第十三話 生きた証-1

 歓声を上げかけた俺達三人は、一斉に間抜けな声を出して固まった。胸を貫く数本の刃に、カンナは何が起きたか分からないという顔をしてから、俺達に、はにかむような、泣き出すような顔を向けて、その場にうつ伏せに倒れ込んだ。


「か……カンナァッ!!」


 テトが走り寄るより早く、カンナと俺たちの間に、人影が隕石の如く落下して大量の氷片ひょうへんを散らした。急ブレーキをかけたテトが、その場で腰を抜かす。


 斬喰炉、だった。着ていた服と全身の生皮を剥がされた、むごたらしい姿だったが。衣服と皮膚が瞬間凍結してから、体の内側すべてが凍りつくまでの刹那に、上へ跳んで逃れたというのか。


 焼死体のようになった全身から氷の大地を真っ赤に染め上げるほど血を流し、鬼の形相で激しく喘ぎながら、背後のカンナを見下ろして言った。


「……その、命に……感謝をォ」


 女神にでも語りかけるような眼差しで振り絞った斬喰炉の体が、きしむような音を立てて再生を試みる。死してなお、カンナの怨念に身を焼かれているが如く、生皮のげた肉体はブクブクと泡立つだけで、一向に癒やされない。


 だが、斬喰炉は、生きている。


 打ちひしがれた。生きる気力というものが目に見えるなら、今、この場で塵となって消えた。心の砕ける音が耳元で鳴った。踏み潰された虫のような顔をして固まる俺達に向かって、斬喰炉はカンナのそばに跪いてから、こちらを見もせずに言った。


「心配すんな。君ら三人には、指一本触れねえよ。カンナが、悲しむからなァ」


 斬喰炉が何を言ったのか、分からなかった。聖人のような顔をして、こいつは今、何と言った。


「元々オレは少食でなァ。一度に喰えるのはマックスでも二匹だ。喰うぶんだけ獲って、残りはリリースするのが狩りのルールだしな。そこらの乱獲野郎と一緒にされちゃ困る。まぁ、最初は一匹喰って残りを家族の土産にするつもりだったんだけど……カンナに免じて見逃す。だから、まぁ、なんだ。生きろ。次はオレに見つかるなよ」



 ――じゃあ、"どっちか"喰っていい?


 言っていた、最初から。


 コイツは、俺たちから大切な仲間の命を奪っておいて、俺たちだけ見逃そうというのか? 道徳者ぶった顔で、あまつさえ、俺に「生きろ」と言ったのか?


 俺は、今まで、コイツと同じようなことを、同じような顔でしてきたというのか。


「ふ……………………ふざ、け……」


「おぉ、喋れるのか。シオン、君もすごいニンゲンだなァ。そこの女も。オレに最初に傷を負わせたのは君だった。テト、悪かった。正直ずっとお前も、お前の親もキモいと思ってた。ニンゲンにもすごいやつがいるんだなァ。これからは、もっと敬意を持って喰うことにするぜ」


 言って、カンナの前で正座する。その所作、構図が、数時間前の俺とジフリートに重なる。頭がおかしくなりそうだった。


「やめろォッ!! その子からすぐに離れろ、薄汚えバケモノが!! お前なんかに、カンナは絶対に……」


 芋虫のように這い、上半身だけを力ずくで起こして怒鳴り散らす俺に、斬喰炉は穏やかな表情で言った。



「死んでるよ、もう」



 音が消えた。


 光が消えた。匂いが消えた。体の感覚がどこかへ飛んでいってしまった。死んだ? 誰が? まさか、そんなはずはない。カンナが死ぬはずがない。


「もう死んでるんだァ。俺が殺した。だったら、食べなきゃ。殺した相手への最大の礼儀だろう」


 おかしい。おかしいおかしいおかしい。なんで、なんでなんで、どうして、意味が分からない。どうしてそんな、世界の倫理を代表したような顔で、平然とそんなむごいことが言える?


 ジフリートの頭から舌を切り落としたときの映像が、脳裏に激しく明滅した。ウッ、と、胃の中身が滅茶苦茶にかき混ぜられて、その場で大量に嘔吐した。


 食べてきた。俺はこれまで、この手で殺した生き物をたくさん食べてきた。あまつさえ、俺は、食べることが奪った命への贖罪しょくざいを兼ねると本気で信じていた。


「やめ……やめてくれぇ……食わないでくれ……! お願いだ、お願いします、何でもする。彼女を渡してくれ、頼む、頼むよ……」


 この腕にカンナを抱かせてくれ。息を確かめさせてくれ。もし、仮に、本当に亡くなっていたとしても、亡骸を抱きしめて嘆く権利を俺にくれ。遺体を丁重に洗って、綺麗な服を着せて、思い出の品と共に棺桶に入れて、彼女のことを愛していたすべての人と一緒に、どうか葬らせてくれ。


 カンナに向かって深く頭を下げ、斬喰炉が胸の前で何か神に祈るような仕草をし始めた。あぁ、なんて、胸糞が悪い。いったい何を祈るというのか。誰に感謝をするというのか。お前は罪人だ。地獄に落ちるほかない。命の恵みに感謝する資格など、略奪者にあるはずがない!


「いただきます」


 全ての儀式を終えて、斬喰炉の目の色が変わる。目の前のご馳走に意識を奪われて、喉が音を鳴らす。口の中を唾液が溜まっていく。どこから手をつけたものかと、少しだけカンナの全身を見回してから、斬喰炉は、彼女の右腕を持ち上げた。


「やめろ、やめろやめろやめろやめろヤメロヤメロォォォォォォォォォォォォォッ!!!!」



 ぶちり、と、腕は気安くもぎ取られた。



 脳がオーバーヒートした。獣のように、俺は吼えた。茜色の空が、高笑いするようにまたたいた。俺の体を、地中から極太の火柱が貫いた。斬喰炉が、目を剥いてこちらを振り返った。


 湧き上がる力が、今までの比ではなかった。茜色の力が、世界の意志の奔流が、あっという間に自我を押し流した。構わなかった。もう人間になんて、二度と戻りたくないのだから。


 千切れかけた両足、抉れた内蔵、穴だらけの腕、首、顔。あらゆる患部が渦を巻きながら再生していく。ゆっくり立ち上がった俺の体を赤黒い光が覆い、猫のような耳、竜のような爪、狐のような尾へと変形していく。


 ミサイルを落としたような爆発が、俺を支えていたテトとマリアを、氷も岩も、全てを吹き飛ばした。斬喰炉は咄嗟にカンナの亡骸を背に隠し、爆風から守った。


 今、俺がどのような姿をしているのか、鏡を見なくとも知覚できた。五感が鋭くなったというレベルではない。風が肌を撫でる感覚だけで、俺の体がどのような形状になっているか、手に取るようにわかる。舞い散る粉塵と氷の欠片が、ほとんど停止して見える。俺は、今、バケモノだった。茜色の皮膚のいたるところから赤い眼球を生やし、五つの尾を持ち、触れただけで鉄を引き裂きそうな爪が十本の指から伸びていた。これでは、もう、人の手を握ることなんてできそうにない。



 アカネウォーカー、成体せいたい



「おい……おいおいおい。なんだそれ。なんだその再生速度。なんだその、異常な煉素マナ濃度。まるでアビスじゃねえか」


 斬喰炉の言葉が、意味を持たない音の連なりとなって耳朶じだを打つ。何を言った。分からない。お前は誰だ。ただ、何をどうしようとも、俺はお前を、許せない。


「クハハ、今日はとんでもない日だ。面白いやつとたくさん会える。けど、やめとけよ。カンナさえ凌駕りょうがするその力でも、オレには勝てないぜ。矛を納めろ。カンナに救われた命を無駄にするな」


 あぁ、こいつが何を言っているかは分からないが、直感する。俺では、この男には勝てない。挑めば、俺は殺されるだろう。――だからどうした。死にたいんだよ、俺は。お前をなるべく苦しめてから、地獄に落ちたい。きっと、ここよりは良いところだろうから。


「シオン、だめぇ……ッ!! もう……もうあたしは、誰も……!!」


 誰かの声が聴こえる。誰だ。思い出せない。


「シオン!! 駄目だ、戦うな!!」


 涙でグシャグシャに歪んだ声。誰だ。分からない。何も分からない。もう、全部、ぶっ壊してやりたい気分なんだ。


 俺の絶叫が、周囲数十メートルの大地を粉砕した。茜色のオーラが膨れ上がる。殺そう、全部。神も、世界も、もちろん、お前も。両腕の爪を剥いて広げ、両脚に力を溜め込み、まさに飛びかかろうとしたとき。



『シオン君』



 茜色の世界が、白一色に染まった。


 俺は、長い夢を見ていたような感覚で目を覚ました。俺は、真っ白な世界に立っていた。体に傷もなく、耳や尾もない、普段の俺だ。床も壁も天井も存在しない、白い液体の中のような空間だった。


「シオン君」


 呼ばれて、振り返ると、そこに彼女が立っていた。俺の命の恩人で、大好きな人。カンナ。普段どおりの姿で、そこに微笑んでいた。


「カンナ……」


 生きてた。やっぱり、あんなものは夢だったんだ。安堵のあまり叫び出しかけた俺に、カンナはすまなそうに言った。


「ごめんね、死んじゃって」


「……え」


「正確には、今から死ぬの。呼吸が止まって、心臓が止まって、脳が止まって、肉体はもう死んだ。今から最後に魂が死ぬ。たぶん一瞬。だから、ハクムの夢幻むげんの力で、今シオン君に一瞬にも満たない幻を見せているの。めいっぱい凝縮した、刹那の幻。体感時間でいうと、三分くらいはもつと思うんだけど」


「さ、三分……」


「うん」


 たった、それだけ。その短さが、かえって俺の頭をフル回転させた。たった三分で何を話す。何を伝える。いや、彼女の話を聞くことに費やすべきか。本能が、あらゆる感情を殺した。カンナとの時間を、一刻たりとも無駄にしないために。


 その果てに、俺は途端に恐ろしくなって怒鳴った。


「なんで……なんで俺のところなんかに来てんだよ!? 遠くにはいけないのか、もっと、最後に喋りたいやつ、いっぱいいるだろ!?」


 カンナとは会話が成立している。ならば、たとえ幻だとしても、ここにいるのは、世界に一人だけの、カンナの魂だ。こんなところにいていいはずがない。マーズ、ロイド、リーフィア、サヤ。俺よりもっと付き合いの長い人間がいくらでもいるはずだ。何より――


「ハクのところへ行けよ!! ハクの力なんだから、行けないはずないだろ!! 行け、今すぐ行け! 俺のことなんていいから、俺は大丈夫だから……!」


 言いながら、惨めになって涙が出てきた。カンナの肩を掴み、揺さぶる。触れる。温かい。柔らかい。あぁ……――離したくないなぁ。


「やっぱり、シオン君は優しいね。ありがとう。でも、君がいいの。最後に一人だけ会えるなら、シオン君が」


「は……」


 固まる俺に、カンナが微笑む。


「まずは、聞いてくれる? 私の話」


 頭も心もぐちゃぐちゃなのに、俺は一瞬で頷いた。カンナが話し終わるまで、絶対に何があろうと口を挟まないと決意した。


「ありがとう。……えっとね、何から話そう。ごめん、私もちょっと緊張してる」


 さすがのカンナも、少しだけ焦っているように見えた。やや間を開けて、カンナはかすかに震える声で、語り始めた。

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