第十話 斬喰炉-1
男からは、濃い血の匂いがした。これほど異質な気配に背後を取られたどころか、戦利品の尻尾をぶんどられたことにさえ、気づけなかった。
防衛的に
「お、ま、え……」
「やっと、見つけた……お前を殺すために、殺すためだけにあたしは!!!」
不審そうにマリアを見つめる男に、
「あぁ……ッ!!?」
地べたに組み伏せられたマリアが驚愕の形相でうめく。落雷のような速度で、マリアを上から押さえつけたのはテトだった。全身にありったけの電気を纏い、容赦ない力でマリアを完全に押さえ込む彼の顔には、尋常じゃない量の汗が浮かんでいた。なにかに怯えるように呼吸を荒げ、マリアを踏みつける。
「な、なにすんのよ……あんた……!」
「あれ? お前、もしかしてテトォ?」
口の裂けた男は片方だけギョロリと大きな右目を見開いて、テトの名を呼んだ。ビクリと、テトの体が硬直する。
「久しぶりじゃん! もう四年になるか? 大きくなったなぁ」
裂けた口角を吊り上げる男に、テトは目をぶるぶる震わせて、「そ、そうっすね。お久しぶりです、
「てことは、え? お前、ニンゲンに混ざって生きてんの? クハ、マジで?」
マリアの目が、ぐるりと上を睨んで見開かれた。テトは唇を噛んで、何も言わない。頭を、金槌で殴られたみたいな衝撃が走った。
『ピンポーン。ダメだろ、モンスターは、ちゃんと殺さなきゃあ』
初めて会った日、テトは自分をモンスター呼ばわりした俺に少しだけ目を見開いて、軽薄に笑ってそう言った。
「いくらお前がクソ弱いからって、ニンゲンの真似事はないだろぉ。オレたちのところ戻ってこいよ。前みたいに楽しくやろうぜ」
「あ……あんた、コイツの仲間だったの……!? ふざけんな!! 畜生、畜生ッ、殺してやる……ッ!!」
「おーおー元気だね。そっちの子はオレに恨みでもあんのかな? 身に覚えは、まぁいっぱいあるけど。どうすんだよテト、オトモダチに嫌われちまったぞ」
「いや、その…………トモダチじゃ……」
震えながら呟いたテトに、「ふぅん」と興味なさそうに斬喰炉は鼻を鳴らした。
「じゃあ、どっちか
怯えた猫のような目が、悲壮なほど見開かれた。
「ちょうど小腹が空いてたとこなんだよね。どっちにしようかなぁ」
値踏みするように俺とマリアを交互に観察する。目が合った瞬間、総毛立った。見てはならない、深淵の生き物に見つかったみたいだった。
「そっちのメスは喰うところあんまりなさそうだし、君にしよう。やけに美味そうな匂いがする」
「ま、待ってください!」
裏返ったテトの金切り声に、斬喰炉は目線だけそちらへ動かした。
「そ、その……」
テトは、小動物のように体を震わせて葛藤していた。まるでひどくいやらしい、低俗なことを告白するような顔で、目に涙を浮かべながら、振り絞った。
「こ、この、二人は……………………と、トモダチ、です。だから、か、勘弁してください」
マリアに覆いかぶさるようにひれ伏し、額を地面につけて、ブルブルブルブル激しく震えながら、テトは懇願した。斬喰炉は、それを聞いて、「クハッ」と吹き出した。
「マジかよテトォ、お前ほんとおもしれーな。種族の壁を超えた絆、ってやつ? わかるぜぇ、ニンゲンも、話してみたらいいやつだったんだろ」
「は、はい!」
「――バーカ」
パッと顔を上げたテトの腹に、目にも留まらぬ蹴りがめり込んだ。血を吹いて吹き飛んだテトの体が、岩壁に激突してボロ雑巾のように転がる。
「どうせ腹に入っちまう食いモンのこと、いいやつとか悪いやつとかいちいち区別してどうすんだよ。ペットにするような物好きはいるが、トモダチなんて抜かしたのはお前が初めてだ」
激痛に顔を歪め、腹を押さえて地べたで
「つーかニンゲンだって、お前のことトモダチなんて思ってねーよ。怖くて言うこと聞いてるだけだ。……それとも、お前まさか、ニンゲンのフリして仲良くしてたとか? おいおい、半端者だからってそこまで落ちたか?」
揺れる瞳で地面を見つめ、テトは拳を握って瞳に大粒の涙を溜めた。詳しいことは分からない。ただ、テトが人間のフリをして俺たちに接近した、モンスターだったということだけは分かる。堪りかねて、俺は口を挟んだ。
「友達だよ」
斬喰炉とテト、二人が弾かれたように俺の方を見た。
テトが何か隠しているのは気づいていた。それでも、綿菓子食べたり、シャンプーを怖がったり、俺に見せてくれた色んな顔まで、偽物だったとは思えない。それに、さっきテトは、震えながらも俺たちを
「テトがどこの誰だろうと、いいよ。そうやって、本人にはどうしようもない部分で、幻滅したりされたりするの、ウンザリなんだよ」
テトの目に溜まった涙が、頬を伝ってこぼれた。
「分かったら、失せろ」
俺の体から赤い蒸気が昇るのを見て、斬喰炉はピクリと反応した。
「お前、本当にニンゲンか?」
「こっちも自信ないこと、聞くんじゃねえ」
「クハ、クハハ」
斬喰炉は愉快そうに、黒い歯を見せて笑った。
「ちょっと面白いな、キミ。しかも刀使うのか。オレと一緒だね」
俺の腰に差した得物に視線を落とし、ニヤリとした斬喰炉の方には武装の類いが見つからない。どこに刀があるというのか。
「勝手に、話進めないでよ……」
テトの拘束が解けたマリアは、ふらりと立ち上がった。ヴァジュラを握り締める手が、わなわなと震えている。
「やっと見つけた……夢にまで見たお前の顔……あぁ、なんて
呪詛を吐くたび、彼女の目に宿る憎悪が膨れ上がっていく。蹴った大地を陥没させて、マリアは一直線に斬喰炉へ突進した。真横に倒したヴァジュラが、大剣サイズに肥大化する。
「よせ!!」
テトの叫びが、彼女に届くより早く。
ガラスの砕ける音がした。斬喰炉に到達する寸前、マリアの体がぴくんと跳ね、彼女の周囲を守護結界が包み込んだ。舞い散る鮮血。目を見開き、空中で痙攣しながら、マリアは斬喰炉の背後にどさりと落下した。
「あれぇ? 真っ二つに斬ったつもりだったのに」
斬喰炉は自分の手を見つめて首を傾げた。その手のひらからは、刃渡り一メートルほどもある、薄く、硬く、研ぎ澄まされた刃が、皮膚を突き破るようにして飛び出していた。
漆黒の
背筋が凍るのを感じながら、俺は悟った。
特一級の危険度を持っていたのは、コイツだったのだ。
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