第4話 不意に泳げなくなった
荒い息の音がする。
その後を追うように、かつりかつりと硬質な音が石畳に響いた。淡々と同じリズムで鳴り響く音はどこか空恐ろしいものがあった。
「ザーアイン……クナープアイン……ルースラインシュティーン……」
低くて伸びやかなテノールが空に溶けていく。子守唄のような緩やかなそれを聞いて、しかし男はひたすらに足を早めるだけだ。
彼はくつくつと笑いながら、目の前で這うように走っている男を
「姪に手を出すのは駄目なんじゃねえの、オッサン」
ひっ、と声にならない悲鳴を上げて男は走る。だが足がもつれて、結果早歩きと大して変わらない速さになっていることには気づいていない。彼にとって男の姿は滑稽で哀れで、どうしようもなく許せなかった。
彼は長い足を存分に使って男を追い詰めていった。手の中で眠る姫を起こさないようにゆっくりと、だが確実に。
そのまま進め、と彼は胸中で命じる。逃げろ、足掻け、惑え。男のしたことは、彼には到底許せそうもないのだから。
彼女が軽く身じろいだ。
ふ、と彼は初めて気の緩んだ笑顔になった。緩んだのは顔だけで、歩調は緩くなる兆しすら見えないが。
ふと、男の視線が手の中の少女に向けられたのが気配で分かった。全く未練がましい男だと、彼は瞬く間に嘲りの顔色を取り戻して笑う。
白みはじめた空を背にして、嘲笑う。
「黄昏ちゃんが無防備だからっていい気になっちまって、いい歳した大人が恥ずかしいったらねえよなあ」
「う、煩い! お前になにが分かる! その子だけが俺の夢を笑わなかったんだよ!」
「ふうん、だから夜這いってか? 頭沸いてるな」
叔父さんが遊びに来るの、と笑って報告されたときから嫌な予感はしていた。彼女の叔父は実家を勘当されたはずだったからだ。
悪い予感というのは、的中するように出来ているらしい。
こともあろうに目の前の男は、現実的でない夢を追いかけて生活に困窮し、兄に金を無心し諭された挙句、その日のうちに兄の娘に手を出そうとしたのだ。一晩中自分が張り込んでいなければどうなっていたのだろうと考えて、馬鹿な仮定だと振り払う。
その場合はこんなことはせず、自分の手で首を絞めるだけだ。
前方に地下鉄へ続く階段が見えてきて、男の足が早くなる。おびえながらも勝ち誇ったような顔が彼を振り仰いだ。ああ、まだ逃げ道があるなどと、思っているのだろうか。
にやりと笑って、彼は横抱きにした少女の首元に口づけを落とした。男からは唇が触れ合っているように見えたかもしれない。ぎょっとした顔の男を冷ややかに見つめ、くわえた銀の鎖を引っ張り出す。
首飾りとして服の中に入っていたのは指輪だった。
色違いの宝石がはめ込まれたそれを、彼も左手に付けている。
「アーユーアンダスタン?」
少女の胸元にぽとりと落とされたそれは少女と彼との繋がりを示すには十分だ。今にも地下鉄に逃げ込もうとしていた男は首だけでなく全身を反転させ、目をはっきりと見開いた。
一瞬だけ動きを止めたが、すぐに激昂して彼のほうへ走り出そうとする。聞くに耐えない咆哮が
しかし。
濡れた足元が、ずるりと滑った。
「……あ?」
「なあ、オッサン知ってるか? 新進気鋭の設計者が作ったっつーその地下鉄、」
後光がさしているかのように光が舞った。
黎明が、笑う。
「プラットホームが水の中にあるんだってよ」
斬新だよなあ、という声はもう男には届いていなかった。階段の途中から隙間なく埋められた水の中で、何かがゆらりと影を作っているだけだった。
「……ん」
「あ?」
「……黎明くん?」
「よう、黄昏ちゃん」
困惑した顔で目覚めた少女は、ようやく光に照らされ出した街の中をぐるりと見渡す。
「……なんでこんなところにいるの? 私達」
「さあてね、強いて言うなら散歩だな」
適当に言って、彼はくるりと踵を返す。未だに抱えられたままの少女は状況についていけずに黙り込んだ。
「ああそうだ、黄昏ちゃん」
「……なに?」
「お前の叔父さんって、泳げねえの?」
「……今日来てた佐吉叔父さんのこと? 泳げるよ?」
「ふうん」
でももう泳げねえみたいだぜ───という言葉と意味ありげな表情に、少女は困惑しきった表情でなにかを尋ねかけて、結局何も聞かなかった。そのかわり、くんっと彼の袖を引っ張る。
「ねえ、黎明くん」
「なんだよ、黄昏ちゃん」
「とりあえず、下ろしてくれない?」
「やあだね」
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