栞
形見分けの本には、栞が挟まっている。矯めつ眇めつそれを眺めると、手製の栞であることが分かる。
明治か大正か、古い新聞記事を固めて芯は定規かなにかであろう。すべて心中事件を扱ったものだ。私はそれを解体して、その一つ一つを丹念に読む。
生きるのを辞めた人たちがいる。辞めたる人たちがいる。これは遂にそれを成し遂げた人々の堆積だ。堆く掲げられた死の髑髏。文字に還元された死に様、あるいは生き様。大衆に消費される人生。
終いには、愛情も憐憫も哀しみもない。ただ孤独があるだけだった。物理的な独りきりがあるだけだった。
独りでいられないあの人々は、バッハの音楽すらもじっとは聞けれないでいるだろう。
項の余白に、前の持ち主が日記をつけている。それは初め、些細なことの覚え書きだった。
野菜の値段がまた上がった。どこそこの角にあるあんみつ屋の甘味は絶品だ。近頃は野犬が増えて参っている、畑を荒らすのだもの。鶏が卵を産んだ。お向かいのお婆さんが遂に死んで、家は息子夫婦が移り住むようだ……。
それが次第に変色していって、全く別のものになっている。
お姑さんと同居を始めてから、どうも上手くいかない。まるで年代物の桐箪笥の黴から這い出てきたような人だ。何かにつけて、揚げ足を取られいびられる。旦那は見て見ぬ振りばかり、決して嫁の側には立とうとしない。姑は余計に図々しく、性悪になっていく。
遂にはそれは喉が破れるような叫びになっていく。
早く死なないかしら。
早く死なないかしら。
早く死なないかしら。
早く死なないかしら……。
家族でいるのに、家族でない。全く切り離された、孤島同士のようにお互いがお互いにそっぽを向いて交わらない。
定規に巻かれた古新聞の心中記事が、そのまま前の持ち主の心を移すようだった。
独りきりでそういうものを眺めるとき、別の誰かの痛みが直接斬り込んで来るような気がする。真っ昼間に亡霊に出逢おうとするような、それは独りきりでないと、難しい感覚だった。
形見分けの本がある。
持ち主はもう取り返しにはやって来ない。やって来ることができない。そのことを、じっと思う。
心中記事で固められた栞。その栞が挟まったままの項。なんの項だろうか。はたまた、この本は一体なんだったろうか……。
平安時代の古典、鎌倉時代の軍記物、江戸時代の浄瑠璃の脚本、明治の輸入小説、経済指標、日本国憲法、世界人権宣言、ウパニシャッド、シェイクスピアの戯曲、聖書、ホラー小説、SF、ティーンズラヴ、官能小説、哲学書……。
そのどれでもであり、どれも当てはまらない。
なんだったろう。
ただ、形見分けされた本に栞が挟まったままになっていたのだ。孤独な背中が、それを挟んだまま息絶えたのだ。それだけだ。それが確かなことだったろう。
独りきりでそれを思って、独りきりでそれに耐えた。
栞の古新聞をばらばらにする。芯は定規で、竹製だった。それを屑篭に入れた後で、洋燈の灯りをしぼった。
それからレコードをかける。染みの浮いたスコアを取り出して、虚空を仰いだ。
独りでいられないあの人々は、バッハの音楽すらもじっとは聞けれないでいるだろう。
聞けないままでいるだろう。
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