飾り気のない歌
飾り気のない歌を聴こうとする。
それから四肢を伸ばす。
国際空港の中にある、ざわめき。極彩色の雑踏。顔のない難民。パスポートに還元された旅行者。
静かに耳を澄ませる。
それから四肢を伸ばす。
電車の駆け込み。誰かがそこに飛び込む音がする。
飾り気のない歌を、その時聴こうとしていた。
生命が潰れる音をその時聴いた。
それから、考えた。
今生きている世界に、一体どれくらいの価値があるだろうか。
あぁ、と詠嘆する。それは哀しみだ。
会えないことに似た哀しみ。
交ざり合えないことに似た淋しさ。
全てを無意味だと諦めた時に、あの誰かのように私も飛び込むだろう。
国際空港の中にある、ざわめき。極彩色の雑踏。顔のない難民。パスポートに還元された旅行者。
そこで、私は飾り気のない歌を聴いてみようとする。
人々の話し声が、蜂の唸り声のように聴こえてくる。
気がつくと、文庫本を持っていた。そこである項に私は指をかけている。
防人の歌が一首だけ、載っている。
どうしてそこにあるのか、分からない。
どうしてここにあるのか、分からない。
会えない哀しみが載っている。
混ざり合えない淋しさが載っている。
パレットの上で、油絵具が固まっている。
それを、私は人差し指で押している。肌の熱で、微かにそれが溶けてゆく。
理想はどんな目をしているだろう。
希望はどんな形(なり)をしているのだろう。
この憂鬱が別の何かに還元されるまで、私は待っている。
飾り気のない歌を聴いてみようと、している。
雑踏は、極彩色をしている。
電車の駆け込む音は、遠い国で鳴るような革命のファンファーレのようだった。
人と人の肩のぶつかる音は、哀しみの音だった。
誰かの飛び込む音。
生命の潰れる音は、まだおろしたばかりの長いチョークを折るような音だった……。
みんなが悲しみを抱えていた。
私は波紋の只中にいる。
世界には、波風が立っている。
その最中で、飾り気のない歌を聴こうとしている。
文庫本に誰かの手紙が挟まっていた。
防人の歌のさらに向こう側、栞代わりに使われている。それを抜き出して、私は誰かの人生の声に耳を傾ける。
考えすぎることで、言葉は滞留させられる。
そういう不器用さに耐えられず、誰かが毎日飛び込んでいく。
波紋の中の私。投げ込まれた小石の私。
沸き立つ波風をいなす器用さは、しかしもっと耐え難い。
空ばかりが、地続きに続いて流れている。
たとえ泣いても、笑っていても、変わらない。
変わらない中で、飾り気のない歌を聴いていた。
滞ることを知らない水のように、それが流れていく。
飾り気のない歌をようやくそこで、聴いている。聴けていた。
波紋の只中にいること。
会えないことに似た哀しみ。
交ざり合えないことに似た淋しさ。
例えるなら、小石になってしまうような私の存在。
四肢を伸ばす。上を向く。それから、しっかりと下を向く。
飾り気のない歌を聴いていた。もう、随分昔から。
防人が歌を残した時代から、聴いている。
国際空港のなかの、あの雑踏、language 。
電車の駆け込み。誰かの飛び込み。
細胞の胎動と、生命が潰れるあの音。
そして、飾り気のない歌。
飾り気のない歌を聴こうとする、私。
世界に波風が立っている。
飾り気のない歌を私は今聴いている。
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