第八話 飛竜狩り二日目-2

 何かの気配を感じて目を開くと、テトが俺の顔を覗き込んでいた。


「よっ、ねぼすけ。ちぇ、せっかく電撃バチバチ寝起きドッキリしてやろうと思ったのに」


 俺を起こしたのはその気配か。油断も隙もないやつだ。


「……今、何時だ」


「朝の六時半ってとこ」


「は!?」


 跳ね起きた。言われてみればテントの外が既に明るい。交代で眠りについたのが昨夜の午後八時前。空が点灯する午前六時まで、俺、カンナ、テト、マリアの順で二時間ずつ交代で見張ろうという話だった。本来、最初に見張りを担当した俺が、午前四時に起きて再び朝まで見張りをする計算のはずである。


「……お前、カンナに何時に起こされた?」


「五時前。マジでついさっき」


「……そんな時間まで一人で」


「仕方ねえやつだよなぁ。今はテントで寝てる。ギリギリまで寝かしといてやろうと思って。途中でマリアが起きてきて、どうして起こしてくれなかったのってキレて大変だったんだぜ」


「まぁ、じゃあカンナ以外は三人ともぐっすり眠れたってことか……今日はどうにか、これ以上足を引っ張らないようにしないとな」


 起きてテントを出ると、マリアが昨日の鍋の残りを煮込み直していた。


 昨日の鍋は、水を足してかさ増しし、味を整えてスープにした。顔を洗い、冷たい水を飲むと一気に頭が冴えた。体調は悪くない。今日も元気に働けそうだった。昨夜のことは、あまり思い出さないようにしていた。


 七時半頃になって、カンナが起きてきた。少し寝癖がついた髪の毛も眠たげな目も、彼女の美しさを少しも損なってはいなかった。


 カンナは俺と目が合うと、一瞬目をそらして、それから小さく胸のあたりで手を振ってきた。俺も気まずさに目をそらし、「おはよ」とだけ返した。


 四人でスープを飲み干し、俺達の二日目が始まった。


「《腐乱スライム》と生卵が混ざり合ってからの中で熟成された《マーキングボール》の悪臭は、ありったけの洗剤で洗っても丸三日は落ちない。シオン君、君の鼻なら、ジフリートのいる方角が分かるんじゃない?」


 言われて俺は、大きく鼻から息を吸い込んだ。二度、三度と繰り返すたびに鼻の血管が拡がり、血流が早まる。嗅覚が刃を研ぐように鋭敏になっていく。――すると、腐卵臭を数年煮詰めたような激臭の残滓ざんしが、まるで光の道筋となって目に見えるかのように、鮮明に感じ取れ始めた。


「……あっちだ。ここは風が弱いから、臭いの方角がよく分かる」


「そう言われてみれば……なるほど。一度この臭いを捕まえて覚えれば、二度と見失いそうにないほど強烈ね」


「ホントだ、くっせぇー! さっきまで気にならなかったのに!」


 二人も気づいたようだった。意識しなければ、もうそれほど目立つ悪臭ではない。しかし、地面に、岩に、植物に、空間に、こびりつくようにして滞留たいりゅうし続けている。これは、すごい。これならたとえ俺でなくても追跡が可能だ。


 調査の拠点ベースキャンプをこの湖畔に定めた俺たちは、テントを建てたまま必要最低限の荷物以外置いて、行軍を開始した。


 臭いを辿り黙々と歩く間、モンスターとは一度も出くわさなかった。やはりジフリート一頭の存在感が、他のモンスターをことごと排斥はいせきしているのである。カルデラ湖を後にしてからは、再びひたすら渇いた赤褐色の大地が続いた。灼熱の中を、二時間、三時間、ひたすら歩いた。


 絶壁はヴァジュラを伸ばして乗り越え、大地の裂け目もヴァジュラを伸ばして橋代わりにした。もはやパーティーに一本、旅の必需品である。


 障害を物ともせず、臭いの示す方角を最短ルートで突き進んできた俺達は、いよいよヤツとの距離が迫っていることを肌で感じていた。悪臭が着実に近く、濃くなってきたことを抜きにしても、隠しきれない存在感、圧迫感が呼吸を狂わせる。


 岩の大地に空いた、巨大なショベルカーで掘ったような直径十メートルもの大穴の前で、俺達は立ち止まった。


「……この、下だ」


 果たして、俺の言葉通りだった。ふちから穴の底を見下ろす。薄暗い穴底まで二十メートルはくだらない、長い筒状の風穴――その底に、うごめく赤い鱗の巨体。


 ジフリート。穴の底から噴き上げるような熱気と圧力に、俺たちはたまらず一度顔を引っ込めた。


「どうする、まだ気づかれてないよ」


 潜めたカンナの問いに、俺は短く答えた。


「俺にやらせてくれ」


 道中の打ち合わせでも同じことを提言していた。勝算はある。不意打ちの一撃なら、岩でも鉄でもぶった斬れる俺の【火之迦具土】がもっとも有効なのだ。一撃で首を斬れば、どんな相手だろうとそれで終わる。


 音もなく刀を半身抜いた俺に、カンナとマリアがうなずいた。


「テトもいいか? 必殺技があるって言ってたが」


「一発目は譲ってやるよ。おれの必殺技はチャージに時間食うし、音と光が派手すぎて不意打ちにならねーからな」


 よし、と俺は立ち上がった。この奇襲で仕留め損ねた場合の手順も確認しておく。テトは離れて必殺技のチャージ、残り二人で俺の救出。カンナが気を引いている隙にマリアのヴァジュラで穴から脱出する。


 一つ息を吐く。それが引き金だった。俺の気配が風に混じり、空気と同化するように薄まっていく。目から光が消える。三人が、俺の変貌に息を呑む。


 棗流隠遁いんとん術【無色むしきどう】。剣術というよりも、これは忍術に近い。


 鎌倉時代初期から存在する棗流は、日本の歴史の暗部。生み出された闇の技は剣術だけに留まらない。忍者や御庭番衆おにわばんしゅうにも棗流の使い手は多くいたと聞く。


 足音を消し、呼吸を殺し、まばたきを止め、ついには心臓の鼓動さえ一時的に極限まで小さく抑えることで、生き物ならば必ず発する気配の一切を絶つ【無色の動】。この訓練は本当に地獄だった。俺が会得に一年もかかったのはこれくらいのものだ。妹のコトハが一ヶ月足らずで身につけたときには、真剣に家出を考えた。


 穴のふちに立った俺は、そのまま、すぅ……と体を傾けた。音もなく足が地から離れ、頭から穴底へ吸い込まれていく。


 自由落下しながら刀を構える。【無色の動】の利点は、どんなに緊迫した場面でも平静でいられること。緊張、恐怖、興奮、そういった動物的な感情は全て、精神の奥底に無理やり押し込んで固めている。これはぐっと息を止め続けているような状態に近い。


 緊迫した場面であればあるほど感情が荒れ、【無色の動】を維持していられる時間は短くなる。これほどの局面、俺の精神力ではもってせいぜい五秒。――十分すぎる。真っ直ぐジフリートの首めがけて落ちていき、その距離が残り十メートルを切っても、依然として奴が俺に気づく気配はない。


 ただ、【火之迦具土】を繰り出す瞬間だけは、どうしても【無色の動】を解かなければならない。【火之迦具土】は刃の向き、手首の角度、あらゆる所作にミスが許されない一撃必殺の奥義だ。意識の大半を気配を絶つ方へ持っていかれていては、とても繰り出せない。


 残り七メートル。まだだ。ギリギリまで距離を稼ぐ。集中状態が深くなるごとに、自由落下する速度が次第にゆっくりと、スローモーションのように感じられてきた。赤い宝石のような鱗がびっしり生え揃った、蛇のごとく長い首のうなじへ、狙い通りあやまたず落下していく。六メートル、五メートル、四メートル……――今!


 息を吸い込み、刀を握る手に力を込めた俺が【火之迦具土】の挙動に入った瞬間、迫りくるジフリートの巨体が湯気とともに赤熱した。


「っ!?」


 長い首がぐるりと曲がり、竜の目が一瞬にして俺を捉える。狙っていた急所の位置がそれだけで大きくずれた。信じがたい反応速度。【無色の動】を解いたとはいえ、俺が立てたのは僅かな呼吸音だけのはず。


 標的までまだ残り三メートル。どう足掻いても刀の届かないこの距離で、ジフリートの体から放散した爆熱が俺をあぶった。狭い穴に充満した熱は、唯一の逃げ道である真上へ、凄まじい勢いで駆け昇る。


 死ぬ――直感した俺のとった行動は、半分が生存本能、もう半分は刀の振り下ろしどころを失った剣士の、悪あがきだった。


「お……ラァッ!!」


 俺を焼き焦がさんとする灼熱に向かって、俺は真っ向から【火之迦具土】を叩きつけた。


 大気中の煉素をことごとく吸い込んだ黒い刃が、ジフリートにも負けぬほどあかい炎を噴き出した。


 紅蓮の尾を引いて閃いた神速の斬撃は、ジフリートの放った熱風を縦一文字たていちもんじにぶった斬った。視界を染め尽くしていた赤い熱が左右に吹き飛び、涼しい空気が肌を撫でる。


 煉術、【火之迦具土】の炎は"斬れる炎"。あらゆるものを両断する炎。岩でも鉄でも、熱風だろうと。


 熱気の晴れた穴底で、俺とジフリートの視線が中空でかち合った。その距離わずかにニメートル。隙を晒しているのは、刀を振り抜いた直後の俺だった。次の瞬間、ジフリートの五メートルは下らない巨大な尾の先端が、ピクリと動いた。


 ――来る!


 ジフリートは剣のように鋭い尾を自在に操り、突き刺すようにして攻撃してくる。その瞬間最高速度はまさにライフル弾。反応するには、常に尾を目の端に捉え、初動の"力み"を見破らなければならない――道中、カンナに口酸っぱく言われた留意事項。これさえできなければ瞬殺されて終わりだから、戦いには参加させないと言われた。


 カンナに失望されることはジフリートより怖い。必死で常に注視していたおかげで尻尾攻撃の初動を看破できたが、大技を振り抜いた勢いで俺の体は無防備に回転しており、避けようもなかった。そこから先は、自分でもどのように動いたか説明できない。ただ、ここでさっきの【火之迦具土】の勢いを、ビビって少しでも殺したら、串刺しにされてしまうと思った。


 鎮火しかけた刀に、再び紅蓮の炎が巻きついた。


 両足の【ピンボール】で空中を蹴り、落下を止めると同時に回転を加速。ぐるりと旋回する俺のすぐ下を、弾丸の如く尾が通過した。空中でぐるぐる前転する俺の刀が、煌々こうこうと鮮やかな炎の円環えんかんを描く。


 技を止めるな。一発目の勢いを、次の一撃に利用しろ。俺の意志に合わせ、ありったけの煉素が俺の体に雪崩込んでくる。



「――【火之迦具土ひのかぐつちれん】!」



 逆巻さかまく爆炎が、竜の尾を中腹から切断した。

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