張った。
そこから入ってきたのは、灰色の毛並みをすっかり濡らしてやせ細ったように見えるニホンオオカミだった。
「この子が案内してくれたの。せっかくだから着いていってみようとおもって」
「……黄昏ちゃん、そろそろ俺の寿命が縮まるぜ」
「どうして?」
首をかしげた。彼はやれやれと首を振って私の肩を抱いた。引き寄せられて、濡れた布同士がぺたりと張り付く感覚がする。苦笑が落ちた。
彼の視線は未だ狼に据えられている。
「お前もまさかついてこられるとは思ってなかっただろ」
苦笑した彼に、オオカミは一度大きく口を開けて欠伸をした。雨で濡れた体を気にもせずにそのまま床にぺたりと張り付く。
「風邪、引かないのかな?」
「引いたらそれはそれでなんとかするんだろ。風邪引きたくないなんて思ってたら野生で狩りなんてできねえだろうよ」
少し笑みを浮かべた彼の目に映るのは綺麗な尊敬の色だった。黎明くんは動物が好きだ。私も嫌いじゃないけれど、黎明くんは人間に決定的に反目している動物が好きなのだ。たまに野良犬に近づいては噛まれてくつくつと笑っている。
彼は、多分、人間が一番嫌いなのだ。
私はそのとき、ふっとあることを思い出した。今の今までずっと忘れていたことだった。
「……私、今日夢を見たんだ」
誰にともなく呟いた。
脳裏に嫌に鮮明な記憶が蘇った。
「……君、いつかいなくなっちゃうんだね」
問いかけられた彼──彼女かもしれない──は、ゆるりと首をかしげるような仕草をした。黎明くんが「なんだそりゃ」と呟く。
「なんだろうねえ……私たちがいると、動物たちはひとつ、またひとつ、いなくなっちゃうみたいなの。乱獲とか……環境破壊、とかで。絶滅、って、いうみたいだね」
「それを夢で見たのか?」
「うん」
「そうか。お前、いなくなるのか」
さらりと受け入れて、彼は目の前で寝そべる獣に近づいていった。そして、なんでもないようにぐっしょりと濡れた毛並みを撫でた。
「好きに生きて、好きに死ねるといいな、お前は」
その言葉の奥に秘められているのはなんだろう。
考えかけて首を振った。やめよう。私には考える資格なんてない。
さあ、という音がして、私はふと窓の外を見た。雨が随分小降りになっていた。
それを見た途端、オオカミははね起きるようにして立ち上がった。黎明くんの手にするりと鼻先をこすりつけて、弾丸のように飛び出していく。小振りとはいえまだ降っているのに、自分の体はまだずっしりと重いはずなのに、ものともしていなかった。
彼が苦笑して、ありゃオスだなと呟いた。
「どうして?」
「あんなにはしゃぐのはオスしかいねえよ。見ろ、天気雨っぽくなってるだろ。こういう状況は、男だったら放っておけねえんだよ」
「そうなのかなあ」
どうにもよく分からない、と首をひねった私に向かって、彼はまたひとつ、苦く笑う。
「まあ真面目に言えば、メスだったらあれくらいの年で子供がいねえはずはねえからな。子供がいるなら、雨の中だろうとなんだろうと飛び出していくのが母親ってもんだろ」
なるほど、言い得て妙だ。
俺らも出るか、と立ち上がった彼に向かって、私はぽつりと告げる。
「ねえ黎明くん」
「なんだよ黄昏ちゃん」
「私の見た夢、続きがあるの」
静かな声に、沈黙が帰ってくる。それは促すための静寂だった。
未来は、と呟いた。
「高い建物がいっぱいあって、みんなが変な機械を持ってて、すごく暑くて、すごく寒くて………………人間は、生きていけなくなっちゃうかもしれないんだって」
はっ、と彼が笑った。ここにいない何かへの、嘲りをこめた笑いだった。
「あいつらを人間が殺すんだろ?」
顔を上げた私に向かって、彼が手を伸ばしている。
「じゃあ俺らが自然に殺されるのは、道理ってもんじゃねえか」
ぐい、と力強く腕が引かれた。
立ち上がりながら、そうだねえ、と薄く笑う。
彼の手が悼むように泣いていた。
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