第十一話 生存本能-3
辺りを漂う煉素が、急速に俺の傷口に殺到し始めた。俺の傷口を、目に見える速度で塞ぎ始める。斬喰炉はいよいよ目を丸くして、唸った。
「
傷が塞がっていく感覚は伝わるが、これは、間に合うのだろうか。既に考えられないほど血を流してしまった。体の中がいやに冷たくて、寒くて、もう指一本も動かせない。
「妙に美味そうな匂いがするとは思ってたが、キミ、相当特別な品種なのかねぇ」
舌なめずりしながら、ゆっくりと俺のもとへ歩いてくる。俺のもとに跪いた斬喰炉の裂けた口角の隙間から、ジュルリ、と大量の唾液が漏れ出した。
「や――やめてッ!!」
喉を嗄らした絶叫に、俺の体に伸ばしかけた斬喰炉の手が、ピタリと止まった。
「お……お願い。やめて。そいつの代わりに、あたしを食べて。それで、どうか見逃して……」
マリアだった。かつては憎悪と殺意にまみれていた目に涙をためて、仇にひれ伏し、
「……な、に……言ってんだ、マリア」
「ごめん、シオン……戦い方なんて、もう、これしか思いつかない」
「あらら、美しい絆だねぇ。そういうの大好物なアビスもいるけど、オレはあんまし見せないでほしいタイプなんだよね。なんか、オレが悪いことしてるみたいじゃん?」
マリアを
「ここでキミの言うこと聞いてやるほうが、逆に偽善者っぽくね? まぁ、じゃ、キミを食ってから、シオンは持って帰ることにしよう。それで――」
言い終わるのも待たず、マリアが突然金切り声で発狂した。そして斬喰炉の背中越しに、一瞬顔を上げて俺を見た。その眼差しで、俺は彼女の真意を悟った。
瞬間、轟音を上げて、斬喰炉の背後の地面から、岩盤を突き破って何かが飛び出してきた。赤熱する刃。ヴァジュラの刀身。ソレは細長い鞭のような形状となってうねるや、斬喰炉の背を串刺しにした。
「……あァ?」
口から赤い血を吐き、斬喰炉が呻く。彼にはこれが誰の攻撃かすら、分からないに違いない。大袈裟に喚いてみせたのは、ヴァジュラが地中を掘る音を悟られないようにするためか。
ここまでお膳立てされて、信頼されて、倒れてていいはずがない。
「【
最後の力をかき集めて立ち上がり、俺は身動きのとれない斬喰炉目がけて背後から踊りかかった。こちらをぐるりと振り向いた斬喰炉の目が、ギョッと見開く。
「その傷で動けんのかよぉ……?」
「死……ねぇェッ!!!」
爆炎を噴き上げ、刃が紅蓮の弧を描く。全てを乗せた一振りはあっという間に斬喰炉の首へ吸い込まれていった。
「――あーあ」
不機嫌そうに息を吐いた斬喰炉の体、ありとあらゆるところから、無数の刀が剣山の如く突き出した。
痛みはもう感じなかった。脳の、左耳の上辺りが、弾けたような音を立てた。俺の剣は、斬喰炉に届かなかった。
「…………ふ……ッ」
吐血。斬喰炉から伸びた数え切れない刃が、顔、首、胸、腕、脚、秘所――俺の体の数十箇所を貫き、内臓を抉り、傷つけてはならない部分を壊していた。動けるはずもなかった。俺は斬喰炉が刀を体に引っ込めるまで、剣山に引っかかった血みどろの肉塊でいることしか許されなかった。
「あー、サイアク、傷つけたら風味が落ちるのに。こんなのどうやって喰えってんだよ」
刀を引っ込めた斬喰炉の足元に、ドシャリと落ちた俺は、もう人間の形をほとんど保っていなかった。手足が千切れかけ、胴体も蜂の巣同然の肉塊が、血溜まりに浸っているのみだ。
ピク、ピクと細かく痙攣するだけの俺には、斬喰炉が何を言ったのか、もう全く聞こえなかった。煉素が、来ない。普段小さな怪我でも過保護に治しにやってくる煉素が、ほとんど飛んでこない。
目だけを動かして上を見て、愕然とした。煉素は、ヴァジュラから強引に抜け出した斬喰炉の、貫かれた体を治していたのだった。
ようやく聴覚や痛覚が戻ってくると、体の異常な痛みと気持ち悪さが堪えられなくなった。あぅ、あぅと情けなく呻く俺を見下ろし、斬喰炉は吐き捨てた。
「雑魚が調子乗りやがって……余計に痛えだけだろうが。大人しく喰われろよ」
本性を出し始めた。明確に見下していたからこそ、斬喰炉は穏やかに俺たちと接していた。食用の子豚へ
「さっさと死ね」
悲鳴を上げて、俺と斬喰炉の間に小さな少女の体が割って入った。マリアは涙でグシャグシャの顔で血みどろの俺に覆いかぶり、身を固くした。構わず斬喰炉が振り下ろした刀は、俺達にまで届かなかった。
「――ヤメロォォォォォォッ!!!」
涙を流して獣のように発狂したテトが、横一線に迸る電流のように駆け抜けて、斬喰炉を突き飛ばした。俺とマリアを背に隠して立ち塞がるテトは、両足をもう立っていられないほど震わせて、病的に青白い顔で泣いていた。自分で自分の行動が理解できていないような、そんな顔で。
「あ、あぁ……クソ、クソ……やっちまった……!」
「……テトォ」
笑い混じりの低い声に、テトは縮み上がった。突き飛ばされた斬喰炉は、ゆらりと起き上がり、テトに光のない目を向けた。
誰が、誰に、何をした?
物言わぬ目が、刺すように問いかける。テトはもう、滝のように汗をかいて、唾液も飲め込めないほど衰弱していた。怒った、殺意を持った斬喰炉の圧力は、桁違いだった。細胞レベルで、無条件に平伏してしまう。逆らう気など起きようもない。これを知っていたなら、テトがあぁなるのも全く頷けた。
「まずはお前からだァ」
震えることしかできないテトにゆらりと歩み寄り、斬喰炉が振り上げた刀は。
爆風の如く乱入した舞姫の白い細剣によって、受け止められた。清廉な花の香りが、死臭で充満した空間を柔らかく切り裂く。
「……まだニンゲンがいたのかよ。オレは今、機嫌が悪いんだけどなァ」
カチカチ音を立てながら刀と剣が競り合う。あっさり叩き潰すつもりで力を込めたらしい斬喰炉は、微動だにしない細剣に眉を潜めた。胡桃色の髪を振り乱した少女が、ついと顔を上げる。
血も凍るような冷たい眼差しで、カンナは至近距離から斬喰炉を見上げた。
「大丈夫ですよ。多分、私ほどじゃないですから」
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