第3話 名著
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
微かに微笑んでゆったりと頭を下げる。女袴を着た友人達は優雅に微笑んで去っていった。彼女たちは角を曲がった向こう側で、今日もまたきゃらきゃらと少女のように笑い合うのだろう。
私はくるりと後ろを振り向いた。
夜を溶け込ませたような軍服姿に、これまた闇を閉じ込めたように黒光りする
「ごきげんよう、黄昏ちゃん」
「ごきげんだね、黎明くん」
「真面目な『女学生』やってる黄昏ちゃんを見るのが楽しみなんでな」
「嫌な日課」
思わずまろびでた笑い声に、ふ、と彼は笑って私の隣に立つ。
その目が私の持っているものを捉えた。
「なんだ、それ?」
「本だよ」
「見りゃ分かる」
内容を聞いてんだよ、という声は別段不機嫌そうでもない。
私は彼を眺めた。今私の学校では坂向こうの士官学校の生徒を気にしている女学生が少なくない。もちろん、甘い雰囲気の方向性で。
油断しているととられるわよ、と忠告してくれた友人がいた。
「見れば分かると思いますけど?」
「分からねえから聞いてんだよ」
「文武両道はどこへ行ったの」
「母親の肚ん中においてきた」
軽口の応酬に私は肩を竦めた。
「芥川だよ。家にあったの」
「ふうん?」
さすがに芥川くらいは聞いたことがあるらしい。
見やすいようにひらりと振った本は薄い。短編なのだ。
雲に半分隠れた茜色が、私と彼の影をまた少し伸ばした。
「お父様の書斎から少し拝借したの」
「盗んでんじゃねえか」
「失礼だね」
開いていたんだもん、という私の声に今度は彼が肩を竦めた。
私は書斎の中で本を読み漁っていたときのことを思い出す。
「扉の向こうで明かりがついて、部屋の中に蜘蛛の糸みたいに細い光が差し込んできてね。そこで気づいたの。お父様が帰ってきた、見つかるって」
「やっぱ盗んでんじゃねえか」
「人聞きが悪いなあ、拝借だってば」
どうだか、と意地の悪い笑みを浮かべて、どうでも良さそうに彼は無地の背表紙を指さした。
「じゃあそれは『蜘蛛の糸』なのか?」
「ううん、
「はっ」
途端に彼はくつくつと笑い出す。
力のこもった長靴がかつんと高い音を立てた。
灼熱の空気を振り飛ばしているように見えて、私は彼をじっと見つめた。彼が陽炎のように揺らめくことはなかった。
「黄昏ちゃんが仙人になりたかったとは、寡聞にして知らなかったなあ」
「やっぱ知ってるんじゃん、芥川」
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