5.
夕方を回っていて時間も時間だったし、親が夜遅くにならないと帰って来ないから一人で来たという少女を俺は連れて歩くことにした。帰りは送ってやればいいし、ここは一人では危険すぎる。
眠いのか時折あくびをしながら歩き始めた少女は先程と打って変わって無口だった。
知らない人間に緊張しているのかもしれないなと思って特に話題を広げる努力もせずに俺はそれを放っておく。
一歩足を進め、間もなく二階の周遊も終わろうとしていたその時だった。
『何か』の気配を察知し、俺は足を止める。
参ったな、こりゃ……。
デカいのがいる。
「どうしたんですか、おにいちゃん」
春野は暢気そうな口調でそう尋ねたが俺がわりに深刻そうな顔をしているのを見てだろう、すぐに口をつぐむ。
「悪いな、春野。向こうに何か危ないものがいるみたいだから俺が戻ってくるまでどこかに隠れててくれねえか」
辺りを見渡しても閉鎖された家の玄関ドアが並んでいるのしか見当たらないが、幸い各階に設置してあるトイレがあるのが目に入った。
あそこなら姿が隠れるだろう。
「とりあえず、女子トイレにでも隠れててくれ」
そういう俺に春野は不安そうな顔をした。
「なに、心配はいらん。すぐ戻ってくる」
そう俺が続けると聞き分けよく春野は頷いた。
「……わかった」
そのまま隠れる姿を確認した俺は気配を感じる上階へ階段で上がっていく。上がっていきながら、何かがずっと引っかかっていた。
それが何かは分からないが奇妙な靄が胸中に立ち込める。
疑問その一として、突然隠れろと言った俺の言葉に疑問を口にせず、聞き分けがよかったことから考えて、春野はこのマンションについて、起こっていることについて何か知っているのかもしれない。
それも、ただの推測であるが。
後から聞いてみなければならないな、と俺は思った。
階段を抜けて三階へ出る。
そこで誰かが立っているのが目に入った。
姿を見ると、壮年の男、それも和装で何やら刀を腰に差している時代錯誤感が半端ない奴だった。
何だろう。
その全身からはただ者ではない気迫が漂ってくるが、存在感が薄い印象を受ける。
まるで普段から気配を消すことには慣れているかのような、物々しい
「久しいな、鬼」
男が声をかけてきた。深みのある落ち着いた声で、まるで滝の向こうから響いてくるようである。
「赤江、という名はまだ使っているのか」
顔がこちらを向く。
男の顔は長い黒髪に縁取られた細面で、美形な部類には入ると言えるだろう。
だが、今やその顔は傷物になってしまっていた。
右目に眼帯を付けている。
俺は知っている。その下には斜めに醜い、いうなれば不格好な刀傷が走っている。
過去に、俺が付けた傷が。
「ああ。久しいな
その顔を見て、完全に思い出した。
俺はかつて敵側に立っていた男に、当代きっての剣士に挨拶を返した。
俺の知っている個人情報によれば、怪異蔓延る裏の世界と表の世界の
裏と表の世界の顔役で交渉役が『綾瀬』であるなら、『日下』はまさに実力行使集団といったところで、こいつはその一族の頂点に立つべくして生まれた長兄。
生まれながらの選ばれた者。
だが。俺がまだ綾瀬の使い魔だった時、当主経由で入ってきた情報によると日下一族は跡目問題を巡る抗争が勃発し、その結果村雨は敗北した。
今現在は当時まだ少女であったこいつの妹に当たる人物が当主になって家を治めているはずである。
それはともかく、その跡目問題終結以降、こいつは家を離れたと聞いていた。生きているか死んでいるかも分からなかったが、以前刀を交えた間柄であるこいつとこんな形で再会することになるとは。
まったく。
因果な話もあったもんだ。
目を向けると先方はひたとこちらを向いている。視線を外す気はないようである。
「一応聞いておいた方がいいんだろうな。お前がなぜここにいる?」
「刀を抜け、赤江」
俺からの問いには答えず、静かでありながら
俺は目を
「断ると言ったら?」
「話は打ち合いながらでも出来るだろう」
俺のやんわりとした拒絶の言葉に耳を貸す気はないようで、そう言って日下は鞘から刀を抜き取った。
白刃が、窓からの月明かりに煌めく。
日下は抜き取った動きのまま自然に身体の重心を移動させ、続いて上段に構える。
攻撃する気まんまんである。どうやら抗争を避けるのは無理な相談のようだ。
姿勢を落とした後、一気に踏み込んできた日下に俺は相対する。
武士は戦闘時、三間の距離を一瞬にして詰めるという。三間とは今の単位に概算すると約五メートルであるらしい。
日下は武術の達人なだけあってその記録にも違わない、まさに達人級の素早い踏み込みで離れた距離に立っていた俺の元に到達した。
最初は避けるだけに徹しようとしたが、俺は閃いた刃が頬を切り裂き生温い血が垂れたとき、ゾクリと背筋に這うものを感じその加減がいかに甘いかを思い知らされた。
前にやり合ったときより格段に早い。そして、
仕方なく、俺は愛刀である彼岸を抜き放ち再び打ち込んできた日下の刃を払った。
鈍い金属音とともに刀が打ち返される。
幸い鬼の超回復の特質で顔の傷口はすぐに塞がるが、刀が弾き合った際のじんじんする痺れはなかなか腕から消えなかった。
俺と同程度の衝撃を受けているはずだが、日下は表情も崩さず、息も乱さない。
相変わらずとんだ鉄面皮ぶりだ。
「何故ここに居るかだったな」
再び刀を構えながら、日下は言う。
俺も刀を構え直す。殺し合う気は毛頭ないが、だからといってここで消耗する気も、潔く殺されてやる気も全くない。
「……俺が一族を離れたことは無論お前も知っているだろう。それからは漂泊の身として依頼人と直接交渉を結び、独りで怪異狩りを行ってきた」
日下が飛んだ。
上から刃が襲いかかる。押し上げるようにしてそれから逃れ、右に左にと避けながら斬り合う。
はなから殺すつもりもやる気もない俺と、やる気十分の怪異退治の専門家とあっては初めから勝負にならないも同じでらちが明かないので、俺は離れて距離を取る。
「そんな折り、ある組織からお前が今日のこの時間、この場所……旧新開マンションに訪れると聞いて、斬り合いを演じるつもりでやってきた次第だ」
なるほど、どのようにしてやってきたかは分かった。
しかし、しかしだ。
俺が知っているこの男としての目的が見えない。それがある意味俺の不快をかき立てていた。
不愉快で、不可解。
そもそもこの男は自分の事情で動くような男ではないのだ。一族に居たときから、無欲で無私がこの男の信条だった。それゆえに、人の上に立つことに向いていない男だった。
つまり、望むなら奴の刀を身に受けることぐらいは考えていたが、どうやらそれが目的でもなさそうだ。
「お前……」
俺が言いかけたとき、日下は俺の懐に飛び込み耳元で何かを囁いた。
その『言葉』で俺は目を見開く。
それと同時に血が逆流したような熱さと冷たさが混じる感覚が身を襲い、数メートル先の壁まで吹っ飛ばされた。
「ガッ」
一瞬喉に詰まった空気を吐き出し、壁からずり落ちながら俺はわずかに呻く。
肩から腹を袈裟懸けに斬られ、そのままの勢いでぶん投げられたと気付くまで痛みのせいで数秒かかる。
昔も手を焼かされたが、男にしては細身のくせになんてパワーだ。
「依頼人には『戦いの機会をやるから本気で戦え』と言われた。……しかし、怪異は今も昔も私の敵であるが、今はお前もそれを狩る側であり、目のことを含めてもお前には何の恨みもないから殺す必要はない」
言って村雨は眼帯を取る。そこには完全に固まってはいたが赤黒く歪な一筋の線が残っていた。
傷の下にある目がわずかに開く。その目に光はなく、どこまでも広がる底のない暗闇が
「怪異は無意味に無価値に、無私の心で殺す。……それでも、お前を殺す必要が無いのであれば、せめて動けなくするのが一番だろうと思ってな」
「そいつはどうも。……だが、俺にはやらなきゃいけないことがあるから、それはお断りだ。つまり、お前に殺されないためには俺も少しは本気を出さねえとな」
俺は腰から火鉈も抜き、両手に構えるようにして立ち上がった。
意外そうに日下が目を見開くというあまり見られないリアクションが見られたが、俺の行動の意図が分かったのか、『猿芝居』に奴も付き合ってくれる。
そうしながら俺は、先ほど日下から耳に囁かれた言葉の意味を、この場で何が起こっているかを頭をフル回転させながら考えていた。
『これは、猟だ。我々は、監視されている』
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