第6話 眠気をまぎらわす

 生ぬるい風が吹いた。

 彼は酷く億劫おっくうな顔で白い石の前に座り込み、低く伸びやかなテノールをくうに溶かしている。


「シュラーフェ……シュラーフェ……ホールダーズーザクナーベー……」


 ゆうらりゆうらりと風に長いスカートの裾をなびかせた少女がそのさまをじっと見つめていた。

 最後まで律儀に歌いきり、彼は怠惰に彼女のほうを振り向く。首が痛い。なんだってあの令嬢は木の上なんかに登っているのだ。


「なんだよ、黄昏たそがれちゃん。あんま見つめんなよ」

「んー? 綺麗だなあと思って」


 じわじわと体が溶けそうな空気に散っていく歌声が少女にはとても涼しげに聞こえたらしい。洗練された微笑みが彼は気に食わなかった。


「そっか……もう三年になるんだねえ」

「黄昏ちゃんが感慨深げにしてどうするんだよ」

黎明れいめいくんが感慨深げにしてくれないから、私が代わりにしてあげてるんだよ」


 けったいなことをのたまうやつだ。

 彼はやれやれと首を竦めて、隣に立つすべらかな石を撫でた。そこには、異国の文字で名前が彫られている。

 太い木の枝の上で、ほっそりとした体が揺れた。首をかしげたらしい。


「えっと……どこから来た人だったんだっけ?」

独逸ドイツだっつの。そろそろ覚えろよな」


 呆れて答えると、ふうん、と気のない答えが返ってきた。彼は脱力する。彼女はたまにこういうところがあるのだ、仕方がない。

 まあ、この下に眠っている人については、奔放ほんぽうだったらしいということしか彼もよく知らないが。


「あっついね」

「……ああ」


 直射日光にさらされつづけた墓石は長時間触れるような代物ではなかった。彼はすでに離した手をぶらりと体の横に垂らして、なんということもなく白いそれを見つめていた。

 随分と時が過ぎた。


「……ねえねえ、黎明くん」

「……なんだよ、黄昏ちゃん」

「眠いんだったら寝てもいいんだよ?」

「……俺が眠そうに見えんのか?」


 まあ見えるかもしれない。元々眠りの浅い彼は大体瞳にくまを飼っている。


「だって、子守唄歌ってたじゃない」


 不思議そうな声に、彼は緩慢に後ろを振り向いた。


「……分かんのか、独逸ドイツ語」

「ううんさっぱり。そんなの学んだら怒られちゃうよ、知ってるでしょ?」

「ああ」


 くだらない男尊女卑。彼が最も嫌いなここの風習の一つだった。

 まあ、そんなこと目の前の少女が気にするとも思えない。彼女は根本的に言語というものに興味がないだけだ。彼女にとっては言葉は媒介であり、気持ちを伝えるための道具ではない。


「子守唄は聞けば分かるよ。ゆったりしてるもん」

「……ゆったりしてたら全部子守唄だと思うなよ」

「今日はツッコミに覇気がないねえ」


 言うな。気にしていることを。

 少女はふわりとその場から足を踏み出して、ゆっくり落ちるように着地した。

 長い髪がばらばらと遅れて降ってくる。


「黎明くんは疲れを自覚しないんだから、もう」

「は?」


 すたすたと歩み寄ってきたかと思うと、少女はなんの躊躇いもなくその場にすとんと座りこんだ。土と草しか生えていないのに、ハンカチーフの一枚も敷きやしない。

 女座りをしたその膝をぽんっと叩いて、満面の笑みで彼を見てくる。


「ほら、黎明くん」

「……頭痛くなってきた」

「ならなおさら寝なきゃ」


 ゆるゆると首を振って、彼は不可解さを前面におし出した表情で彼女を見下ろす。

 彼女も一歩も引かない笑顔で対抗した。

 数分後、折れたのは彼のほうだった。


 いやいやという雰囲気を隠しもせずに彼女の膝枕に頭を乗せた彼は、しかしすぐさまばっと起き上がる。顔に驚愕が張り付いていた。


「お前……やっぱダメだ、無理だ」

「え、なんで?」

「折れる」

「へ?」

「折れる」


 至極真面目に返したつもりだった。それなのに彼女は一瞬ぽかんとしたかと思うとじわじわと赤い顔になって無理やり彼をその場に横たえようとする。


「変な事言わない! 折れるわけないでしょ、たかだか頭一つ分で!」

「いやこれ折れるだろ、寝返り打ったらボキって」

「なりません!」


 あまりの勢いに気力を削がれた。結局寝ることになってしまう。冗談じゃない。どうしてこんな、綿菓子並みに柔らかな枕で寝なければならないのだ。不安でしょうがない。

 しかし彼女はふんっと鼻を鳴らしたきり、無言で肩を押さえつけてくるので諦めた。本気で抵抗すれば抜けられるだろうが、それも面倒だった。


 ちょうど日が傾いて、いい具合に木が影を作ってくれている。顔を上にしていても眩しくない。

 少女は彼が抵抗の素振りを見せなくなってからしばらく、目の前の墓標を見つめていた。

 そして、桜色の唇を開く。


「シュラーフェ……シュラーフェ……ホールダーズーザクナーベー……」


 天高く登るのはソプラノだ。驚いて身じろぎした彼に、彼女はさらりと微笑む。


「覚えちゃった」

「……相変わらず耳が早えな」


 言ってから使い方が違う気がした。

 少女はつっこんでは来ない。優雅に歌っている。彼は思わず聞き惚れた。彼女にとっては初めて聞いた曲のはずなのに、その音は寸分の狂いもなく彼が歌ったものと同じだった。律儀に彼が間違えたところもそのまま歌っている。恥ずかしいったらない。


「……俺は」


 歌に交じるようにつぶやく。


「眠りたくなかったんだよ……」


 どこに眠りたくて自分で子守唄を歌うやつがいるのだ。子守唄を歌うのは、眠らせたいからだ。

 緩やかに歌がやんで、ぽつんと雫のような声が落ちた。


「……うん、知ってる」


 しっかりと耳に届いていたらしい。彼女は上を見上げて、渦を巻くような形の雲を見ていた。頑として、下を向こうとはしなかった。


「……でも人は、眠らないと死んじゃうんだよ」


 ……ああ、そうか、と彼は苦笑する。

 彼女は……


 再び、緩やかにソプラノが響く。

 考えていた思考が途切れて、ゆるりゆるりと川の中に体が流されていくように、徐々に瞼が降りていく。



 子守唄を歌ったのは、眠らせたかったから。

 ……そのはず、だったのだが。



 ゆらりと木の影が揺れたとき、彼女の歌声は穏やかに止んでいた。

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