第九話 捕食者-1

 巨体の墜落した衝撃で、冗談みたいに地面が揺れた。足を止めて振り返った俺は、抱えた卵を後ろ手に隠し、大地に這いつくばるジフリートと対峙した。


 初めて、ジフリートの顔が俺より低い位置にあった。両翼を無惨に裂かれ、飛行能力を失った火竜は、それでも陰りない苛烈かれつな眼光で俺を睨み、唸った。たとえ首から上だけになろうと噛み殺してやる――そう言わんばかりの形相に、鳥肌が立った。


 首を斬るなら今しかない。もしジフリートに高い再生能力があれば、翼を治して手の届かない上空に飛ばれてしまう。それが分かっているのに、身動きが叶わなかった。躊躇ちゅうちょしたのだ。これほど凄まじい生命を、俺なんかが終わらせていいのかと。


 竜がえた。その口の中に大量の火炎が溢れる。現実に引き戻された俺は、卵を抱えたまま一直線にジフリートへ突進した。


 火炎ブレスをギリギリで避けて、ガラ空きの首を刎ねてやる。目論見通りジフリートが口を開いた瞬間、俺は身軽に真横へ飛んで【火之迦具土】の挙動に移った。


 その瞬間、ジフリートは長い首を畳むと、決死の形相で"真下"を向いた。


「ッ!?」


 大爆発。至近距離で大地に放射された爆熱の波動が、ジフリートの顔、首、胴もろとも周囲十数メートルを焼き焦がした。胸元の守護石の結界に即死を阻止された俺は、全身火傷の体で大地に投げ出された。


 顔や胸の鱗がドロリと溶け、真っ赤に赤熱した痛々しい姿のジフリートが、二十メートルほども遠くにいた。立ち上がり、ケホ、と咳き込むと、からい痛みと共に口から黒い煙が出た。


 俺が抱えた赤い殻の卵は、あの爆熱を受けても傷一つついていなかった。この調子だとたとえマグマの中に落としても大丈夫そうである。それを見越して、あの親竜は自分ごと俺を焼き殺そうとしたのだ。


 必死で子を守ろうとする親の姿に心を痛めながら、もう一人の俺は、恥も矜持もかなぐり捨てて遮二無二俺を殺そうとするジフリートの姿に、いたく興奮した。沸き立つ血液の熱さが巡る感覚と共に、全身を、薄く赤い光が包み始めた。


「生まれてくる子の顔を想像しながら、ただ穏やかに暮らしていたお前にとって、俺たちは降って湧いた害悪だよなぁ」


 無限にみなぎる活力に、もう溺れることはない。今ならぎょしてみせる。俺は自然と、歯を見せて獰猛に笑っていた。


「仕方ねえよ。他人から何かを奪うのが悪なら、命は生まれた瞬間から悪だ。休むことなく奪い続けなきゃ生きていけない。互いに害悪同士の俺達は、出会っちまった瞬間から、殺し合う以外に道がねえ」


 ジフリートは自らのナワバリを守っていただけ。一方、俺達は豊かな領地がありながら、さらなる資源、繁栄を求めて、わざわざ遠方からそのナワバリを犯した。本当の悪は俺達の方に違いない。


 そうだ。奪い続けることが生命の至上命題だと言うなら、地上で最も繁栄するのは、最も悪になり切った種族だ。地球では、人間が最悪になり切った。ほか全ての命を手のひらの上で管理し、消費し、それを名ばかりの"共存"と呼んで。


 アカネでは、一転して人は消費される側となった。今、少しずつ、その形勢が傾き始めている。食われる恐怖に怯える毎日だった人類が、高い壁に囲まれて、レストランでモンスターの肉を頬張る時代が来ている。


 俺たちが言う"幸せ"とは、他の全ての種族にとっての略奪なのだ。それを自覚した今、俺は、残酷になるべきだと思った。突き詰めて非情に、冷酷に。命を「いただく」なんて綺麗なエゴで包み隠さず、ただの略奪だと認めよう。今、分かった。冒険者とは、国民のため罪人となる仕事なのだ。


「お前を、殺すよ」


 全身を覆う赤い光が、爆発的に膨れ上がった。


 正義は勝つ、なんて誰が言ったのだろうか。生きている限り正義なんてありはしない。生きるため、守るため、種の繁栄のため――美しい何かのために命を奪い合うのは、全てただの正しい悪だ。


 竜の息吹が放たれた。飛来する炎を飛び越えて空中へ。それを追いかけ、ジフリートは炎を噴出しながらぐわりと首を持ち上げた。


 唸る業火を、両足の【ピンボール】でひらりひらりとかわしていく。使用した端から辺りの煉素を靴へ流し込んで、再装填リロード。ナチュラルが煉器を使う感覚は、こんな感じか。


 俺がゆっくりと空中を跳ねていた時間は、その実一瞬の出来事だった。俺はジフリートの真上をとった。何かを察知したように、ブレスを打ち止めたジフリートの目が警戒で強張る。


「新・棗一刀流」


 【火之迦具土】を煉術として完成させた時から、俺には密かな構想があった。


 それは、棗流の技全てを、それぞれの特性に合わせた煉術として進化させること。


 アカネウォーカーの力に溺れないため、白皇は俺に煉術を身に付けろと言った。そこから色々考えたが、どんな強力な煉術を覚えたとしても、馴染みのない力を持つことは、使ったことのない武器で片手を塞ぐようなもの。かえって戦いにくくなり、隙も増えるのではないかという懸念が勝り、どうにもしっくりこなかった。


 しかし、最初から俺の体に染みついた棗の技が、単にパワーアップするだけというなら話は別だ。


 今なら、形になる気がする。


 空中で半回転し、頭を真下へ。刀を握り直し、両足で勢いよく天を蹴った。


 パリッ、と刀身から迸る、蒼い電流。遠くでテトが目を見開いた。


「【鳴神なるかみ】!」


 急降下した俺と刀の軌跡をなぞるように、蒼い雷が落ちた。激しく帯電した刃がジフリートのうなじに食い込む。やはり【火之迦具土】ほどの威力は出せなかったが、放熱も回避もさせない圧倒的な速度。イメージ通りだ。テトという見本がいたからこの技は完成した。


 ジフリートが絶叫する。食い込む刃を押し戻す勢いで、全身から激しい熱風が吹き荒れた。数百度の熱に炙られ、顔が焼ける。眼球の水分が蒸発する。


 俺はなおも天空めがけてくうを蹴り、絶叫を返してその場に踏ん張った。爆熱を上げて唸る火竜は、今度は後ろ脚を踏ん張って無理やり立ち上がろうとする。短くなった尾が俺の頬先を掠めた。暴れ狂うジフリートの頭を上から押さえつけ、刀にあらん限りの力を込める。


「ァァァァァァァアアアアアア……ッ!!」


 最後の守護石が割れた。結界が展開し、熱風から解放された俺は束の間の酸素を取り込みながら、今、俺の全身を濃密な真紅の光が鎧のように覆っている事実に気づいた。


 こんなに大量の煉素が、自動的に俺の体を守っていたのか。どおりで守護石が砕けるまでやけに時間がかかったはずである。焼けた肌や眼球もみるみる治癒ちゆしていく。


 ――いらない。


 俺の意志で、全身をまとわりついていた赤いエネルギーの全てが、竜の分厚い首に突き刺さったままの刀に流れ込んでいった。


 守護結界の効果時間は一秒。結界が解けた瞬間、裸同然の体を地獄の熱が炙った。さっきまでとは桁違いに熱く、痛く、苦しく感じた。今すぐにここから飛び退って全身を氷水に漬けなければ、取り返しのつかない火傷を負う確信がぎる。


 考えるな、永遠に思えるこの一瞬を耐えろ。こんなすごい相手を、無傷で倒そうなんて烏滸おこがましい。眼球を守るために固く目を閉じ、皮膚が割れ、溶け、中身が剥き出しになる痛みに歯を食いしばって、うなじに食い込んだ刀に全身全霊を乗せる。


 失せかけていた刀身の稲光が、膨大な煉素の奔流ほんりゅうを浴びて一気に息を吹き返し、蒼いいかずちの塊へ。



「――【建御雷タケミカヅチ】!!」



 鳴り響いた雷轟が、閃光と共に大地を穿うがった。量感のある竜の首が胴体と切り離されて俺の足元に転がったとき、俺はなにかとても大切なものを壊してしまった気分になった。


 刀を振り下ろした先の岩盤は、人一人がすっぽり入って無限に落ちていけそうな、深く暗い穿孔せんこうを空けていた。真下方向にどこまでも貫通する斬撃――この威力、【火之迦具土】と並ぶ奥義の名に相応しい。


 火傷まみれの体に鞭打って、俺はジフリートの首の前で片膝をついた。確かに絶命しているにもかかわらず、未だその頭は、この場の誰よりも威風堂々とした存在感を放っていた。


 様々な感情が胸にせり上がったが、何一つ言葉にならなかった。せめてその場に正座すると、俺はその首に対して自分のできる最も美しい礼を送った。

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