第十三話 生きた証-3


 気づけば、カンナを力いっぱい抱きしめていた。俺の腕の中で、カンナは笑顔を崩し、子どものように声を上げて泣いた。


 震える彼女を引き剥がして、正しいやり方も分からず、手荒く口づけした。涙で塩辛い。固く抱き寄せ合って、一つになってしまいそうなほど密着する。息の続く限りこうしていたかった。出会ったときはもっと高いところにあったカンナの頭が、今は同じ位置にある。


 一度顔を離してから、ボロボロに泣き腫らした目で見つめ合い、もう一度唇を重ねた。柔らかい。温かい。こんなもの、幻であるはずがない。


 ウォーカーの体内時計は、正確だ。俺とカンナは、どちらからともなく体を離した。もう、時間がない。カンナは、俺よりもっと正確に、終わりの瞬間を肌で感じているようだった。


「……お別れ、みたい」


 カンナは、いつもの姉のような顔で微笑んだ。何も言えないでいる俺を見つめるカンナの微笑が、揺らいで、崩れる。端正な顔をくしゃっと歪めて、カンナは俺にすがりついた。


「――嫌だよぉ……! 死にたくないよ、せっかく、シオン君と……。これから、色んなところに行って、色んなものを見て、二人で、一緒に……!」


 初めて見せるカンナの素顔に、かける言葉をどれだけ探しても見つからなかった。ただ、震える彼女の体を力の限り抱きしめて、カンナの叫び声をかき消すくらいに泣きわめいた。


「嫌だ、カンナ、死ぬな……!! 行かないでくれ!!」


 みっともなく泣きじゃくる俺達を、あざ笑うみたいに幻の世界が音を立てて揺れた。足場が波打ち、空間を照らす白い光が、切れかけの蛍光灯みたいに明滅する。決して離すまいと強く抱いたカンナの体が、淡い光の泡を放ちながら柔らかく発光し始めた。


「――生きて、シオン君」


 しゃくり上げながら、カンナは俺を抱きしめ、振り絞った。


 嫌だ。生きたくない。カンナのいない世界でなんて。俺も死ぬ。俺も一緒に連れて行ってくれ――それらの言葉を、全て血涙と共に飲み込んだ。


 こんなに、全身全霊で、生きたいと願っている彼女に向かって、言えるものか。カンナに生かされたこの俺が、言っていいはずがない。


「あぁ……約束する。めいっぱい生きる。最後の最後まで、カンナの分まで、絶対に生きるよ」


 言い切って、精一杯笑ってやると、カンナは泣きながら俺におでこをくっつけて、目を閉じた。



「ありがとう、シオン君……愛しています」



 触れた唇が、温かい雪のような感触を一瞬残して、ふわりと天に昇っていった。腕の中にあったカンナの柔らかさが、気体になったみたいに溶けて、無数の光の泡へと変わる。


 膝から崩れ落ちた俺は、その光を必死でかき集めながら、我を忘れて絶叫した。体の半分以上がなくなってしまったみたいだった。



 ――生きて。



 暗闇の中で、彼女の声がふわりと響く。俺は叫ぶのをやめた。本当に、ひどい女だ。最後にこんな呪いをかけていくなんて。


 あぁ、生きるよ。俺たちは進む者ウォーカーだから。




――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――



 茜色の閃光が弾けた。収束したエネルギーが空へと、大地へと帰り、唸りを上げていた大気が穏やかな呼吸を再開する。迎撃体勢に入っていた斬喰炉は、元の姿へと戻った俺に目を丸くして、体の力を僅かに抜いた。


「……なぁ、斬喰炉」


 両目から静かに涙を流し、自然体で佇む俺は、いぶかしむ斬喰炉に小さく頭を下げた。


「心変わりをしていないなら、頼む。俺達を見逃してくれ」


 マリアとテトが息を呑んだ。斬喰炉は僅かに片目を見開き、低い声で言った。


「なんだ? 随分雰囲気が変わったな」


「どうなんだ」


「あぁ、そりゃ、いいけどよ。カンナはきっちりオレが喰うぜ」


「構わない」


 斬喰炉はいよいよ眉を吊り上げて怪訝けげんな表情になった。ただ、と、俺は一言だけ付け加えた。


「一つだけお願いがある。カンナを、食うのは……どうか、俺達に、見えないところで…………頼む」


 手のひらに爪が食い込んで、鋭い痛みが走る。ありったけの精神力でどうにか言い切るも、全身を駆け巡る高熱が、体を内側から焼き焦がした。


 大丈夫だよ、と、カンナの声が聞こえた。体なんてくれてやればいい。私の魂は、ずっと君の中にある。


 斬喰炉は俺をじっと見つめてから、妙に真面目な顔になった。


「あァ、分かった」


 背後のカンナを姫のように抱きかかえ、千切った右腕も大事に持ち直すと、斬喰炉は俺達に背を向けた。


「じゃあな。もう会わねえことを祈っとく」


 瞬間移動のように、斬喰炉は姿を消した。途端に空気から重圧が失せ、呼吸が楽にできるようになった。テトとマリアは、その場に膝をつき、項垂うなだれたまま滂沱ぼうだの涙を流した。


 限界だった。固めた拳を振り上げて、慟哭どうこくと共に思い切り地面に叩きつける。叫び、喚き、発狂しながら、拳が壊れるまで岩盤を殴り続けた。


 涙が枯れない。守れなかった。大好きな人の、心が通じ合えた彼女の、亡骸なきがらすら守ってやれなかった。あのまま斬喰炉に挑んで、殺されていた方が何億倍マシだったか!



 ――生きて。



 後ろから、彼女の腕が優しく俺の首に巻きついた気がした。



 あぁ、生きるよ、カンナ。どんな地獄でだろうと、それが君の願いなら。

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