第十話 斬喰炉-1

 男からは、濃い血の匂いがした。これほど異質な気配に背後を取られたどころか、戦利品の尻尾をぶんどられたことにさえ、気づけなかった。


 防衛的に居合いあいで斬りかかろうとしたそのとき、右隣のマリアが、記憶にないほど狼狽ろうばいした声で、呻いた。


「お、ま、え……」


 真円しんえんに見開かれた目の奥が、激しくブルブル揺れ動く。血の気が引いて真っ白になった肌が、病的に痙攣けいれんする。やがて、臨界を突破した激情に呼応するように、肌が耳の先まで急激に紅潮こうちょうした。


「やっと、見つけた……お前を殺すために、殺すためだけにあたしは!!!」


 不審そうにマリアを見つめる男に、激昂げきこうした彼女の剣が襲いかかる、寸前。


 またたいた白雷が、上からマリアを直撃した。


「あぁ……ッ!!?」


 地べたに組み伏せられたマリアが驚愕の形相でうめく。落雷のような速度で、マリアを上から押さえつけたのはテトだった。全身にありったけの電気を纏い、容赦ない力でマリアを完全に押さえ込む彼の顔には、尋常じゃない量の汗が浮かんでいた。なにかに怯えるように呼吸を荒げ、マリアを踏みつける。


「な、なにすんのよ……あんた……!」


「あれ? お前、もしかしてテトォ?」


 口の裂けた男は片方だけギョロリと大きな右目を見開いて、テトの名を呼んだ。ビクリと、テトの体が硬直する。


「久しぶりじゃん! もう四年になるか? 大きくなったなぁ」


 裂けた口角を吊り上げる男に、テトは目をぶるぶる震わせて、「そ、そうっすね。お久しぶりです、斬喰炉ザクロさん……」と、下を向いたまま愛想笑いを浮かべた。


「てことは、え? お前、ニンゲンに混ざって生きてんの? クハ、マジで?」


 マリアの目が、ぐるりと上を睨んで見開かれた。テトは唇を噛んで、何も言わない。頭を、金槌で殴られたみたいな衝撃が走った。


『ピンポーン。ダメだろ、モンスターは、ちゃんと殺さなきゃあ』


 初めて会った日、テトは自分をモンスター呼ばわりした俺に少しだけ目を見開いて、軽薄に笑ってそう言った。


「いくらお前がクソ弱いからって、ニンゲンの真似事はないだろぉ。オレたちのところ戻ってこいよ。前みたいに楽しくやろうぜ」


 斬喰炉ザクロと呼ばれた男の笑顔は、少なくとも同胞どうほうに向けるものではなかった。ごくごく自然に軽蔑した顔。テトは汗だくの顔で曖昧に笑うだけ。いつもの飄然とした雰囲気は見る影もない。


「あ……あんた、コイツの仲間だったの……!? ふざけんな!! 畜生、畜生ッ、殺してやる……ッ!!」


「おーおー元気だね。そっちの子はオレに恨みでもあんのかな? 身に覚えは、まぁいっぱいあるけど。どうすんだよテト、オトモダチに嫌われちまったぞ」


「いや、その…………トモダチじゃ……」


 震えながら呟いたテトに、「ふぅん」と興味なさそうに斬喰炉は鼻を鳴らした。


「じゃあ、どっちかっていい?」


 怯えた猫のような目が、悲壮なほど見開かれた。


「ちょうど小腹が空いてたとこなんだよね。どっちにしようかなぁ」


 値踏みするように俺とマリアを交互に観察する。目が合った瞬間、総毛立った。見てはならない、深淵の生き物に見つかったみたいだった。


「そっちのメスは喰うところあんまりなさそうだし、君にしよう。やけに美味そうな匂いがする」


「ま、待ってください!」


 裏返ったテトの金切り声に、斬喰炉は目線だけそちらへ動かした。


「そ、その……」


 テトは、小動物のように体を震わせて葛藤していた。まるでひどくいやらしい、低俗なことを告白するような顔で、目に涙を浮かべながら、振り絞った。


「こ、この、二人は……………………と、トモダチ、です。だから、か、勘弁してください」


 マリアに覆いかぶさるようにひれ伏し、額を地面につけて、ブルブルブルブル激しく震えながら、テトは懇願した。斬喰炉は、それを聞いて、「クハッ」と吹き出した。


「マジかよテトォ、お前ほんとおもしれーな。種族の壁を超えた絆、ってやつ? わかるぜぇ、ニンゲンも、話してみたらいいやつだったんだろ」


「は、はい!」


「――バーカ」


 パッと顔を上げたテトの腹に、目にも留まらぬ蹴りがめり込んだ。血を吹いて吹き飛んだテトの体が、岩壁に激突してボロ雑巾のように転がる。


「どうせ腹に入っちまう食いモンのこと、いいやつとか悪いやつとかいちいち区別してどうすんだよ。ペットにするような物好きはいるが、トモダチなんて抜かしたのはお前が初めてだ」


 激痛に顔を歪め、腹を押さえて地べたでうめくテトを侮蔑気味に見下ろして、斬喰炉はやれやれと吐き捨てた。


「つーかニンゲンだって、お前のことトモダチなんて思ってねーよ。怖くて言うこと聞いてるだけだ。……それとも、お前まさか、ニンゲンのフリして仲良くしてたとか? おいおい、半端者だからってそこまで落ちたか?」


 揺れる瞳で地面を見つめ、テトは拳を握って瞳に大粒の涙を溜めた。詳しいことは分からない。ただ、テトが人間のフリをして俺たちに接近した、モンスターだったということだけは分かる。堪りかねて、俺は口を挟んだ。


「友達だよ」


 斬喰炉とテト、二人が弾かれたように俺の方を見た。


 テトが何か隠しているのは気づいていた。それでも、綿菓子食べたり、シャンプーを怖がったり、俺に見せてくれた色んな顔まで、偽物だったとは思えない。それに、さっきテトは、震えながらも俺たちをかばってくれた。


「テトがどこの誰だろうと、いいよ。そうやって、本人にはどうしようもない部分で、幻滅したりされたりするの、ウンザリなんだよ」


 テトの目に溜まった涙が、頬を伝ってこぼれた。


「分かったら、失せろ」


 俺の体から赤い蒸気が昇るのを見て、斬喰炉はピクリと反応した。


「お前、本当にニンゲンか?」


「こっちも自信ないこと、聞くんじゃねえ」


「クハ、クハハ」


 斬喰炉は愉快そうに、黒い歯を見せて笑った。


「ちょっと面白いな、キミ。しかも刀使うのか。オレと一緒だね」


 俺の腰に差した得物に視線を落とし、ニヤリとした斬喰炉の方には武装の類いが見つからない。どこに刀があるというのか。


「勝手に、話進めないでよ……」


 テトの拘束が解けたマリアは、ふらりと立ち上がった。ヴァジュラを握り締める手が、わなわなと震えている。


「やっと見つけた……夢にまで見たお前の顔……あぁ、なんてみにくい、バケモノ……! 殺す! 殺す殺す殺す、ぶっ殺す!!」


 呪詛を吐くたび、彼女の目に宿る憎悪が膨れ上がっていく。蹴った大地を陥没させて、マリアは一直線に斬喰炉へ突進した。真横に倒したヴァジュラが、大剣サイズに肥大化する。


「よせ!!」


 テトの叫びが、彼女に届くより早く。


 ガラスの砕ける音がした。斬喰炉に到達する寸前、マリアの体がぴくんと跳ね、彼女の周囲を守護結界が包み込んだ。舞い散る鮮血。目を見開き、空中で痙攣しながら、マリアは斬喰炉の背後にどさりと落下した。


「あれぇ? 真っ二つに斬ったつもりだったのに」


 斬喰炉は自分の手を見つめて首を傾げた。その手のひらからは、刃渡り一メートルほどもある、薄く、硬く、研ぎ澄まされた刃が、皮膚を突き破るようにして飛び出していた。


 漆黒のみねしろがね直刃すぐは。まさしく、日本刀の刃だ。あれで、斬ったのか。何一つ見えなかった。


 背筋が凍るのを感じながら、俺は悟った。


 特一級の危険度を持っていたのは、コイツだったのだ。

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