第九話 捕食者-3

 マリアとテトが左右から上顎うわあごを持ち上げ、俺とカンナで、ジフリートの舌を切り出すことになった。


 絶命の寸前が焼き付いたジフリートの顔は、筆舌に尽くしがたい絶望の形相をしていた。硬い鱗に覆われたまぶたを下ろし、見開かれた瞳孔どうこうにそっとかぶせる。


 カンナが引っ張って伸ばすと、竜の舌は長さ一メートル以上にもなった。おもて舌乳頭ぜつにゅうとうはヤスリのように硬くザラザラしていたが、ステーキのように分厚く、肉質自体は柔らかい。切り出すには、ジフリートの喉奥に頭ごと腕を突っ込む必要があった。


 息を詰め、ぐっと口の中に頭を入れると、中は焼却炉のように焦げ臭かった。まだぬらりと唾液でまみれたジフリートの長い舌を、根本から、剥ぎ取り用のナイフで少しずつ丁寧に切り裂いた。刃を入れるたび、俺たちと同じ真紅の血液が袋をいたように溢れた。表面の硬さと分厚さで、切り落とすのに十分もかかった。


 ようやく切り出すと、血まみれの舌を水筒の水で洗い、食べられるサイズにカットしていく。その間にマリアが火を起こした。ここからは最も腕のいいカンナに任せる。


 植物油を敷いた鍋をフライパン代わりにして、両面じっくり焼き色をつけていく。ほどなくして、どんな焼肉店よりもこうばしい香りが鍋から溢れ始めた。時刻は午後一時を過ぎたあたり。朝のスープ以来何も口にしていなかった俺達の腹の虫を、あまりに魅惑的な匂いが容赦なく刺激した。


 そして、竜タンのステーキは完成した。


 小皿代わりのヤシの葉に乗せられた、一人八切れもある大ぶりのステーキ。塩と香辛料でシンプルに味付けされた竜の舌は、両面しっかりと焼けつつ、中にはまだほのかに赤みが残り、溢れんばかりの肉汁を溜め込んで照り輝いていた。


 火を囲み、輪になった俺たちはそれぞれ、カンナからうやうやしく肉を受け取った。手を合わせ、自ずと口から飛び出した「いただきます」が、これまでのいつよりも重たかった。


 楊枝ようじで肉の一切れを刺すと、いい手応えで奥まで貫通した。胃が、ぎゅっと絞られたみたいになって、口の中が瞬く間に唾液で溢れた。全細胞が、目の前の肉を口に入れる瞬間を待ちかねて、渇ききっていた。


 その一切れにかぶりつき、ひとたび咀嚼そしゃくした瞬間、肉汁と旨味が爆弾みたいに口の中で弾けた。


「――ッ!?」


 四人全員、一様に目を見開いて悶えた。タンらしい歯応えと、カルビのような肉々しい旨味の共存。噛めば噛むほどそれが溢れ出て、口の中に絡みつく。全身の疲労が一息に飛んだ。旨味で殴られたみたいな衝撃が、全部飲み込んでもまだ残っている。


 放心していた。二切れ目にすぐに手が伸びない。あんなに空腹だったのに、たった一切れで心から満足してしまった。


「美味しい……こんなに美味しいお肉、食べたことない」


「うめえ! うめえ! これ、部位によってけっこう味違うな!」


「そんなに急いで食べなくたって、誰も取りゃしないわよ」


 三つも一気に頬張るテトにマリアが呆れ顔で言った。テトの言う通り、タンは先から奥へかけて「タン先」「タン中」「タン元」、さらに根本の下半分、喉へ向けて垂れ下がった肉厚の部位「さがり」の四種類で区別される。意識して切り分けたし、カンナが均等になるように分配してくれたから、味や食感を食べ比べることができた。


 根本の部位へ行くにつれて柔らかくなり、特に希少部位の「さがり」はタンとは思えないほどジューシーで柔らかかった。一つ噛むたびに血が、肉が、細胞が生まれ変わっていく感覚。疲労が消え、頭が冴え、全身に活力が漲ってくる。


 全部食うのに、量の割に随分時間がかかった。完食すると、温かい湯に肩まで浸かっているような、えも言われぬ充足感に満ち溢れて、俺はため息混じりに四肢を投げ出した。


「……生きてて、よかった」


 この充足感を表すのに、それ以上の言葉はなかった。赤い雲に覆われた茜色の空を見上げて、俺は本心から呟いた。マリアはそんな俺を隣で見下ろして、なぜか泣きそうな顔になった。


「気球の操作方法を伝えるから、覚えたら早いうちにここを出発してね。日没まであと四時間ちょっと。十分カルデラ湖のテントに戻れるはずだよ。今夜はそこでゆっくり休んで、明日ルミエールに帰還すること。下りの方が危険だから、走ったりしないこと。マリアちゃん、二人をよろしくね」


「はい」


「ジフリートの卵と尻尾くらいなら、気球に積めそうだね。戦利品として持って帰りなよ」


 俺の方を見てカンナが言うので、そうだな、と曖昧に頷いた。どうやら、どう足掻いてもカンナを一人置いて帰る流れは変わりそうにない。


「シオン君、ちょっと来て」


 手招きされて近づくと、カンナは身を屈め、自分のネックレスに装着された三つの守護石の内、二つをパチンと留め具から外して、空になっていた俺のネックレスに付け替えた。


「お、おい」


「いいから。頑張ったご褒美。ジフリートの首を斬るのはシオン君しかできなかったし、そのための必要経費だったでしょ」


 カンナはいたずらっぽく笑った。初めて彼女に、少しだけ認められた気がして、俺は首に加わった僅かな重みにそっと触れた。


「それから、帰ったら報告と一緒にこれを受付に渡して」


 カンナはそう言って、俺に一封の封書を手渡した。そういえば、食事を早めに切り上げて、カンナは何枚もの羊皮紙にスラスラとなにやら書き込んでいた。


「これは?」


「任務の報告書。尻尾と卵を持ち帰るから大丈夫だと思うけど、せっかく飛竜討伐したのに信じてもらえなかったら嫌じゃない。《月剣》の印鑑付き文書だから、けっこう信頼してもらえるはずだよ」


「おぉ、それは……ありがとう」


 めちゃくちゃ大事なものではないか。俺は書類の管理とか苦手なので、マリアの背負った背嚢はいのうに突っ込んでおいた。


 それからカンナに気球の操作方法を教わり、ジフリートの卵を俺の背嚢はいのうに入れて尻尾だけ肩に担ぐと、俺たち三人は名残惜しさを感じながらカンナと別れ、カルデラ湖までの道のりを引き返した。呑気な話をしながら、一時間ほども歩いた。


「楽しかったなぁ。こんなに楽しい任務は初めてだ」


「元気なやつ」


「気ぃ抜かないでよね。帰りだって何があるか分からないんだから」


「分かってるってー。でもさぁ、なんだかんだ言って、竜なんて倒せるもんなんだな。実質おれたち三人だけで立てた手柄だぜ。カンナが特一級なんて脅すから、どんなやばい相手かと思ったけど」


 それは、確かにテトの言う通りだった。ジフリートの強さは本物で、倒せたのは相当運が良かったのも間違いない。先手で尻尾を切断し、卵を盗んだ俺にジフリートが激怒したおかげで、無警戒のテトとマリアが両翼を破壊することができた。


 しかし、それを差し引いても、ジフリートに特一級は言い過ぎだ。特一級とは精霊級、つまり白皇と同等の危険度を意味する。白皇と比較したとき、ジフリートの危険度は、一級中位あたりが妥当ではないだろうか。


「ジフリートに何かさせる前に倒せたってことでしょ? 相手がベストを出せないまま殺せたんだから、狩りが上手くいった証拠じゃない」


「まーなー」


 本当にそうだろうか。


 ジフリートが危険度一級程度と仮定した場合、この火山地帯全域をジフリート単体が占有しているという前提が崩れる。もう少し、様々なモンスターがここに生息していてもいいはずだ。俺たちがこの遠征で出くわしたのは、ジフリートを除けばふもとで駆除したはぐれの岩トカゲ一体のみ。



 ――いや、待て。もう一つだけ、俺たちはモンスターの痕跡と出会っている。


 溶岩洞窟の天井で見つけた、人骨の山。



 背後に、音もなく死神が現れた。



 三人一斉に動きを止めた。丸裸で獅子の檻に放り込まれたような、処刑台に乗せられたような、そんな、約束された死の臭い。気が狂うほど濃い、死の気配が、人の形をして俺の背後にいる。


 俺たちは、ゆっくり振り返った。俺が担いでいたはずのジフリートの尻尾を掴んで眼の前に掲げ、しげしげと物色する、一人の男が立っていた。


 男、という形容が果たして正しいのだろうか。


 なにしろ"ソレ"は口角が耳のそばまで裂けており、肌はコンクリートのようにゴツゴツと黒ずんで、ギョロリとした両のまなこは左右の大きささえ不揃いの、でたらめな造形の化け物だったから。二本の手と足があり、墨でつけたような黒い髪があり、ゆったりとしたズタボロの真紅の着流しに下駄を履いたその様相が、辛うじて人間の男性に見えたというだけ。


 男は、じっと、ジフリートの尾を無表情で眺めていたが、やがて、ぐるりとこちらを向いた。


「オレのトモダチ、殺した?」


 その見た目からは想像もつかないほど流暢な英語で問いかけると、ニタァ、と、耳まで裂けた口角を三日月型に吊り上げて笑った。


 全身を、滝のように冷や汗が流れた。

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