野兎
ウィリアム・ターナー作 「雨、蒸気、速度-グレート・ウェスタン鉄道」に捧ぐ。
国境を越えようと、列車に乗った。切符は買えなかった。貨物車に潜り込んで、夜通し国を越えた。
荷物と荷物との合間に、すべてが詰まっていた。
希望、絶望、過去未来、充足と孤独。
異国からの葉書、領収書、コーラの瓶、ウォッカ。列車が加速をしていく。腹が減ると、荷物を漁って缶詰を見つけて食べた。くず肉の塊。手で食べた。脂がこびりついて、貨物車の煤で指先は真っ黒になる。
貨物車の格子窓から外を見る。かつて、じゃがいものように輸送されたアフリカの奴隷のように見えるだろうか。
途中で、移動サーカスに出会った。そこだけ七色で、まるで子どものおもちゃ箱をひっくり返したような騒がしさだった。ポップコーンの弾ける音、猛獣使いの鞭の音。子どもたちの嬌声、女たちの笑い声、労働者たちの怒鳴り声。蟻んこのように人々が群がる。それでも、もう明日にはこの巨大な極彩色のテントも、猛獣たちも何処にもいないのだ。
山の峰を越え、街を越え、列車はすべてを擦過していく。
だがすべてはまだ眠り込んだままだった。一等車に乗る太った紳士たち。交代で眠りにつく車掌たち。機関士さえも、欠伸まじりに信号を送る。延々と線路の枕木だけが続いていく。
夜明け前に、列車はようやく止まった。貨物が下される前に飛び降りて、野兎が如くいつまでも駆けた。
景色はいつまでも変わらないように思えた。たびたび転けて、ズボンが破け額が切れた。それでもひたすら野兎の如く駆けた。
自然が文明に追われるように、前近代が近代社会に追われるように、蒸気にまみれながら、ずっと線路沿いを駆け続けた。
未だ眠る列車たちの車庫と白み始める星空を横目に、国境を越えていくあの揺れを夢想した。いやに軽い身体を抱えて、いつかこの先に街が見えてくることを願った。
夜の帳を越えて、国の境を越えて、民族の間を越えて……ついに、私は私という枠を越えた。
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